月下の邂逅 ∟夜が落ちる、心も落ちる。

 夜の帳が下りる頃、窓の外には薄暗い紫色の空が広がっていた。白布賢二郎は寮の自室で教科書を閉じると、肩の力を抜いて息をついた。デスクライトの淡い光が、白布の疲れた表情を浮かび上がらせる。ついさっきまで手元の問題集に集中していた筈なのに、気づけばノートの余白に『名前』の文字を何度も書き連ねていた。シャーペンの鉛が紙に残る跡すら、彼女の存在のように思えてくる。これは、白布にとってはもう日常茶飯事だった。  彼女を想えば、胸が妙に騒ぐ。身体の奥底からせり上がる熱が、理性を脅かす。それは制御の効かない熱波のようだった。何度も経験してきた思春期特有の現象に、白布は舌打ちをした。窓ガラスに映る自分の姿が、どこか情けなく見える。 「全く……」  呟きが静かな部屋に溶け込んでいく。壁に掛けられた時計の音だけが、規則正しく時間の流れを刻んでいた。  白布はスマホを手に取り、名前とのメッセージ画面を開く。ディスプレイから漏れる青白い光が、白布の顔を照らす。送るべきか、送らざるべきか――その些細な選択すら、白布にとっては難問だった。彼女はマイペースで、どこか浮世離れしているところがある。だからこそ、余りに唐突なメッセージを送れば、予想外の返答が返ってくることもしばしばだった。  親指が画面の上を彷徨い、何度か文字を打っては消す。 『今、何してる?』  結局、シンプルな一文を送る。送信ボタンを押した瞬間、後悔と期待が入り交じる感覚が胸を満たした。数秒後、既読のマークが付き、返信の吹き出しが現れる。 『本を読んでいたよ』  相変わらずの落ち着いた文面だった。短い言葉なのに、その向こう側にある彼女の姿が鮮明に浮かんでくる。名前は幼い頃に病弱で、同世代と比べても随分と大人びていた。幼少期、外で遊ぶことが叶わず、本の世界に浸る時間が多かった所為だろうか。言葉の選び方も、思考の深さも、どこか年齢よりも成熟しているように思えた。その為、やり取りをしていると時折、自分が子供のように思えてしまう。 『何、読んでたの?』  画面に向かって問い掛ける白布の瞳に、微かな好奇心が宿る。 『昔の幻想文学。言葉遣いが美しくて、読んでいると心が静かになる』  ふと彼女の声が脳内に蘇る。透き通るような晴れた声で、静かに語る姿がありありと思い浮かぶ。夜の湖面に映る月のように、揺らぎながらも確かにそこにある存在。その声に耳を傾ける度、何かが心の奥深くに沈殿していくような感覚があった。  窓の外では雲が流れ、星々が瞬き始めていた。白布は椅子から身を乗り出し、窓を開けた。冷たい夜気が流れ込み、頬を撫でる。 『そういえば、今日、学校で面白いことがあった』  そう送ると、すぐに返信が返ってきた。彼女の反応の速さが、どこか嬉しい。 『どんなこと?』  白布は少しだけ口元を綻ばせた。こうして、自分の何気ない話に耳を傾けてくれることが、ひどく心地良かった。誰にでも親切な名前だが、自分への関心だけは特別であってほしいという願望が、ひそかに胸の中で育っていた。 『天童さんがまた変なことを言い出してさ、新しい占いを考案したとかで、皆に試してたんだよ』  メッセージを送ると、名前からは直ぐに『天童さんらしいね。何を占ったの?』と返ってきた。その淡々とした言葉の裏に、僅かに微笑んでいる様子が目に浮かぶ。学校での出来事を共有することで、少しだけ距離が縮まったような気がした。  ふと、白布の脳裏に彼女の姿が過る。黒曜石のような双眸、白磁のような肌、薄桃色の唇――。幻想のような美しさを湛えながらも、確かに存在する少女。記憶の中の彼女は、実際よりもどこか神々しく映る。それでも、その気配は紛れもなく現実のものだった。  逢いたい。  その衝動が、唐突に心の奥から湧き上がる。喉が渇き、指先が震える。思い詰めた顔で画面を見つめ、白布は決断した。 