焦げた卵焼きの考察
∟香ばしい方が好きだから。
二日目の尾行は、空の青さが目に染みるような、秋晴れの昼休みに決行された。
わたしは音駒高校の屋上、その片隅に聳える給水塔の陰で、息を潜めていた。ひんやりとした壁が、パーカー越しに体温を奪う。けれど、却って無機質な冷たさが、これから始まる密やかな儀式を前に、わたしの思考を冴え渡らせてくれた。目的は、対象――黒尾鉄朗の捕食シーンの観察。彼の肉体を構成する要素を、根源から理解する為の、極めて学術的なアプローチである。
軈て、重い金属の扉が開く軋んだ音と共に、鉄朗くんが現れた。
紺色のブレザーの肩越しに空を仰ぎ、眩しそうに目を細める。何気ない仕種一つで、無人のコンクリートジャングルが、彼一人の為の舞台に変わる。わたしはそっと、鞄から愛用のコンパクトデジタルカメラを取り出した。今日のミッションは、鉄朗くんの生態を映像としても記録することだ。
鉄朗くんはフェンスの近くに腰を下ろし、ランチクロスに包まれた弁当箱を膝の上へ置いた。昨夜の電話で「明日の弁当、自分で詰める」と話していたから、中身が気になって仕方ない。果たして、あの存外に器用な指先で、どんな小宇宙を創造したのだろうか。
蓋が開けられる。わたしはカメラのズーム機能を最大限に活用し、その全貌を液晶画面に捉えた。白米の隣に鎮座している、赤色のウインナー、緑色のブロッコリー、黄金色の卵焼き。彩りのバランスは悪くない。けれど、わたしの目は卵焼きの一角に、微かな茶色のグラデーションを発見した。焦げだ。
鉄朗くんは僅かな失敗作を何の躊躇いもなく箸で摘まみ、口へと運んだ。咀嚼する横顔に不満の色はない。寧ろ、どこか誇らしげですらある。きっと、あの焦げを失敗だとは認識していないのだ。あれは挑戦の証であり、自炊と云う新たなフィールドに踏み出した、勇敢なる主将の勲章。そう思っているに違いない。わたしは彼の大らかさに、胸の奥がきゅうっと締め付けられるのを感じながら、ノートにペンを走らせた。
[観察記録:火曜日]
対象の食性に関する考察。
[序論:焦げた卵焼きについて]
対象は自作の卵焼きに含まれる焦げを、意に介する様子なく摂取。この事実から、鉄朗くんは些細な欠点を許容する、懐が深い精神性の持ち主であることを窺わせる。或いは、単に味覚が鈍いだけと云う可能性も捨て切れないけれど、恋人としては前者の説を強く推したい。
鉄朗くんがお弁当を平らげ、満足気に息を吐いた時だった。ごそりと懐中から取り出された、購買の袋。中から現れたのは、格子模様の焼き目が美しい、丸いパン――メロンパンだった。
メロンパン。
その選択が、脳内に新たな論争の火種を投下した。鉄朗くんは甘党なの? ううん、でも、彼の好物はサンマの塩焼きだ。塩辛いものを好む人間が、主食の後、追い討ちを掛けるように甘味を摂取するなんて。わたしの思考は迷宮へと誘われる。
- メロンパンを巡る甘党派と非甘党派の攻防 -
[仮説A:鉄朗くんは純粋な甘党である]
サンマの塩焼きは、あくまで好物の一つであり、鉄朗くんの味覚の根底には、糖分への強い渇望が存在する。部活動に因る肉体疲労が、脳に「甘いものを摂取せよ」と指令を出している可能性が高い。塩辛いものの直後に、甘いものが欲しくなる"甘辛の無限ループ"に陥っているとも考えられる。この説に立てば、彼は存外、子供っぽい味覚の持ち主と云うことになる。それはそれで、非常に愛らしい。
[仮説B:鉄朗くんは甘党ではない]
メロンパンの選択は、味覚ではなく、合理性の発露である。数あるパンの中で、メロンパンは比較的高カロリーであり、効率的なエネルギー補給源としては最適だ。バレー部の主将として、常に自身のコンディションを管理する彼らしい、極めてロジカルな判断と言える。この場合、鉄朗くんは甘さを味わっているのではなく、"燃料"として、機械的に摂取していることになる。そのストイックさもまた、彼の魅力の一つだ。
[仮説C:外的要因による選択]
例えば、幼馴染である孤爪研磨くんの食の好みが、無意識下に影響を与えている可能性。或いは、以前、わたしが何気なく「甘いものは心を豊かにする魔法だと思う」と話したのを憶えていて、価値観に響いているのかもしれない。もしくは、別の考え事――例えば、わたしのこと――に気を取られ、普段は選ばないものを衝動的に購入した、と云う情緒的な行動とも考えられる。つまり、あのメロンパンは、わたしへの想いが具現化した、甘い結晶なのかも――。
思考の海に深く沈み込んでいた、その瞬間。
わたしは目の前の光景を永遠に切り取っておきたいと云う衝動に駆られた。秋の柔らかな陽光を浴び、大きな口でメロンパンを頬張る、無防備な彼の姿を。早速、カメラを構え、そっとシャッターボタンに指を掛けた。
カシャリ。
乾いた電子音が静寂を破った。しまった、と後悔する間もなく、鉄朗くんの動きがぴたりと止まる。彼の視線が、音の発生源である給水塔に向けられた。心臓が氷の塊と化したように冷たく収縮する。見つかる。嫌だ、この実験は、尾行中に気づかれては意味がないのに。
わたしは壁に身体を押し付け、息を殺した。どうか、気の所為だと思って。どうか、気づかないで。祈るような気持ちで、鉄朗くんの次の行動を待つ。ざ、とコンクリートを擦る足音が、僅かにこちらへ近づく気配がした。もう、駄目かもしれない。
「……猫か」
ぽつりと零された呟きが風に乗り、わたしの耳へ届いた。
靴音はゆっくりと遠ざかり、軈て扉の閉まる重い音が響いた。
わたしはその場にずるずると座り込んだ。強張っていた全身から、一気に力が抜ける。助かった。安堵と共に、先程までのスリルが甘い痺れとなって、身体中に広がる。
徐に立ち上がり、鉄朗くんが居た場所を見つめる。そこには、もう誰も居ない。けれど、彼が食べていたメロンパンの甘い残り香だけは、未だ空気中に漂っている気がした。
わたしはノートの途中の頁を開き、安心感に震える指で、今日の結論を書き記した。
[結論]
鉄朗くんが甘党か否か、真実は些細な問題だ。彼が選ぶもの、口にするもの、一つひとつが、わたしにとっては世界の真理となる。焦げた卵焼きも、謎多きメロンパンも、全てをひっくるめて、黒尾鉄朗なのだ。わたしはそんな彼の全部を、いつまでも一番近くで見つめていたい。鉄朗くんの知らない場所から、彼が気づかない遣り方で。この密やかな観察が、わたしなりの"好き"の形なのだから。
空を見上げると、白い飛行機雲が真っ直ぐに蒼を切り裂いていた。
週末、この観察記録が、分厚い恋文の束になる日まで。わたしの探偵ごっこは、まだ始まったばかりだ。