背後に咲くモンステラ ∟主将、観察される。

 赤点の予感は見事に的中し、俺と名前は放課後の補習と云う名の、甘美とは呼べない二人きりの時間を手に入れた。古典担当の老教師が置いていったプリントの山を前に、俺達は窓際の席で隣り合っている。しかし、俺の集中力は問題用紙の活字ではなく、その向こう側で静かに読書を嗜む恋人の横顔に、完全に吸い寄せられていた。  傾き掛けた陽光が、名前の輪郭を柔らかな金の糸で縁取っている。長い睫毛が落とす影、頁を捲る白く細い指先、その一つひとつの所作が、計算され尽くした芸術のようだ。この静謐な美しさに、過去「人間の、尾行に対する反応のサンプルが欲しい」などと云う、スパイ映画紛いの台詞を口にした狂気が潜んでいるとは、誰が想像できようか。  ふと、名前が読んでいる本の表紙が、俺の視界に入った。黒い背景に、銀の箔押しで物々しく記されたタイトルは、『犯罪心理学概論 -隣人は如何にして怪物になるか-』。 「……また、随分と物騒な本を読んでるな」  思わず零れた言葉に、名前は文字列から顔を上げた。夜の海を想起させる双眸が、俺をゆっくりと捉える。 「うん。以前の尾行調査のデータを、専門的な見地から再検証しているんだ」 「……ああ、あの、俺のプライバシーが丸裸にされた一週間のことか」  苦々しい記憶が鮮明に蘇る。あれは、確か季節が夏から秋へ移ろうとしていた頃。俺の油断と慢心が、名前の純粋な探求心と云う名の、予測不能なサーブを綺麗にレシーブし損ねた、忘れもしない事件だ。
 その日も、俺達は放課後の教室に残っていた。夕陽が射し込む中、名前は珍しく、俺が貸したバレー雑誌を熱心に読んでいたかと思うと、唐突に顔を上げ、至極真面目な声でこう切り出したのだ。 「鉄朗くん。少し、相談があるのだけれど」 「ん? どうした?」 「人間の、尾行に対する反応のサンプルが欲しいんだ」  一瞬、時が止まった。俺の脳が、名前の言葉の意味を処理することを拒否する。尾行? サンプル? 俺の知る限り、その単語の組み合わせは、普通の男子高校生と、その彼女である女子高生の間で交わされる会話には、まず登場しない。 「……は? 今、なんて?」 「だから、わたしが鉄朗くんを尾行して、その反応を観察したい。被験者になってくれないかな?」  悪戯っぽくも、冗談めかしてもいない。名前の瞳は、新しい実験キットを手に入れた科学者の卵ように、純粋な知的好奇心でキラキラと輝いていた。俺はその余りの突拍子のなさに、逆に可笑しくなってしまった。 「ははっ、なんだそりゃ。探偵ごっこでもすんのか? いいぜ、やってみな。この俺を尾けられるもんならな」  音駒の主将として、相手の動きを読み、策略を巡らせるのが、俺の仕事だ。たかが女子高生の尾行に後れを取る筈がない。そんな根拠のない自信と、彼女の奇行に付き合ってやる彼氏としての余裕。それが後に、俺のプライドを完膚なきまでに粉砕する命取りの一言になるとは、この時の俺は知る由もなかった。  翌週から、俺の日常に奇妙なノイズが混じり始めた。  初日。帰り道、いつもの角を曲がった瞬間、視界の端で、電柱の影が僅かに揺れた気がした。風で舞ったビニール袋だろうと、気にも留めなかった。  二日目。昼休み、屋上で弁当を広げていると、給水塔の向こうから、カシャリ、と乾いた音が聞こえた。迷い込んだ野良猫か何かだろうと、適当に処理した。  三日目。部活中、リエーフにブロックのタイミングを教えている最中、体育館の二階、いつもは空っぽのギャラリーの隅に、見慣れないモンステラの鉢植えが置かれているのに気づいた。誰かの忘れ物か、演劇部の小道具だと思ったが、翌日には跡形もなく消えていた。まるで蜃気楼のようだった。  そして、四日目。俺の鈍い感覚に、決定的な揺さぶりを掛けたのは、幼馴染の研磨だった。 「ねぇ、クロ」  部活後の部室で、ゲーム機から視線を上げないまま、研磨が呟いた。 「なんか、最近、視線感じない?」 「……は? 誰のだよ」 「さあ。でも、クロの背後、偶に面白いエフェクトが出てる」 「エフェクトって何だよ、ゲームじゃねぇんだぞ」  軽口で返しながらも、心臓が嫌な音を立てた。研磨のこう云う、妙に的を射た直感は無視できない。俺の完璧な筈のフォーメーションに、見えない亀裂が入り始めているのを感じた。  五日目には、愈々幻覚まで見始めた。電車に揺られながら、窓から流れる風景を眺めていると、擦れ違う対向電車の硝子窓に、一瞬、名前の横顔が映ったのだ。黒いフードを目深に被り、真剣な眼差しでこちらを見つめる、その幻が。だが、彼女は今日、兄である兄貴さんの仕事の手伝いで、学校を休んでいる筈だった。疲れているんだ、と俺は無理やり自分を納得させた。主将が、受験生が、こんな事で動揺している場合じゃない。  六日目。土曜の午前練を終え、疲れ切った頭を冷やそうと、一人で商店街をぶらついていた時のことだ。古着屋のショーウィンドウに飾られた、『人生、前向き駐車』と書かれた奇抜なTシャツに気を取られていると、ガラスに映り込んだ自分の背後、雑踏の中に、見慣れた髪が翻るのが見えた。