範囲:全宇宙、例題:愛
∟レシートの裏のメッセージに踊らされて、赤点の予感と甘さに溺れた日。
兄貴が登場します。
あの早朝の出来事以来、俺の頭の中は完全に、
苗字名前と云う名の甘美な侵略者に占領されていた。彼女の「わたしのものだね、鉄朗くんの心臓」と云う、心臓そのものを鷲掴みにされるような囁き。俺の腕の中で満足気に目を閉じた、あの猫のような表情。それらを反芻するだけで、授業内容なんてものは、右の耳から左の耳へと素通りしていく、ただの環境音に成り下がる。柄にもなく浮かれている自覚はあった。主将として、受験生として、こんな状態は芳しくない。だが、どうしようもなかった。俺の冷静さや策略は、彼女の前ではいとも簡単に武装解除されてしまうのだから。
昼休み、購買のパンを片手に教室に戻ると、窓際の席で分厚いハードカバーを読んでいた
名前が、ふと顔を上げて、俺を見つめた。その双眸が、何かを訴え掛けている。夜の海底から重大な秘密が浮上してくるような、そんな静かな引力があった。
「鉄朗くん、少し相談があるのだけれど」
「お、おう。どうした?」
俺は、ごくりと唾を飲み込む。
名前の「相談」と云う言葉は、俺にとって最高レベルの警戒警報だ。以前、「人間の尾行に対する反応のサンプルが欲しい」と相談され、一週間もの間、彼女の巧妙なストーキングに気づかず過ごした、苦い記憶が蘇る。
身構える俺に、
名前は至極真面目な顔で、こう続けた。
「明日の古典の小テスト、範囲がどこだったか、分かる?」
……え?
予想の斜め下を行く、余りにも健全で、学生らしい悩みに、俺は盛大に拍子抜けした。なんだ、そんなことか。
「なんだ、そんなことかよ。ビビらせんな。確か、先生が言ってたのは、古今和歌集の恋歌五首と、あと『大鏡』の肝試しのとこだった筈だぜ」
「そう。わたしも、そう記憶していたのだけれど」
「だろ? なら問題ねぇじゃん。放課後、俺が付きっ切りで教えてやるよ。この胡散臭くない、頼れる主将様がな」
得意気に胸を張ると、
名前は「ふふ」と小さく笑みを零したが、その表情はどこか晴れない。彼女は持っていた本――表紙には『粘菌、かく語りき』と書かれている――を静かに閉じると、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「ありがとう。でも、問題はそこじゃないんだ」
「……は?」
「どうも、本当の範囲は、そこではないような気がして」
不穏な予感が、背筋をぞわりと駆け上がった。バレーで鍛えた危機察知能力が、警鐘を乱れ打っている。これは、先日の"サンマの湯気"の夢に匹敵する、理解不能な事態の前触れだ。
放課後、約束通り二人きりになった教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。差し込む西陽が、
名前の白い肌を淡い琥珀色に染めている。その非現実的なまでの美しさに見惚れながらも、俺は理性を取り戻し、古典の教科書を開いた。
「いいか、
名前。まず、この和歌だが――」
「待って、鉄朗くん」
俺の言葉を遮り、
名前は鞄から一枚の、くしゃくしゃになった紙を取り出した。それはどう見ても、コンビニのレシートだった。その裏側に、彼女の兄である
兄貴さんのものと思しき、独特の筆跡で、何かが書き殴られている。
「これが、本当の範囲だと思う」
「……はぁ?」
俺はレシートを覗き込んだ。そこに書かれていたのは、『枕草子』の「春はあけぼの」の一節と、何故か『方丈記』の冒頭部分だった。どちらも、今回のテスト範囲とは掠りもしていない。
「……
名前さんや。これは一体、どう云うことでしょうか」
「昨夜、兄さんが言ってたんだよ。『今、執筆中の物語で、時空を超えたパティシエが、平安時代の姫君に贈るマカロンのレシピを古文書から発見するんだが、その古文書に書かれていたのが、どうもこれらしい』って」
「……」
俺は言葉を失った。時空を超えたパティシエ? マカロンのレシピ? それが何故、俺達の小テストの範囲になる? 思考が完全に停止する。俺の脳内にある"論理"や"常識"と云ったフォルダが、次々とエラー音を立ててクラッシュする。
「いや、待て待て待て。落ち着け、俺。いいか、
