君の脈に寄せる潮のノーツ | 海色のオードトワレ、潮の調べ。
春特有の、どこか浮き立つような喧騒と柔らかな陽光が満ちる駅前の大通り。その一角にある香水専門店『フロレア・ルミナ』の重厚なガラス扉を押し開け、外に出たのは、午後もだいぶ傾き始めた頃だった。隣を歩く
名前の歩幅に合わせながら、白布賢二郎は眩しさに目を細めつつ、手にした小さな紙袋の感触を確かめる。そして、無意識の内に彼女の横顔を盗み見ていた。
いつもと変わらない、穏やかで、どこか夢見るような双眸。けれど、その硝子玉のように澄んだ瞳の奥底に、ほんの僅かな、しかし見過ごせない緊張の色が滲んでいるように感じられたのは、気のせいだろうか。いや、違う。白布は自身の胸の内に巣食う、微かな、だが確かなざらつきを自覚していた。先程までの、厳かな儀式を執り行うかのような"香水選び"の時間の中で、自分はきっと何か、伝えるべき大切な言葉を飲み込んでしまった。そんな、後悔にも似た予感が燻っていたのだ。
「……疲れてない?」
思考の淵から引き戻されるように、ぽつりと漏れた問い掛け。それは、白布自身が抱える僅かな疲労感を、相手への気遣いにすり替えたような響きを持っていた。
名前は、その声に含まれた不器用なニュアンスに気づいたのか、気づかない振りをしているのか、小さく首を横に振る。
「ううん。大丈夫。こうして歩くの、好きだから」
柔らかく微笑みながら、
名前の視線が白布の持つ紙袋へと注がれる。そこには、先ほど二人で選び抜いた、小さな香水瓶が収まっている筈だ。
「色々、試させてもらったね。どれも本当に素敵だった。甘い花の香りも、瑞々しい果実の香りも。でも……最後に賢二郎が選んでくれた香りが、わたしは、一番、嬉しかった」
「……ああ。それが、一番お前に似合うと思ったんだ」
今度は何の抵抗もなく、素直な言葉が口を衝いて出た。その言葉に、
名前の白い頬が春の夕暮れの空のように淡く、儚く色づくのが見えた。白布は、その小さな変化から目を逸らすことができない。
スタッフの丁寧なナビゲートに従って試した数々の香りは、確かにどれも魅力的だった。或るものは満開の庭園を思わせる華やかなフローラル、或るものは陽光を浴びた果実のようにジューシーな甘さ、また或るものは氷のように怜悧でクールな印象を与えた。けれど、白布の心を最終的に捉え、そして「これだ」と確信させた一本は、それらとは少し趣を異にしていた。
"L'eau de Maree"――潮の香り。
青く澄み切ったガラス瓶に封じ込められたその液体は、トップノートに弾けるようなシトラスと、仄かな潮の匂いを感じさせた。やがて、それは洗い立てのリネンのような清潔感と、どこまでも続く白い砂浜、そして、春の午後の少しだけ物憂げな空気を想起させる、透明で清らかなミドルノートへと移り変わる。ラストには、微かにムスクとアンバーが残り、軽やかさの中に、どこか胸の奥を掴まれるような切なさと、静かな深みを宿していた。
――これが、
名前に似合う、と直感的に思ったのだ。
彼女が纏う、どこかこの世のものではないような、掴みどころのない透明感。そして、普段は決して表に出さないけれど、その奥底に秘められた、深く豊かな感情の揺らぎ。それらをもし香りにしたならば、きっと、この潮の香りのように、清冽で、切なくて、そしてどこまでも深いものになるだろう、と。
店で、スタッフがその香りを彼女の手首にそっと乗せた時、
名前は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと目を開けると、揺れる瞳で、白布のことを真っ直ぐに見つめたのだ。その時の彼女の双眸には、喜びだけではない、何か言葉にしきれない複雑な感情が揺らめいていた。その一瞬の翳りが、白布の心に小さな棘のように引っ掛かっていたのだ。
「
名前」
不意に名前を呼ぶと、彼女は足を止め、不思議そうに白布を見上げた。
「何?」
陽が更に傾き、街路樹の影が長く伸び始めている。近くを流れる川から、少し湿り気を帯びた風が二人の間を吹き抜けていった。川面の向こうには、夕陽に染まり始めた空を映して、小さな堤防が見える。歩いて数分の距離だった。
