反逆の寝癖
∟恋する探偵は影に棲む。
提案は秋風に舞う一枚の枯葉のように、唐突で、乾いていた。
「鉄朗くん。少し、相談があるのだけれど」
放課後の教室。夕陽が長い影を落とす中、俺が貸したバレー雑誌を読んでいた筈の彼女が、静かに顔を上げた。双眸には、これから世界の真理でも語るかの如く、真摯な光を湛えている。俺はいつものように軽口を叩く準備をしながら、次の言葉を待った。
「人間の、尾行に対する反応のサンプルが欲しいんだ」
ぴしり、と周囲の空気が凍った。いや、そう感じただけだ。窓の外では運動部の掛け声が響き、教室の時計は無慈悲に秒針を進めている。俺の脳内だけが、処理能力を超えた情報にショート寸前だった。尾行? サンプル? 今、この可憐な彼女の口から、そんな物騒な単語が発せられたのか?
「……は? 今、なんて?」
「だから、わたしが鉄朗くんを尾行して、その反応を観察したい。被験者になってくれないかな?」
繰り返された要望に、間違いなく現実だと悟る。彼女の瞳は、新しい実験を前にした科学者のように、純粋な知的好奇心で爛々と輝いていた。悪戯でも、冗談でもない。この
苗字名前と云う少女は、本気で言っている。余りの突拍子のなさに、俺の中で何かがぷつりと断線し、堪え切れない笑いが込み上げた。
「ははっ、なんだそりゃ。探偵ごっこでもすんのか? いいぜ、やってみな。この俺を尾けられるもんならな」
音駒の主将だぞ? 相手の動きを読み、常に二手三手先を考えてコートに立つ、そんな俺が。たかが女子高生の尾行に、後れを取る筈がない。根拠のない自信と、彼女の奇行に付き合ってやる彼氏としての余裕。それが、俺のプライドを完膚なきまでに粉砕する命取りの一言になるとは、この時は知る由もなかった。
「ありがとう、鉄朗くん」
満足気に微笑む彼女に手を振り、俺は部室へと向かった。既に頭の中は、今日の練習メニューと、リエーフへのレシーブ指導のことで一杯だった。
名前の奇妙な提案は、日常と云う奔流に押し流され、あっと言う間に意識の底へと沈んでいった。
体育館の扉を開けると、湿った熱気、ボールが床を叩くリズミカルな音、チームメイトの汗の匂いが、俺を包み込む。ホームグラウンドの空気だ。俺は深く息を吸い込み、思考をバレーモードに切り替えた。ネットを挟んだ攻防、研磨との阿吽の呼吸、後輩達の成長。ここに居る時、俺は音駒の主将、黒尾鉄朗になる。
途中、ふとギャラリーに視線を遣ったが、
名前の姿はなかった。まあ、当然か。幾らなんでも、部活中から張り付くなんてことはしないだろう。俺は自嘲気味に笑い、練習に意識を戻した。
汗を流し、心地良い疲労感と共に部室を出る頃には、空はすっかり濃紺の帳を下ろしていた。仲間達と別れ、一人、家路に就く。街灯がぽつりぽつりと灯る道を歩きながら、今日の反省点を脳内で反芻する。ブロックの連携、サーブのコース、明日の朝練のメニュー……。
そうして、いつもの角を曲がった瞬間だった。
視界の端で、電信柱の影が、僅かに揺れた気がした。
咄嗟に足を止め、振り返る。だが、誰も居ない。只、外灯に照らされたアスファルトと、静かに佇む電柱があるだけだ。秋の夜風が、足許に落ちていたコンビニの袋をカサリと戦がせる。
「……気の所為か」
ああ、それだ。風で舞ったビニール袋だろう。俺は一人納得し、再び歩き出した。だが、心のどこかに小さな棘が刺さったような、微かな違和感が残る。バレーで鍛らえた危機察知能力が、何かを訴え掛けている、そんな落ち着かない感覚。
その感覚を振り払い、俺は馴染みのコンビニの自動ドアを潜った。目的は部活後の空腹を満たす、焼きそばパンと牛乳。迷いなく商品を手に取り、レジへと向かう。会計を済ませ、店を出る。蛍光灯の白い光から、街路灯のオレンジ色の下へ。日常と非日常の境界線を跨いだような、奇妙な浮遊感があった。
家に着き、自室のベッドに倒れ込む。そこで漸く、放課後の彼女の言葉を思い出した。
『だから、わたしが鉄朗くんを尾行して、その反応を観察したい。被験者になってくれないかな?』
まさか、な。あの電柱の影が、本当に。
いや、有り得ない。気づかない筈がない。俺は首を振り、買ってきた焼きそばパンの袋を破った。甘辛いソースの香りが、鼻腔を擽る。きっと、練習で疲れているんだ。そう結論付け、今日の小さな違和感を、パンと一緒に腹の底へと飲み込んだ。

