夜香の座標 ∟ただ隣で、同じ空気を吸うこと。それが、何よりの幸福だった。

兄貴が登場します。  夜の冷気が肌を刺す中、隣に座る名前の体温だけが確かな熱源だった。マンション前のベンチで暫し息を整えていると、彼女の纏う柔らかな香りがふわりと鼻腔を擽る。それは古い本の紙の匂いと、どこか甘い花の香りが混ざり合った、彼女だけの特別な香りだった。 「そろそろ、上がろうか。風邪を引いてしまう」  静寂を破ったのは、名前の声だった。白布はこくりと頷き、立ち上がる彼女に続いて重い足を持ち上げた。走ってきた疲労よりも、彼女の隣に居る緊張の方が、今は身体に深く圧し掛かっている気がする。  オートロックの扉を抜け、静まり返ったエントランスホールを進む。エレベーターの中、鏡張りの壁に映る自分達の姿が、まるで映画のワンシーンのようだった。ジャージ姿の自分と、夜の闇から抜け出してきたようなワンピース姿の彼女。そのちぐはぐさが、どうにも現実味を欠いている。  名前の部屋の扉が開かれると、白布はいつも吸い込まれるような感覚に陥る。壁一面の本棚、窓辺に置かれた観葉植物、そして、部屋の隅で静かに時を待つオーボエ。彼女の世界を構成する全てが、そこには在った。生活感がありながらも、どこか美術館の一室のような、清澄な空気が流れている。 「適当に座っていて。何か、温かいものでも淹れるよ」  そう言ってキッチンに向かう名前の背中を見送りながら、白布は使い込まれたソファに身を沈めた。ふかふかのクッションが緊張した身体を優しく受け止めてくれる。ローテーブルの上には、彼女が先程まで読んでいたであろう幻想文学の本が開かれたまま置かれていた。美しい言葉が並ぶページをぼんやりと眺めていると、思考が少しずつ解れていく。  やがて、ティーカップを二つ持った名前が戻ってきた。湯気の立つカップから、ハーブティーの爽やかな香りが立ち上る。 「ありがとう」 「どう致しまして」  向かいのクッションに腰掛けた名前は、自分のカップを両手で包み込むように持ち、静かに息を吹き掛けた。その一つひとつの所作が優雅で、白布は見惚れてしまう。 「ねぇ、賢二郎」  ふと、名前が顔を上げた。夜の深海を思わせる双眸が、真っ直ぐに白布を捉える。 「イケてる時間って、なんだと思う?」 「……は?」  予想の斜め上を行く問いに、白布の思考は完全に停止した。イケてる時間? なんだ、それは。天童さんの占いと同レベルの突拍子のなさだ。 「……なんだ、それ。急に」 「さっき読んでいた本に、似たような一節があってね。少し気になったんだ」  名前は事もなげに言う。彼女の中では全てが繋がっているのだろうが、白布にはその思考回路を辿る術がない。それでも、彼女が投げ掛けた問いを無視することはできなかった。 「イケてる、時間……」  白布は腕を組み、真剣に考え込む。バレーで、牛島さんに完璧なトスを上げた瞬間か。寸分の狂いもなく、相手コートに突き刺さるスパイクを見た時か。それとも、テストで満点を取った時か。どれも達成感はあるが、「イケてる」という軽い言葉で表現するのは、少し違う気がした。  白布が答えに窮していると、部屋の扉が遠慮なく開かれた。 「おや、賢二郎くんじゃないか。俺の可愛い妹と、何やらイケてる時間を過ごしているようだね」  そこに立っていたのは、名前の兄、兄貴だった。いつも通りの黒い服。しかし、今日のTシャツの胸元には、極太の明朝体で『妹が尊い』という、ストレートな心の叫びがプリントされている。イケてるとは到底思えないその出で立ちに、白布は思わず眉間に皺を寄せた。 「兄貴兄さん。ノックくらいしてほしいな」 「すまない、すまない。だが、俺の創作意欲が、今まさにノックを置き去りにして、走り出してしまったんだ。次の物語のテーマは『イケてる時間』にしようと思っていてね。