夜紡ぎの赤糸 ∟赤い糸は、夜の静けさに結ばれる。

兄貴の描写が含まれます。  夜の静寂が、二人の世界を優しく包み込んでいた。  白布賢二郎の腕の中で、名前は満足気に息をついた。ハーブティーの残り香と、彼女自身の甘い芳香が混じり合い、白布の理性を静かに麻痺させていく。心臓の直ぐ傍で感じる彼女の体温と、規則正しく伝わる鼓動。その一つひとつが、どうしようもなく愛おしい。両腕に閉じ込めた身体は驚くほど華奢で、少し力を込めれば壊れてしまいそうな危うさを孕んでいる。  ――やっぱり、俺は、こいつには敵わない。  何度目になるか分からない降伏宣言を、白布は心の中でひっそりと呟いた。名前の言葉一つ、仕草一つで、自身の感情がいとも容易く乱高下する。セッターとして、常に冷静な判断を求められるコートの上とは、全く別の世界。ここでは、彼女こそが絶対的な司令塔だった。  やがて、名前が猫の如くしなやかな動きで、白布の腕の中から抜け出し、悪戯っぽく微笑んだ。月光を吸い込んで、淡く光を放つような陶器の肌に、先程のキスの名残が薄紅色を差している。その微かな変化を見つけてしまっただけで、白布の喉がまた乾いた。 「ねぇ、賢二郎」  透き通るような声が、静まり返った部屋に響く。 「さっき、兄貴兄さんが言っていたこと、試してみない?」 「……は?」  甘い余韻に浸っていた白布の思考が、一瞬で現実に引き戻される。あの奇抜なTシャツを着た、兄の顔が脳裏を過り、思わず眉間に深い谷間が刻まれた。 「あの人の戯言だろ。聞くだけ、時間の無駄だ」 「でも、面白そうだよ。まずは見つめ合って、どちらが先に瞬きをするか、って云うの」  名前はソファの上でちょこんと正座をすると、期待に満ちた眼差しで、白布を見つめた。その瞳は、夜空から掬い上げた星屑を溶かし込んだように、きらきらと輝いている。こうなってしまっては、白布に拒否権など存在しなかった。コート上で見せる強気な司令塔の面影は、この部屋では跡形もなく消え失せる。 「……分かった。やればいいんだろ」  観念して息を吐くと、白布も彼女に向き合い、クッションに座り直した。途端に、名前の纏う独特な空気が密度を増す。ローテーブルを挟んだ距離が、途轍もなく近く感じられた。 「じゃあ、始めるよ。よーい、どん」  無邪気な掛け声と共に、勝負の火蓋が切って落とされる。  白布は気恥ずかしさを押し殺し、真っ直ぐに彼女の眸を見つめた。夜の深海を想起させる、どこまでも深く、暗い双眸。その奥には、どんな感情も思考も映らない。只、静謐な闇が広がっているだけのように見える。だが、その闇にこそ、抗い難い引力があった。今にも吸い込まれそうだ。心臓が、ユニフォームの下で暴れている時よりも、遥かに大きな音を立てている。この音が彼女に聞こえてしまうのではないかと、あらぬ心配までする始末。  一方の名前は、表情一つ変えない。瞬きは疎か、僅かな揺らぎすら見せなかった。精巧に作られた人形のように、静かに白布を写し取っている。その無機質な美しさが、逆に白布の平静さを奪っていく。  もう駄目だ。限界だった。  白布は耐え切れずに、ぐっと目を逸らした。 「……っ、無理だ!」  負けを認める声は、自分でも情けないと思う程に上擦っていた。顔に集まる熱を隠して俯くと、くすくすと鈴を転がすような笑い声が聞こえる。 「わたしの勝ちだね。賢二郎は、こう云うの弱いよね」 「煩い……」  悔し紛れに吐き捨てる白布に、名前は満足そうに頷き、するりと彼に身を寄せた。次いで、徐に白布の手を取ると、有無を言わさず自分の頭上へと導いていく。 「じゃあ、次はこれ。兄貴兄さんが言っていた、二つ目の提案」  白布の指先に、名前の髪がふわりと触れた。その感触は上質な絹とも違う、夜の闇そのものを梳いて束ねたような、滑らかで、ひんやりとした質感。ミルクティー色の自分の髪とは異なるが、艶やかな髪糸。躊躇いがちに手指を動かせば、するすると指の間を抜けていく。微かに香る、甘い花の匂い。  白布の無骨な手つきに、名前は心地好さそうに目を細めた。その姿は飼い主に喉を撫でられる、気紛れな猫を彷彿とさせる。余りの無防備さに、白布の胸の奥が疼いた。  不意に、名前が白布の手を掴み、小指同士をそっと絡ませた。触れ合った部分から、彼女の体温がじわりと伝わる。 「ねぇ、賢二郎の小指と、わたしの小指、赤い糸で繋がっているのかな」  囁くような声色だった。その言葉が持つ非現実的な響きに、白布は思わず顔を顰める。 「……なんだ、それ。非科学的だ」 「でも、素敵だよ」  名前は絡めた小指を愛おしそうに見つめながら、続けた。 「目には見えなくても、ずっと昔から、こうして繋がっていたのだとしたら。赤い糸が、時々、きゅっと縮まって、どうしようもなく絡まってしまう時があって。わたし達はそう云う時に、逢いたくなるのかもしれないね」  その言葉は、まるで鋭い矢のように、白布の胸を射抜いた。  今日、寮の部屋で、何の前触れもなく、名前に逢いたいと云う衝動に駆られたのは。ノートの余白を、彼女の名前で埋め尽くしてしまったのは。あの、制御の効かない熱は。――見えない糸が、強く手繰り寄せた所為だったと云うのか。  馬鹿馬鹿しい、と理性が囁く。だが、心の奥底では、名前の紡ぐ幻想的な物語を信じたいと願う自分が居た。 「……そうかもな」  絞り出した声は、自分でも意外な程、素直な響きを持っていた。  白布は絡められた小指に、ぐっと力を込める。もう、この手を離したくなかった。今度は、白布から名前の薄い肩を引き寄せ、その薄桃色の口唇を塞ぐ。先程よりも深く、互いの存在を確かめ合うようなキス。  見えない筈の赤い糸が、結った小指に幾重にも巻き付き、固く縺れていくような錯覚を覚えた。運命なんて、陳腐な言葉は信じない。それでも、この腕の中に居る彼女だけは、唯一の真実だと確信できる。  唇が離れると、吐息が混じり合う程の至近距離で、名前が幸せそうに目許を緩めた。 「うん。やっぱり、これが一番、イケてる時間だね」  その無垢な微笑みに、白布は完全に武装を解除させられる。 「……お前には、一生敵わない」  掠れた声で降参を告げると、白布はもう一度、深く彼女を抱き締めた。  夜はまだ、どこまでも静かで深い。赤い糸に導かれた二人の時間は、確かな永遠へと続いていくのだった。



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