フロレア・ルミナの香るパレット | 手首に落ちる潮の囁き | Title:潮のかおり

 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、白布賢二郎は自分が別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥った。外の喧騒が嘘のように遠退き、空気が密度を増したように感じられる。それは単に静かだというだけではない。目に見えない無数の香りの粒子が空間を満たし、それ自体が一つの結界を張っているかのような、侵し難い気高さがあった。香水専門店『フロレア・ルミナ』――その名が示す通り、まるで光と花々が織り成す香りの聖域だ。  無意識の内に、白布は背筋をぴんと伸ばしていた。足元には、一歩踏み出す毎に沈み込むような感触の、厚手の絨毯が敷き詰められている。それが音という音を全て吸い込んでしまう為、店内は水を打ったような静寂に包まれていた。壁際には磨き抜かれたガラスケースが並び、その中では様々な形状の香水瓶が、稀少な宝石のように鎮座し、計算された照明を受けて繊細な光を放っている。普段、汗と熱気渦巻く体育館に身を置くことの多い白布にとって、ここは余りにも異質な、そして少しばかり居心地の悪い空間だった。 「すご……」  我知らず、感嘆とも畏敬ともつかない呟きが口を衝いて出た。隣で、苗字名前が、ふ、と息だけで小さく笑う気配がした。その笑みに含まれた、どこか柔らかな響きと、隠し切れない嬉しそうな色合いを感じ取り、白布は自分の耳朶がじわりと熱を帯びていくのを自覚した。何故、彼女が嬉しそうなのか、その理由を正確には理解できない。けれど、彼女がこの空間を楽しんでいるらしいことは、彼にとって救いのようなものだった。 「いらっしゃいませ。本日は、香水をお探しでいらっしゃいますか?」  凛とした声が、静寂の中に滑り込んできた。声の主は、艶やかな黒髪を項できっちりと結い上げ、糊の効いた白いブラウスに黒いタイトスカートという、非の打ちどころのない装いの女性スタッフだった。その無駄のない所作と、穏やかでありながら、どこか客を値踏みするような鋭さも感じさせる瞳は、正に"香りの案内人(コンシェルジュ)"と呼ぶに相応しい風格を漂わせている。 「……あ、はい。その……彼女に、似合う香りを、探してて……」  言い終えてから、自分で口にしたその返事の気恥ずかしさに、白布は背筋に電流が走るような感覚を覚えた。普段、こんな風に想いを言葉にする機会の少ない自分が、こんなストレートなセリフを発したことに、内心で激しく動揺する。「彼女に似合う香り」――その響きが、やけに甘ったるく、そして重たく感じられた。ちらりと横目で盗み見ると、名前が驚いたようにぱちりと目を瞬かせ、顔を少しだけこちらに向けているのが見えた。気のせいか、彼女の白い耳も、ほんのりと桜色に染まっているように思える。まだ恋人未満の微妙な距離感にある二人の間で、その一言は小さな波紋のように、静かに心を揺らし合っていた。 「まあ、それは素敵なお客様。ようこそ、お越しくださいました。どうぞ、ごゆっくりと、お二人だけの香りの旅を楽しんでいってくださいませ」  スタッフは、白布のぎこちなさを見透かしたように、しかしそれを咎めるでもなく、にこやかに微笑んだ。そして、壁際に設えられた、様々な香りのサンプルが並ぶアンティーク調のテーブルへと二人を優雅に導いた。  そこからは、未知なる香りの洪水だった。スタッフは、細長い純白のムエット(試香紙)を手に取り、次々とガラス瓶から繊細な霧を吹き付けていく。その手つきは、まるで儀式のように厳かで、美しい。 「まずはこちら、『フルール・レーヴ』でございます。フランス語で"夢見る花"という名を持つ、春の陽だまりのような、柔らかなフローラルの香りです」  差し出されたムエットを、名前がそっと鼻に近づける。白布も倣って香りを確かめるが、甘く優しい花の香りは悪くないものの、どこか、彼の中の名前のイメージとはそぐわない気がした。 「……うん、とても優しい、良い香り。だけど、わたしには、少しだけ甘過ぎる、かも……」  名前は丁寧に香りの印象を確かめながら、ふと白布の方へ視線を向けた。言葉には出さない。「ねぇ、賢二郎はどう思う?」と、そう言わずに問い掛けてくる、信頼の籠もった眼差し。その視線を受け止め、白布は少し考えた後、正直な感想を口にした。 「……そうだな。お前には、もっと……なんて言うか、水みたいに透明感のある感じの方が、似合うと思う」  自分の語彙力のなさに内心で舌打ちしつつも、そう言うしかなかった。甘ったるいだけではない、凛とした芯のある、それでいてどこか儚げな透明感。それが、白布が抱く名前のイメージだった。彼にしては素直なその一言に、名前が微かに口元を綻ばせたのを、白布は見逃さなかった。それだけで、少しだけ胸の奥が温かくなる。  