是非、君達を参考にさせてほしい」  にこやかに言う兄貴に、白布は内心で舌打ちをした。この兄妹は揃いも揃って、思考がフリーダム過ぎる。 「邪魔だよ」  名前がぴしゃりと言い放つ。その冷たい声色に、しかし、兄貴は全く怯まない。 「つれないことを言うね、名前。例えば、こう……見つめ合って、どちらが先に瞬きをするか、とか。そういうベタなヤツでいいんだ。さあ、やってみてくれ」 「……帰ってくれないかな」 「それとも、賢二郎くんが、名前の髪を優しく撫でるとか。どうだい、賢二郎くん。君のミルクティー色の髪も素敵だが、名前の髪も素晴らしいだろう?」  満面の笑みで捲し立てる兄貴の言葉に、白布の顔にじわりと熱が集まる。確かに、名前の髪は綺麗だが、それをこの兄の前でどうこうする気には到底なれない。 「兄貴兄さん」  名前が静かに立ち上がり、兄の腕を掴んだ。そして、抵抗する素振りも見せない長身を、いとも容易く部屋の外へと押し出していく。 「わたし達のイケてる時間を邪魔しないで。自分の部屋で、そのTシャツでも眺めていたらどう?」 「おお、名前! 俺の邪魔をする姿すら愛らしい……! それもまた、イケてる時間の一つの形……!」  バタン、と無情に閉められた扉の向こうから、まだ何か聞こえてくる気がしたが、白布はそれを聞かなかったことにした。嵐が過ぎ去った後の静けさが、部屋に満ちる。 「……ごめんね、兄さんが」 「いや……」  白布は首を振った。慣れた、とは言えないが、免疫は付いてきた。  ソファの隣に、名前がそっと腰を下ろす。先程よりも近い距離に、心臓が大きく脈打った。彼女は悪戯っぽく微笑むと、白布の顔を覗き込んだ。 「それで、答えは見つかった? イケてる時間」  白布は一度目を伏せ、息を吐いた。もう、格好付けるのは止めだ。この彼女の前では、どんな理屈も通用しない。 「……分からん」 「そう」  名前は小さく頷くと、徐に白布のジャージの裾を指で摘まんだ。 「わたしはね、好きな人と、ただ同じ空気を吸っているだけの時間が、一番イケていると思うんだ」  その言葉は、どんな鋭いサーブよりも正確に、白布の心のど真ん中を射抜いた。制御の効かない熱が、また身体の奥からせり上がってくる。名前の真っ直ぐな言葉は、いつも白布の平静をいとも簡単に奪っていく。 「……お前は、いつもそうだ」 「そうかな?」  小首を傾げる仕草が、白布の理性を更に揺さぶる。名前は白布の動揺に気づいているのか、いないのか。その黒曜石のような瞳の奥は、今日も見通せない。  白布はもう耐え切れなかった。彼女の細い腕を引き、自分の腕の中へと閉じ込める。驚いたように少しだけ目を見開いた名前の、薄桃色の唇が直ぐそこに在った。 「……俺も、」  掠れた声で、なんとか言葉を紡ぐ。 「お前と居る時間が、一番……イケてる、と思う」  ぶっきら棒な告白。それでも、名前の瞳が嬉しそうに細められたのを、白布は見逃さなかった。彼女の白磁の肌に、窓から差し込む月明かりが淡い影を落とす。幻想的な美しさに眩暈がしそうになりながら、白布はゆっくりと顔を寄せた。  触れるだけの、優しいキス。ハーブティーの香りと、彼女自身の甘い香りが混ざり合う。時間が止まったような、永遠にも思える一瞬。  唇が離れると、名前が満足そうにふわりと微笑んだ。 「うん。やっぱり、これが一番、イケてる時間だね」  その言葉と表情に、白布は完全に降参した。やっぱり、俺はこいつには敵わない。胸の奥から込み上げてくる愛しさに、白布はもう一度、深く彼女を抱き締めた。  夜はまだ長い。そして、二人のイケてる時間は、まだ始まったばかりだった。



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