名前、それはお前の兄貴の、その、なんだ、独創的なイマジネーションの世界の話だろ? 現実の、この教室で行われる小テストとは、一切、全く、微塵も関係がない筈だ」
彼氏として彼女を諭すように、できるだけ冷静に、論理的に説明を試みる。だが、
名前はふるふると首を横に振った。その瞳は、一点の曇りもなく、純粋な確信に満ちている。
「ううん。兄さんの直感は、時々、宇宙の真理と繋がることがあるから。以前も、兄さんが『明日は空からタコが降るだろう』と予言した次の日、お向かいの家の物干し竿から、お母さんが干していたタコ型の凧が落ちてきたことがある」
「それは、ただの偶然だろ!」
思わず叫んだ瞬間、
名前のスマートフォンが絶妙なタイミングで震えた。画面を見ると、表示名は『
苗字兄貴』。
名前は「ほら」と言わんばかりの顔で、事もなげに通話ボタンをタップし、スピーカーにした。
『やあ、
名前。聞こえるかい? 鉄朗くんも一緒かな?』
「
兄貴兄さん、どうしたの?」
『ああ、レシートの件で、大事な補足があってね。パティシエが見つけた古文書なんだが、よく読んだら『方丈記』の隣に、小さく『サンマの塩焼きの作り方』も書いてあったんだ。これはきっと、鉄朗くんへのメッセージだよ。だから、サンマの塩焼きもテストに出る。間違いない』
サンマの塩焼きが、古典のテストに出るワケねぇだろ!
俺は心の中で絶叫した。電話の向こうの
兄貴さんは、今日もきっと『人生、一寸先は闇、二寸先は崖』とか書かれた、奇妙なTシャツを着ているに違いない。この兄妹、揃いも揃って、俺の理性を試しているのか。
だが、
名前は「そうだったの。ありがとう、兄さん」と、何の疑いもなく頷いている。そして、キラキラとした期待の眼差しで、俺を見つめた。その瞳が、雄弁に語り掛けてくる。「ねぇ、信じてくれるでしょう?」と。
ああ、もう。
俺は天を仰いだ。策略も、論理も、常識も、このミステリアスな恋人の前では塵芥に等しい。俺の選択肢は、一つしかなかった。
「……分かった」
俺は観念して、大きく息を吐いた。
「分かったよ、
名前。信じる。お前とお前の兄貴の、その宇宙の真理と繋がってるって云う直感を、信じてやる。やろうぜ、『枕草子』と『方丈記』と、サンマの塩焼きの勉強を!」
俺がそう宣言すると、
名前の顔が、夕陽に咲いた花のように、ぱっと華やいだ。その笑顔が見れただけで、もうどうでも良くなってくるから不思議だ。例え明日、赤点を取って補習になったとしても、この笑顔の価値には代えられない。俺は完全に、この少女に骨抜きにされている。
翌日、配られた小テストの問題用紙を前に、俺は静かに悟りを開いていた。
そこに並んでいたのは、古今和歌集の恋歌五首と、『大鏡』の肝試しに関する設問。昨日、俺が最初に言った通りの、完璧な既定路線だった。サンマの塩焼きの"サ"の字もなければ、パティシエの"パ"の字もない。
俺はそっと隣の席に視線を送った。
名前は真っ白な答案用紙を前に、小さく「あれ?」と首を傾げ、長い睫毛をぱちぱちと瞬かせている。その姿は、異世界から迷い込んできた妖精のようだった。
テストの後、二人分の壊滅的な答案が回収されていくのを、俺は虚ろな目で見送った。重い足取りで、俺の元へやって来た
名前が、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね、鉄朗くん。わたしの所為で」
「……いや。お前を信じるって決めたのは、俺だからな」
溜め息混じりに言うと、
名前は俯けていた顔を上げた。そして、ふわりと悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。
「でも、補習、鉄朗くんと一緒なら、少し楽しみかもしれない」
その言葉と表情に、俺の心臓がまたしても不規則に跳ねた。ああ、そうだ。俺は、この掴みどころのない彼女の、こう云うところに惹かれたんだった。
「……本当、お前には敵わねぇな」
結局、俺の敗北だ。赤点も補習も、この小悪魔的な恋人と一緒に経験できるなら、それはそれで悪くないイベントなのかもしれない。俺は苦笑しながら、
名前の頭をくしゃりと撫でた。窓の外では、昨日と同じオレンジ色の光が、俺達の影を長く伸ばしていた。