次は、弾けるようなシトラス系の爽やかな香り。続いては、夜の帳をイメージしたと言う、少し癖のあるスモーキーなオリエンタルノート。ラベンダーの安らぎ、気品あるローズ、官能的なアンバー、落ち着きのあるサンダルウッド……次から次へと現れる香りの波に翻弄されながら、二人は少しずつ、この芳香な世界に感覚を委ねていった。普段、余り使うことのない嗅覚という感覚が研ぎ澄まされ、世界がいつもとは違う様相を呈してくるようだ。  どれくらいの時間が経っただろうか。幾つかの香りを試した後、スタッフがふと動きを止め、ガラスケースの中から、ひときわ目を引く深い海の底のような青色を湛えた小瓶を、恭しく手に取った。その佇まいは、他の華やかな瓶とは一線を画し、静かな主張を放っている。 「こちらは、『L'eau de Maree(ロー・ド・マレ)』――フランス語で"潮の香り"という意味を持つ、当店でも特に根強い人気を誇る一本でございます」 「潮の……香り?」  白布が訝しげに問い返すより早く、スタッフは彼の射抜くような視線を真っ直ぐに受け止め、確信に満ちた声で静かに頷いた。 「はい。ただ爽やかなだけではない、どこか切なさを伴う透明感。寄せては返す波のような、記憶の余韻。海辺を吹き抜ける風の気配……そういった、言葉にし難い情景や感情を大切に紡いで作られた香りです。もしかしたら、彼女様に、とてもお似合いになるかもしれません」  そう言って、スタッフは名前の華奢な手を取り、その内側の白い手首に、極少量の液体を、祈るようにそっと乗せた。  名前は促されるままに、ゆっくりと目を閉じた。そして、深く、静かに、その香りを吸い込む。長い睫毛が、微かに震えている。その瞬間、白布の胸の奥で、何かがふっと灯るような感覚があった。見慣れていた筈の彼女の横顔が、その香りによって輪郭を変え、何故か、とても遠い、手の届かない存在のように感じられた。けれど同時に、その儚さが堪らなく愛おしく、守らなければならないもののように思えた。 「……これ」  思わず、声が漏れた。自分でも驚く程、確信に満ちた声だった。気づけば、白布の視線は、名前の手首の一点に釘付けになっていた。 「この香り……悪くない。と思う」  それは、理屈ではなかった。香水の複雑な構成も、トップノートからラストノートへの変化も、専門的な香調も、白布には何一つ分からない。ただ、彼の心が、魂が、これだと強く告げていた。この香りは、名前のものだ、と。  ゆっくりと、名前が目を開けた。その大きな瞳には、先程までとは明らかに違う、何か強い感情の揺らぎが見て取れた。それは単純な喜びとも、驚きとも違う。もっと複雑で、深く、一言では到底言い表せないような色が宿っていた。そして、その揺れる瞳で、白布のことを真っ直ぐに見つめていた。 「……そう?」  やっと絞り出したような声は、微かに震えていた。肯定なのか、戸惑いなのか、判別がつかない。  だが、白布は迷わなかった。いつになく、躊躇いのない、きっぱりとした動作で頷いた。バレーボールで、ここぞという場面でトスを上げる時のような、絶対的な確信がそこにはあった。 「ああ。これにする。……この香水、ください」  スタッフは、二人の間に流れる言葉にならない空気を感じ取ったのか、目を細め、深く頷いた。 「畏まりました。素敵なご選択ですね」  香水が、薄葉紙とリボンで丁寧に、美しくラッピングされていく。その間も、白布と名前の間に言葉はなかった。けれど、その沈黙は気まずいものではなく、寧ろ、先程までの喧騒が嘘のような、満ち足りた静けさだった。言葉以上に雄弁な何かが、確かに二人の間で通い合っているのを感じていた。  やがて、小さな、けれど確かな重みを持つ紙袋が、白布の手に渡された。その瞬間、彼はふと、名前の方へと視線を向けた。先程の確信はどこへやら、急に不安が鎌首を擡げる。 「お前……これ、本当に気に入った?」  その問いは、彼自身の自信のなさの裏返しだった。自分が選んだものが、本当に彼女の心に響いたのか。その本心を聞くのが、少しだけ怖かったのだ。  けれど、名前はそんな白布の不安を見透かしたように、ふっと息だけで笑い、そして、短く、けれどはっきりと答えた。 「うん。……これは、わたしの香りになると思う」  その言葉は、どんな賛辞よりも、白布の心を深く満たした。安堵と、それ以上の喜びが、じんわりと胸の中に広がっていく。  "香りを選ぶ"という、ただそれだけの、けれど二人にとっては初めての特別な体験が、目には見えない確かな絆となって、二人の関係を静かに、しかし確実に深めていく。  それは香水という、儚くも鮮烈な"記憶の鍵"を通じて交わされた、二人だけの密やかで、美しい誓いのようだった。店を出た時、夕暮れの光が、紙袋を持つ白布の手を優しく照らしていた。



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