香水の余白 | 嗅ぐ、されど告げず | Title:焼却炉でみた夢

 午後の陽光が斜めに差し込み、グラウンドの喧騒を遠くに追いやる。白鳥沢学園の敷地の片隅、今はもう使われることのない古びた焼却炉の周りだけは、時が止まったかのようにひっそりとしていた。錆びた鉄の匂いと、乾いた土埃、そして微かに漂う春の若草の香りが混じり合う、忘れられたような場所。風が吹けば、近くの木々の葉がさわさわと囁き合い、地面に落ちた枯葉がカサリと音を立てる。それ以外には、殆ど物音ひとつしない。  白布賢二郎は、その静寂の中で、自らの浅はかな行動を猛烈に後悔していた。  手にした一冊の女性向けファッション誌。その重みが、今は鉛のように感じられる。 「……この雑誌、絶対に燃やそう」  低い呟きが、誰に聞かれるでもなく空気に溶けた。  数時間前の教室での出来事が、まだ生々しい記憶として脳裏に焼き付いている。火照った頬の感覚、高鳴った心臓の音、そして――我ながら信じられない言葉を発してしまった、あの瞬間。全ての発端は、この手に握られた雑誌の記事だった。  ――『気になる彼をドキッとさせる この春、大本命の勝負フレグランス特集! 彼を虜にする香りはコレ!』  ……馬鹿馬鹿しい。こんな浮ついた見出しに、一体何を期待していたのか。  数週間後に控えた、名前の誕生日。  一体どんなものを贈れば、彼女は喜んでくれるだろうか。そんなことを考えていたら、普段は手に取ることのない類の雑誌を、いつの間にか購入していた。  そもそも、柄にもなくこんなものを熟読していたから、昼休み、名前が手首に付けた香水の馨りに過剰反応してしまったのだ。ふわりと漂った甘く柔らかな芳香に、吸い寄せられるように顔を近づけ、あろうことか「……悪くない、かも」なんて、普段の自分からは到底考えられないようなことを口走り――挙句の果てには、殆ど無意識に「好きだ」とまで。勿論、香りが、という意味で言ったつもりだったが、彼女の頬が夕焼けのように赤く染まるのを見て、自分の言葉が如何に誤解を招き易いものだったかを悟った。  この雑誌さえなければ。こんな記事さえ読んでいなければ、あんな赤面ものの失態を演じることもなかった筈だ。彼女の白い手首に鼻を寄せた時の、心臓が跳ね上がるような感覚。「もう一回だけ嗅がせろ」などと、まるで変質者のような台詞を口走った自分を思い出すだけで、今すぐこの場に穴を掘って埋まりたい衝動に駆られる。  いや、違う。本当に燃やしてしまいたいのは、この薄っぺらい紙の束ではない。  もっと奥深く、胸の内で燻り続けている、厄介な感情そのものだ。  ――お前が、好きなんだ。  あの時、喉元まで出掛かって、必死で飲み込んだ本音。その言葉の熱が、未だに舌の根に残っているような気がする。言えないもどかしさが、じりじりと心を焦がす。こんなことなら、いっそ――。 「……さっさと燃やそう」  思考を断ち切るように、再び小さく呟く。感傷に浸っている暇はない。証拠隠滅、いや、この忌まわしい記憶ごと灰にしてしまわなければ。  白布は意を決して、焼却炉の錆び付いた鉄の扉に手を掛けた。ギィ、と鈍い音を立てて開いた暗い口内へ、雑誌を乱暴に放り込む。傍らに置かれていた、いつのものとも知れない点火棒を手に取り、その先端を灯そうとした、正にその瞬間―― 「賢二郎?」  鼓膜を震わせたのは、凛と澄んだ、しかしどこか柔らかな響きを持つ声だった。  びくり、と白布の肩が跳ね上がる。心臓が喉元までせり上がってくるような衝撃。まさか、このタイミングで、一番見られたくない相手に。  反射的に振り返ると、そこには予想通りの人物――名前が立っていた。夕暮れ前の淡い光を浴びて、彼女の白い肌と絹糸のような髪が一層際立って見える。いつも通りの静謐さを湛えた大きな瞳が、不思議そうに白布を見つめていた。 「何をしているの?」  その問いに、白布の思考は一瞬停止する。マズい。見られた。最悪のタイミングだ。 「……いや、別に。ちょっと、不要なものを処分しようと……」  咄嗟に言い訳をしながら、焼却炉の中身を隠そうと身動ぎする。だが、時既に遅し。名前の視線は、白布の背後、開け放たれた焼却炉の暗がりへと真っ直ぐに向けられていた。そして、すぐに白布の手元――いや、焼却炉の中に放り込まれた雑誌へと移る。表紙に踊る、あの忌まわしい特集タイトルが、彼女の目にどう映ったか。 『この春、大本命の香水特集! 彼を虜にする香りはコレ!』  名前は一瞬、僅かに目を細めた。何かを推し量るような、或いは単に文字を読んでいるだけのような、判別のつかない表情。 「……燃やすの?」 「……ああ」  努めて平静を装って頷く。声が上擦っていないか、内心冷や冷やしながら。 「何故?」  核心を突く、短い問い。