彼の「いいぜ」と云う許可は、わたしにとって、未知の扉を開ける魔法の鍵だった。鉄朗くんが部室へ向かう背中を見送りながら、わたしの心は新しい物語の頁を捲る時に似た、静かな高揚感で満たされていた。
目的は、読み掛けのミステリー小説の探偵が、犯人を追い詰める時の心理を追体験すること。けれど、それだけではない。わたしは"黒尾鉄朗"と云う人間の輪郭を、もっとはっきりと確かめたかったのだ。
先ずは準備。黒いフード付きのパーカーに着替え、動き易いスニーカーに履き替える。髪は邪魔にならないよう、一つに束ねた。鞄には観察記録用のノートとペン、念の為に双眼鏡も忍ばせてある。気分は獲物を狙う孤高のハンターだ。
体育館の周辺を散策し、最適な観察ポイントを探す。軈て、体育館に隣接する特別棟の、今は殆ど使われていない音楽準備室に辿り着いた。埃を被った古い譜面台や、白い布が掛けられたグランドピアノ。それらが静かに眠る部屋の窓は、体育館の二階とほぼ同じ高さにあり、コート全体を見渡すのに誂え向きだった。開け放った窓辺にそっと身を寄せ、硝子越しの世界を見つめる。ネットの向こう側を見据える真剣な眼差し、後輩に指導する時の、少しだけ厳しさを帯びた表情、仲間と笑い合う瞬間の、少年みたいな屈託のない笑顔。全てが、わたしだけが知る鉄朗くんとは違う、主将としての貌だった。古惚けた譜面の乾いた匂いが、わたしの存在を閑寂な室内に溶け込ませてくれる。わたしはノートを開き、最初の記録を綴った。
[観察記録:月曜日]
対象:黒尾鉄朗
本日の寝癖について。
右斜め前方、約45度の角度で、一束の髪が反重力を主張している。まるで、黒い鳥の小さな羽みたい。鉄朗くんは授業中に三度、それを手櫛で撫で付けようと試みたけれど、その度に鶏冠はしなやかな弾力で抵抗し、元の角度へと戻っていった。彼の支配を受け付けない自由さが、どうしようもなく愛しい。彼の全てを、わたしのものにしたいと願う一方で、本人にすら決して飼い慣らせない部分が在ると云う事実は、わたしの心を掻き乱し、満たしていく。あの反逆の翼は、彼の本質そのものなのかもしれない。
部活が終わり、鉄朗くんが一人になった時間からが、本番だ。
一定の距離を保ち、物陰から物陰へと、猫のように気配を殺して移動する。街灯の光と影が作り出す迷路は、わたしにとって絶好のフィールドだった。彼の歩行速度、時折、空を見上げる癖、イヤホンから漏れる微かな音楽のリズム。彼の日常を構成する一つひとつのピースが、パズルみたいに組み合わさっていく。
そして、あの角。
鉄朗くんが曲がる直前、わたしは電信柱の陰に身を潜めるつもりだった。けれど、ほんの少し、タイミングが遅かった。彼が振り返る気配を察知し、慌てて身体を電柱の裏側へ滑り込ませる。心臓が、どくん、と大きく跳ねた。見つかった? ううん、大丈夫。彼は訝しげに辺りを見回した後、再び歩き出した。風に舞うビニール袋が、幸運にも注意を逸らしてくれたようだ。安堵の息を吐くと同時に、背筋を駆け上るスリルに、口許が綻ぶのを感じた。
コンビニに入る彼の背中を、わたしは通りの向かい側から見守っていた。硝子張りの店内は、まるで水槽のようだ。鉄朗くんは迷うことなくパンの棚へ向かい、焼きそばパンらしき袋を手に取った。次いで、飲料コーナーで牛乳を選ぶ。一連の、何の変哲もない選択が、わたしには堪らなく愛おしいものに思えた。彼の血となり、肉となるもの。彼の肉体を構成する、その一部。わたしはノートに『19:05 コンビニにて、焼きそばパンと牛乳を購入』と、一寸だけ震える文字で書き記した。
鉄朗くんの部屋に明かりが灯るのを見届け、わたしは漸く、月曜日の観察を終えた。家路を辿りながら、胸中に広がる感情の正体を探る。それは、探偵の心理を理解したいと云う探究心だけではなかった。
鉄朗くんの知らないところで、彼の全てを見つめること。
彼の無防備な姿を、わたしだけのものにすること。
歪んでいるのかもしれない。でも、胸を満たす甘く痺れるような充足感は、紛れもなく、彼への気持ちそのものだった。
この一週間の観察記録は、きっと、只のデータにはならないだろう。
これは、わたしから鉄朗くんへの、秘密の恋文なのだ。一行ずつに、わたしの視線が、わたしの想いが、インクに滲んで溶けていく。
そう考えると、奇妙な尾行と云う行為にすら、愛しか感じないのだった。