刹那、心臓が跳ねる。慌てて振り返っても、そこに彼女の姿はなく、只、喧騒が通り過ぎていくだけ。最早、神経がどうにかなりそうだった。  そして、七日目。最終日の日曜は、俺は完全にノックダウン状態だった。カーテンを閉め切り、自室のベッドから一歩も動かない。もう何も見たくないし、何も感じたくない。只管、この異常な日々が早く過ぎ去ってくれることだけを願っていた。  そうして、運命の一週間が過ぎた。俺の中で、あの日の名前の言葉は、すっかり他愛ない冗談として風化していた。だから、彼女が放課後の教室で、一冊の大学ノートを目の前に差し出した時、俺はそれが何なのか、すぐには理解できなかった。 「一週間、ありがとう。これが、観察記録」  恐る恐るノートを開いた俺は、絶句した。そこには、俺の七日間の行動が分刻みで、名前の流麗な文字でびっしりと記録されていたのだ。 『月曜日 19:05 コンビニにて、焼きそばパンと牛乳を購入』 『火曜日 12:35 屋上にて弁当。卵焼きが、やや焦げている』 『水曜日 18:20 灰羽リエーフくんにブロック指導。指導内容は「腕だけじゃなく、腹筋で跳べ」』 『木曜日 19:10 孤爪研磨くんと会話。「面白いエフェクト」について言及されるも、本人は否定』 『金曜日 06:22 乗車。対向電車より観察。心成しか、憔悴しているように見える』 『土曜日 13:20 商店街の古着屋前にて停止。ショーウィンドウの反射を利用して、目を凝らす。もう少しで気づかれるところだった。スリルが癖になりそう』 『日曜日 10:15 起床。以降、ほぼ自室から出ず。カーテンが閉められていた為、知人である隣家の屋根から、双眼鏡でウォッチ。対象の精神的消耗が著しい。わたしの尾行スキルが、想定以上に高かったと云うことだろうか。少し反省』  ……全部、見られていた。  俺の思考が、完全にフリーズする。音駒の胡散臭い主将。人を煽るのが得意な策略家。そんな自負は、この完璧な監視記録の前では、砂上の楼閣のように脆く、呆気なく崩れ去った。俺は、名前の広げた掌の上で、一週間もの間、無邪気に転がされていたに過ぎなかったのだ。 「……お前、本気だったのかよ」  絞り出した声は、自分でも情けない程に掠れていた。名前が小首を傾げる。その仕草からは、悪意など微塵も感じられない。 「うん。鉄朗くんが『いいぜ』って、許可してくれたから」 「あれは、そう云う意味じゃねぇだろ!」 「そうなの? でも、お陰でとても有意義なデータが取れたよ」  そう言って、名前は一冊の文庫本を取り出した。有名な古典ミステリーだった。 「この探偵が犯人を追い詰める時の心理を、少しでも理解したくて。読み掛けの本の続きを読む為には、どうしても追体験が必要だったんだ」  読み掛けの本、ね。  その純粋過ぎる動機に、俺はもう怒る元気も、呆れる気力も、全てを失っていた。只、どうしようもなく込み上げてくる、この感情。それは諦めであり、降参であり、手の施しようもない程の愛おしさでもあった。
「……あの時は、本当に肝が冷えたぜ」  回想から戻り、俺は深々と溜息をついた。名前は読んでいた『犯罪心理学概論』をぱたりと閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。 「でも、あの調査のお陰で、確信できたことがあるよ」 「なんだよ。俺が意外と鈍感だってことか?」 「ううん」  名前は首を横に振ると、俺の目を真っ直ぐに見つめた。深い双眸の底で、静かな光が揺らめいている。 「鉄朗くんは、わたしがどんなに巧妙に隠れて追い掛けても、決して本気で、わたしを撒こうとはしない。いつでも、わたしの手が届く範囲に、ちゃんと居てくれるんだってこと」  その言葉は、精密なコントロールで放たれたサーブのように、俺の心のど真ん中、一番柔らかい場所に、すとん、と落ちた。  そうだ。俺は気づいていたのかもしれない。無意識のどこかで。背後に居るのが、名前だと。だから、本気で警戒しなかった。だから、振り切ろうとしなかった。俺はこの掴みどころのない恋人に、最初から捕らえられていたのだ。彼女が仕掛けた、甘い罠に。 「……本当、お前には敵わねぇな」  結局、いつもこの台詞に落ち着く。俺は苦笑しながら、目の前のプリントの山に視線を下ろした。ほぼ手付かずのそれに、今更ながら焦る。 「やべ、補習、全然終わってねぇ」 「ふふ、本当だね」  俺達は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。窓の外では、夕陽が最後の光を放ち、教室をオレンジ色に染め上げている。  俺の人生と云う物語は、きっとこの不思議な少女によって、次々と新しい章が書き加えられていくのだろう。そして、俺はその続きを読むのを心から楽しみにしている、唯一人の読者なのだ。



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