それに、白布は言葉を詰まらせた。  答えは決まっている。恥ずかしいからだ。昼間の出来事を思い出したくないからだ。だが、それをこの本人に、どう説明すればいい? そんな器用さが、自分にあれば苦労はしない。 「……もう、興味がなくなっただけだ」  我ながら苦しい言い訳だと自覚しつつ、白布はそっぽを向いた。頬が熱い。きっと耳まで赤くなっているに違いない。 「ふぅん」  名前は、それ以上は追求することなく、静かに頷いた。そして、少しの間、何かを考え込むような仕草を見せた後、ふと悪戯っぽい光を瞳に宿して、焼却炉の扉を覗き込んだ。 「賢二郎」 「……なんだ」  ぶっきら棒な返事しかできない自分が情けない。 「燃やすのは禁止されているし、棄てる前に、一緒に読まない?」 「…………は?」  白布の思考回路が、完全にショートした。今、彼女は何と言った? イッショニ、ヨマナイ?  理解が追いつかない。脳が情報の処理を拒否している。幻聴か? 「折角だから、参考にしようかなと思って」  名前は、白布の混乱など意に介さず、至極真面目な顔で続ける。その表情からは、冗談を言っている気配は微塵も感じられない。  参考……? 参考にするとは、一体何を? 白布は呆然と彼女の顔を見つめることしかできない。 「賢二郎は、わたしがどんな香りを纏ったらいいと思う?」 「なっ……!」  追い打ちを掛けるような質問に、今度こそ白布は呼吸を忘れた。  ――それを、俺に、聞くのか。  馬鹿か。お前はそのままで、何も付けない方がいいに決まってるだろうが。彼女本来の、清潔で、どこか甘く、心を落ち着かせる香りが、白布は何よりも好きだった。香水なんて余計なもので、それを掻き消してほしくない。心の底からそう思っている。だが、そんな本音を、この状況で、どう伝えろと?  言葉にできない感情が喉を塞ぎ、白布はただ口を開けたり閉じたりを繰り返す。まるで酸素を求める金魚だ。  そんな滑稽な白布の様子を見て、名前は微かに、本当に微かにだが、口元に笑みを浮かべた。 「……困らせてしまった?」 「いや、そういうわけじゃ……ないけど……」 「でも、さっきは『もう一回嗅がせろ』って、あんなに熱心に言ってくれたのに?」  ぐさり。  心臓を的確に抉る一言。忘れたい記憶を、最も的確なタイミングで、名前は何の躊躇いもなく掘り返してきた。しかも、楽しんでいる節すらある。  自分の顔から、一気に血の気が引くのを感じた。いや、逆か。沸騰したように熱が集まっていく。  ――くそ、もういっそ、この焼却炉に俺ごと突っ込んで燃やしてくれ。灰になった方がマシだ。  言葉に詰まり、俯くしかない白布を見て、名前は更に悪戯っぽく口元を綻ばせた。その表情は、普段のクールな印象とは少し違う、年相応の少女の顔をしていた。 「ねぇ、賢二郎」 「……なんだ」  もう、どうにでもなれ、という心境だった。 「次のオフの日、もし良かったら……一緒に香水を選びに行かない?」 「………………は?」  三度目の、間の抜けた声。今度こそ、本当に幻聴かもしれない。 「わたしに似合う香りを、賢二郎に選んでほしいのだけれど……ダメかな?」  その言葉が、白布の脳に完全に浸透するまで、焼却炉の煙突から立ち上る見えない煙を数えるくらいの時間が必要だった。  目の前の少女が、とんでもない提案をしている。オフの日に、二人で、香水を選ぶ? 俺が、彼女の香水を? 「……俺が?」 「うん」 「お前の、香水を?」 「うん」 「俺が、選ぶのか?」 「うん。賢二郎の意見、聞いてみたいから」  何度確認しても、答えは変わらなかった。彼女の瞳は真剣で、期待の色すら浮かんでいるように見える。  春の午後の、柔らかな風が二人の間を吹き抜けていく。遠くで聞こえる筈の部活の声も、今はもう耳に入らない。白布の心臓だけが、且ての焼却炉の火力を上回る勢いで、煩く、激しく鳴り響いていた。 「……考えとく」  漸く絞り出した、精一杯の返事。それ以上は、今の白布には何も言えなかった。  すると、名前は、花が咲くように、ふわりと微笑んだ。 「うん、待ってる」  その屈託のない笑顔に射抜かれ、白布は悟った。  ――この雑誌、燃やす必要なんて、最初からなかったのかもしれない。  いや、寧ろ、この雑誌があったからこそ、この予想外の展開が生まれたのだとしたら……?  そして、数日後に迫ったオフの日が、途方もなく恐ろしく、同時に、どうしようもなく楽しみになってしまった自分自身に気づき、白布は燃やす筈だった雑誌のことなどすっかり忘れ、ただただ頭を抱えるのだった。焼却炉の前の静寂が、やけに甘酸っぱく感じられた。



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