春光と琥珀の吐息
∟君の香りに抗えない。
兄貴の描写が含まれます。
昼下がりの教室、窓際に座る白布賢二郎の視線は、手許の雑誌に釘付けだった。柔らかな春の日差しが、埃っぽい空気の中で光の粒子を躍らせ、ページの上に淡い光彩の帯を描く。
――『この春、大本命の香水特集! 彼を虜にする香りはコレ!』
ぱらり、と頁を捲る。艶やかなパヒュームコロンのボトルがずらりと並ぶ写真の向こうに、白布の脳内では特定の人物の姿が浮かび上がっていた。絹糸のような髪が風に揺れる様子、ほんのりと頬を染める表情、そして、何より――
「……
名前」
ぼそりと想い人の名前を呟く。
静謐な美しさを纏う彼女は、普段から仄かに甘やかな香りを漂わせている。香水ではなく、彼女の肌や体温が自然と持つ、どこか儚げな匂い。それは春の朝の空気みたいに清らかで、夜明けの星のように神秘的だった。あれに匹敵するフレーバーが、この世に存在するとは思えない。
しかし、もし彼女がこの雑誌に載っているようなフレグランスを纏ったらどうなるだろう。例えば――『ミステリアスな夜のオードトワレ』とか『秘密の花園の誘惑』とか。そんな名称を見るだけで、白布の頬は熱を帯びる。
想像の中で、
名前の首筋に香水が煌めき、その香りに包まれて微笑む光景が浮かぶ。指先が震える程の妄想。
「賢二郎?」
背後から名を呼ばれた瞬間、肩がびくりと跳ねた。心を読まれたかのような恐怖が、背筋を奔る。
振り返れば、彼女――
名前が立っていた。絹糸を束ねたような髪の下で、夜の海を想起させる双眸が、こちらを覗き込んでいる。その眸は好奇心に満ちていて、少し笑っている様子だった。
「何を読んでいたの?」
「あ、いや……別に」
咄嗟に雑誌を伏せる。冷静さを装った動作のつもりだったが、慌てた素振りは隠せなかった。が、既に遅かった。
名前の細い指が、白布の手許のページを器用に捲った。
『彼を虜にする香りはコレ!』
「……ふぅん」
意味ありげに、白布を見つめる
名前。だが、その瞳は面白がっているようにも見えた。薄く開いた唇の端には、微かな笑みが浮かんでいる。
「賢二郎は、香水が好き?」
「いや、別に……」
冷静さを装って返すが、耳まで熱を帯びるのが自分でも分かった。教科書の一行一行を読み上げるような不自然さで、白布は目線を泳がせる。
――違う。香水が好きなんじゃない。
――お前が、好きなんだ。
そんな言葉、死んでも言えなかった。それは、白布の心の隅に押し込められた、秘密の引き出し。
名前への想いが溢れる瞬間、それを抑える為に作られた防壁。
「成程……」
名前は何かを考えるように短く頷くと、鞄から小さな瓶を取り出した。透き通った硝子の向こうに、淡い琥珀色の液体が揺れる。それは夕暮れ時の空を閉じ込めた色彩で、光を受けると内側から宝石の如く輝いた。
「実はね、兄さんから貰ったの。けれど、まだ試していなくて」
そう打ち明けて、
名前は細い指先でボトルの栓を抜き、ちらりと白布を見た。ほんの一瞬、彼女の目に浮かんだ表情は、仄かな期待を秘めているようだった。
指の腹で香水をひと撫でし、自分の手首に軽く乗せる。その所作には、どこか儀式めいた優雅さがあった。
「……どう?」
すっと、白布の鼻先へと差し出された腕首から、微かに甘く、深みのある香りが立ち昇る。夜明け前の静寂に似て、落ち着いたそれ。だが、同時に幾許か官能的な糖度も漂っていた。それは彼女自身の馨りを強調するようで、且つ全く新しい印象を与える不思議な調和。
白布は無言で息を呑んだ。
――
名前の香りと、違う。
――なのに、どうしてこんなに心が騒ぐんだ。
理性が警告を発する。しかし、本能は
名前と云う名の蜜に溺れろと囁く。胸の奥が灼け付き、喉はカラカラに渇いた。目の前の彼女が、禁断の果実のように魅力的に見えた。
「……悪くない、かも」
絞り出した声は、やけに掠れていた。本当は「凄く好き」と言いたかったのに、素直になれない自分に内心で舌打ちする。
名前は少しだけ目を細め、くすりと微笑む。その表情には、白布の真意を見抜く知的な輝きがあった。
「そう。じゃあ、これからはこれを付けようかな?」
「……いや」
思わず否定が零れる。自分でも想定外の反応に、白布は己の手許を見つめた。
名前が不思議そうに首を傾げる。その仕草が胸の奥を掴むような可愛らしさで、更に言葉が続いた。
「……やっぱり、お前は、何も付けない方が……」
言い終える前に気づいた。何を告げようとしていたのか、俄かに理解した瞬間だった。
目の前の彼女の唇が、新しい物語の扉を開くようにゆっくりと綻ぶ。瞳の底に、或る予感を宿す輝きが灯る。
「ふふ、賢二郎は、わたしの匂いが好きなの?」
そう囁かれた刹那、白布の頭は真っ白になった。
名前の問い掛けが耳の中で反響し、冷静な思考を奪っていく。頬から額まで、一気に熱が広がった。
――この雑誌、絶対に燃やそう。
白布は決意した。恥ずかしさの余り、その場で床に穴を掘って埋まりたいとさえ思った。
だが、その前に。
「……っ、もう一回だけ、嗅がせろ」
言ってしまった。本心が真っ直ぐに、フィルターなしで口から飛び出してしまった。
名前は驚いたように双眸を瞬かせ――その美しい眸に、白布は自分の姿が映り込むのを見た。次の瞬間、小さな手が、白布のシャツをそっと掴んだ。指先の温度が、薄い布地を通して肌に伝わる。
「いいよ」
囁くようにそう告げると、
名前は静かに手首を差し出した。その仕草には、少女らしい恥じらいと、女性としての自覚が混ざっている。
白布は、もう逃げられなかった。
今度は恐る恐るではなく、決意を持って、彼は
名前の腕首に顔を近づけた。大切な宝物を扱うかのように、そっと彼女の手を支え、深く息を吸い込む。
香水の馨りと、彼女本来の匂いが混ざり合い、白布の心を震わせる。閉じた瞼の裏側に、
名前の笑顔が浮かぶ。
「……好きだ」
思わず呟いた一言が、空気の流れを一変させた。
香りは、時に言葉よりも雄弁だ。そして、時に香りは言葉を引き出す魔法となる。
名前の頬が夕焼けのように赤く染まり、白布の心臓は激しく鼓動を打った。
教室の窓から射し込む光が、二人を優しく包み込んでいた。