気づかれた期待値 | 気のないフリはもうできない。
オフの日まで、あと一日。
カレンダーに記されたその日付が、やけに意識の中心に居座っている。白布賢二郎は、試合前でもないのに、久し振りに妙に落ち着かない心地で朝の光を迎えた。胸の内で微かなさざ波のように広がるそわそわとした感覚。その正体が、明日、
名前と香水を選びに行く約束にあることは、とうに自覚している。けれど、それを認めてしまえば、この浮き足立つような感情が際限なく膨らんでしまいそうで、白布は今日一日、努めて平静を装うことを――何よりも、隣の席の彼女に悟られぬよう、強く心に決めていた。
要するに、"気のないフリ"を徹底する、ということだ。
朝のホームルームが始まる前の、騒めきと陽光が入り混じる教室。隣の席に
名前が腰を下ろし、ふわりと柔らかな気配が漂った。
「――お早う、賢二郎」
鼓膜に馴染んだ、けれど、今日はどこか特別に響く穏やかな声。常と変わらぬ挨拶の筈なのに、白布の心臓は不意に跳ねた。
「ああ、お早う」
意識して低く押し出した声は、自分でもぎこちなく響いた。まるで借り物の台詞のように。普段通りの声量を保てているだろうか。そんな不安が胸を過る。
「明日の予定だけれど……午後からで大丈夫?」
「ん? ああ、別に……俺はいつでも」
反射的に、素っ気ない返事をしてしまった。その瞬間、鋭い後悔が白布を襲う。喉元まで出掛かった"楽しみだ"という素直な言葉を、意地と羞恥心が寸前で飲み込ませる。全く、この捻くれた性格はどうにかならないものか。今更、言葉を取り繕うこともできず、白布は逃げるように視線を落とし、まだ何も書き込まれていないノートの白いページを睨み付けた。
気のないフリ。フリだ。あくまでも、ポーカーフェイスを貫く為の。……だが、もし、この芝居が真実だと受け取られてしまったら? その可能性に思い至り、背筋に冷たいものが走る。
「……そう。じゃあ、午後からということで」
名前の返事は、あくまで平静を装っていた。けれど、気のせいだろうか。ほんの一瞬、彼女の声から陽だまりのような暖かさが翳ったように感じられ、白布は再び、自分の選択を内心で激しく詰った。
その日の放課後。
まだ熱気の残るグラウンド脇。土と汗の匂いが混じる空気の中、白布はベンチに深く腰掛け、心地よい疲労感に身を委ねていた。夕暮れの気配が漂い始め、空が淡いオレンジ色に染まりつつある。そこに、
名前が静かな足取りで近づいてきた。彼女の手には、控えめなデザインの小さな紙袋が握られていた。
「……これ、明日、使うかもしれないから、先に渡しておくね」
「え?」
差し出された紙袋を受け取る。中には、色とりどりの香水瓶が並ぶパンフレットと、手のひらサイズのメモ帳。そして、何故か一本のボールペン。
「もし気になるものがあれば、チェックしておいてくれると嬉しいな。選ぶ時、参考になるかもと思って」
「ああ、うん……わかった」
パンフレットの華やかな写真から、ふわりと甘い幻のような香りが立ち上る気がした。そう答えながらも、白布は
名前と視線を合わせることができなかった。無関心を装う仮面の下で、罪悪感と臆病さがじりじりと胸を焼く。素直になれない自分への苛立ちが募るが、好意を悟られることへの恐怖がそれを上回ってしまう。
そんな白布の葛藤を見透かしたかのように、
名前が小さな声で呟いた。
「……余り、楽しみじゃなかった、かな」
その小さな呟きは、白布の胸に鋭い棘のように突き刺さった。
「……えっ?」
思わず顔を上げると、
名前はすぐに「ううん、なんでもない」と儚げに微笑み、さっと背を向けて歩き去っていく。夕陽に照らされたその後ろ姿を、白布はただ見送ることしかできなかった。
――違う、そうじゃない。
心の奥底では、明日という日が待ち遠しくて堪らないのだ。だが、その感情の奔流を表に出してしまえば、きっともう、冷静な自分ではいられなくなる。彼女の香りを選ぶ。自分が選んだ香りを、彼女が身に纏う。そんな想像をするだけで、思考が痺れるような感覚に襲われ、心臓が喉元までせり上がってくる。だからこそ、平静を保つ為には、この不器用な"気のないフリ"に頼るしかなかったのだ。
そして、翌日。
春の柔らかな日差しが降り注ぐ駅前の広場。待ち合わせの時間にはまだ少し間があるというのに、白布の足は自然と早まり、気づけば指定された時計台の前に立っていた。騒めきと活気に満ちた休日の空気。やや汗ばんだ掌で、昨日受け取った紙袋の感触を確かめる。パンフレットは、昨夜、ベッドの中で何度も見返してしまった。幾つかの香りの説明には、ボールペンで小さな印が付けられている。
不意に、春風がふわりと甘い香りを運んできた。どこかの花か、それともすれ違う誰かの香水か。視線を上げると、人混みの中から、見慣れた、それでいて、今日はひどく新鮮に見える姿が現れた。いつもと違う、柔らかな素材のブラウスと風に揺れるスカート。陽光を浴びて煌めく髪。その清楚な佇まいに、白布は思わず息を呑み、言葉を失った。
「お待たせ、賢二郎」
「……あ、ああ。今来たところだから」
気のないフリ、気のないフリ、気のな――いや、もう限界だ。これ以上、平静を装うことなどできそうにない。
名前の視線が、白布の持つ紙袋に向けられる。
「……その紙袋、持ってきてくれたんだ。パンフレット、見てくれた?」
「……あー、まあ、少しは。ぱらぱらっと、な」
我ながら苦しい言い訳だ。実際には、穴が開くほど見つめていたというのに。
すると、
名前はくすりと小さく笑った。その悪戯っぽい光を宿した瞳が、真っ直ぐに白布を射抜く。
「ふふ、そう。じゃあ、行こうか。今日は“気のないフリ”じゃなくて、ちゃんと賢二郎の意見、教えてくれると嬉しいな?」
――見透かされていた。
白布の懸命に築き上げてきたポーカーフェイスは、
名前の柔らかな指摘の前に、呆気なく瓦解した。最初から、全てお見通しだったとでも言うような。
笑いを含んだその一言に、白布は堪らず顔を背ける。けれど、耳まで赤くなっているであろう頬の熱は、春の日差しの中で誤魔化しようもなかった。
これが彼の、精一杯の"気のないフリ"の、余りにも呆気ない終焉である。そして、頬の熱を感じながらも、どこか、その看破された事実に安堵している自分も居ることに、白布は気づいていた。