『今から会えないか?』  送信した瞬間、指先が熱を帯びるのを感じた。画面を見つめる瞳には、期待と不安が混在していた。名前は気紛れに思えて、その実、自分のペースを崩さない。だからこそ、突然の誘いには応じないかもしれない――そう思った。  しかし。 『いいよ。じゃあ、マンションの前で待ってる』  瞬間、白布の心臓が跳ね上がる。胸の内側から広がる喜びに、思わず声を漏らしそうになるのを抑えた。  白布はスマホを握り締め、椅子から飛び上がるように立ち上がった。窓から入る風が頬に触れる。  名前に会える。  ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。  慌ただしくジャージを羽織ると、部屋を飛び出した。廊下を駆け抜ける足音が、静かな寮の中に反響する。同じ階の生徒が顔を出して怪訝な顔をしたが、白布はそれに構わず階段を駆け下りた。  寮の玄関を抜け、夜風に包まれながら彼女の住むマンションへと駆け出す。道路沿いの外灯がぼんやりと照らす道を進みながら、白布は唇を噛んだ。足が地面を蹴る度に、心臓が高鳴る。  ――名前は、俺のことをどう思っているんだろう?  勿論、付き合っているのだから、好意を持たれているのは分かっている。けれど、それ以上の深い部分に在る感情を、彼女がどんな風に抱いているのか。  時に見せる穏やかな微笑みの奥に、どんな想いが隠されているのか。  アスファルトを踏み締める足音だけが、夜の静寂を破っていく。白布の吐く息が、冷たい空気の中で白い靄となって消えていった。  そんなことを考えている内に、マンションの前に辿り着いた。息は上がり、汗が額を伝う。それでも、視線は一点を捉えていた。  そこに、彼女は居た。  夜露を吸った薔薇のような髪が夜風に揺れる。淡いグレーのワンピースの裾が、ふわりと翻る。外灯の光を浴びた彼女の姿は、別世界の存在のようだった。夜の闇に溶け込むような美しさに、白布は思わず息を呑んだ。 「……賢二郎」  白布の名を呼ぶ声は、夜の静けさの中で不思議な響きを持っていた。呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。自分の名前がこれ程まで特別に聞こえるのは、名前が呼ぶ時だけだった。 「早かったね」  静かに微笑む名前に、白布は軽く息を吐いた。彼女の肩には薄いショールが掛けられ、その下から覗く鎖骨の線が儚げに浮かび上がっていた。 「……走って来たから」  吐息が白い靄となって、夜気に溶けていく。 「ふぅん。そんなに急いでくれたんだね」  名前がほんの少し微笑んだように見えた。それは僅かな口角の動きだったが、白布にとっては大きな変化だった。その仕草が、白布の胸を締め付ける。自分だけが見ることのできる表情だと思うと、胸の内側から温かいものが広がっていく。 「少し休んでから、部屋に行こうか」  白布は無言で頷く。名前の手が、そっと伸びてくる。細くて白い指先が、自分の袖を軽く引いた。その接触だけで、心臓の鼓動が早まる。  そのたった一つの所作が、白布の全身を熱くさせる。  ――やっぱり、俺は名前には敵わない。  そう思いながら、白布は静かに名前の後を追った。二人の間には言葉以上のものが流れていた。それは若さゆえの不器用さと、確かな想いが混ざり合ったような、言い表せない感情だった。  夜の冷えた空気の中、二つの影が並ぶ。柔らかい月明かりが、寄り添う二人を優しく照らしていた。マンションの前のベンチに腰掛け、白布は深く息を吸った。この静謐な時間が、永遠に続けばいいのに。  そして、白布は名前の横顔を見つめながら、これからの時間を想像して胸を熱くした。



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