「……ちょっと、あそこまで寄っていかないか」
白布の唐突な申し出に、
名前は一瞬、驚いたように小さく瞬きをした。けれど、すぐに彼の意図を察したかのように、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って頷いた。
川の流れが海へと注ぎ込む、その境界線。河口近くの堤防の上に並んで座ると、潮の香りを孕んだ風が、より一層強く肌を撫でた。二人は言葉を交わすでもなく、遠くオレンジ色に染まる水平線をただ黙って見つめていた。船の汽笛が、遠くで微かに響いている。
その静寂が、却って白布の内に溜まっていた言葉を引き出す切っ掛けとなった。
「……なあ」
掠れた声が、風に掻き消されそうになる。
「うん」
隣から、静かな返事があった。
「昨日の、放課後……お前が、言ったこと」
「……」
名前の肩が、ほんの僅かに強張ったのを、白布は見逃さなかった。
「"楽しみじゃなかったのかな"って」
白布はポケットの中で、汗ばんだ手を強く握り締めた。自分の心臓の鼓動が、やけに大きく、耳元で煩く響く。それは遠くを行き交う漁船のエンジン音よりも、ずっとずっと大きく、切迫していた。
「そんなわけ、ないから」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど力強く響いた。けれど、その語尾は僅かに震えていた。
名前がゆっくりと、白布の方を振り向く。夕陽を受けた彼女の髪が、風に梳かれてさらさらと流れた。その瞳は不安げに揺れている。
「……本当?」
囁くような声。
「本当だ」
今度は迷いなく、真っ直ぐに
名前の目を見て言い切った。
「お前と、こうやって二人で出掛けられるだけでも、俺にとっては……凄く、特別で、嬉しくて……」
言葉が、そこで詰まる。普段、感情を言葉にするのが得意ではない白布にとって、これ以上を表現するのは容易ではなかった。だが、彼は目を逸らさずに続けた。
「それに……俺、元々、お前の香り、好きだったんだ。香水とか、何も纏ってない、お前だけの匂いが。……だけど、今日みたいに、一緒に新しい香りを選んで、それを一緒に感じられるっていうのも……悪くなかった。寧ろ、凄く……良かった」
すると、
名前は黙って頷き、そっと白布の手から紙袋を受け取った。そして、中からあの青いガラス瓶を取り出す。小さな銀色のキャップを捻り、繊細な指先に、ほんの一滴だけ、透明な液体を落とす。それを白い手首の内側に優しく馴染ませた後、躊躇うように、けれど確かに、彼の方にすっと差し出した。
「……潮の香りって、なんだか不思議だね」
名前の声は、風に溶けるように静かだった。
「……ああ」
「胸が締め付けられるみたいに、少しだけ泣きたいような気持ちになるのに、でも、全然、苦しくはない」
白布は吸い寄せられるように、差し出された手首にそっと顔を近づけた。目を閉じると、まず清冽な潮風のような香りが鼻腔を満たし、次いで、その奥から
名前自身の、柔らかく温かい肌の匂いが立ち上ってくる。二つの香りが混ざり合い、それは白布の胸の奥を、じんわりと、しかし確実に熱くさせた。
そして、
名前がぽつりと独り言のように呟いた。
「賢二郎が、わたしの為に選んでくれたから……この香り、これからずっと、わたしにとって、特別になるんだと思う」
その言葉が、最後の引き金だった。白布の喉が、ぐっと鳴る。伝えたい想いは、まだ言葉にならないまま胸の中に溢れていた。けれど、言葉を探す代わりに、彼の手が、極自然に、
名前の華奢な手をそっと包み込んだ。触れた指先は少し冷たかったけれど、すぐに互いの熱が伝わり始める。
潮風が、夕陽に染まる堤防の上で、二人を優しく包み込んでいた。
それは、甘美な花の香りではなかった。刺激的なスパイスの香りでもない。けれど、深く、静かに、そして鮮明に記憶に刻まれるであろう、透明な香り。
この一瞬が、この香りと共に、きっといつか――遠い未来で振り返った時、二人にとって、かけがえのない一つの"原点"として輝くのだろう。
白布賢二郎は、繋いだ手の温もりと、吹き抜ける潮風の中で、その予感を、確かに肌で感じていた。