透過光メロウ
∟校舎を染めるオレンジ色の光と、透明な欲。
放課後の喧騒が嘘みたいに遠ざかり、西陽が射し込む教室は、世界に取り残された舞台装置のようだった。オレンジ色の光が埃をきらきらと踊らせ、俺と、俺の恋人である、
苗字名前の影を床に長く伸ばしている。日直の仕事なんて、とうの昔に終わっているのに、俺達が未だこうして教室に留まっているのは、どちらからともなく始まった、この無言の時間を慈しむ習慣の所為だ。
普段なら、他愛ない話をするか、俺が一方的にちょっかいを出して、彼女がそれを柳のように受け流すか、或いは真っ直ぐなカウンターを喰らって、俺がたじろぐか、そんな応酬が繰り広げられる。だが、今日の
名前は少し違った。
窓枠に片肘を突き、校庭を眺める横顔は、精巧に作られたビスクドールのようだった。色素の薄い肌が夕陽に透け、金の如く輝き、静かな光を宿す双眸は、そこに映る景色よりも、更に遠いどこかを見つめている。そして、その薄桃色の唇から、ふ、と儚い吐息が零れ落ちた。
「……はぁ」
それは音と云うよりも、空気の微かな振動。だけど、万物が息を潜めるこの教室では、教会の鐘の
音程にも大きく、俺の心臓のど真ん中にずぶりと突き刺さった。完璧に組み立てた筈のレシーブフォーメーションに、ぽっかりと予期せぬ穴が空いたような感覚。どこから、どんな種類のボールが飛んでくるのか、予測できない。バレー部の主将として、一人の男として、今の状況が酷く落ち着かない。
「……
名前?」
声を掛けると、長い睫が蝶の羽搏きみたいにゆっくりと震え、
名前の視線が漸く、俺を捉えた。その瞳は暗い海の如き深さで、凪いだ水面の下で渦巻く感情を容易には見せてくれない。でも、今日の水底には、些か憂いの澱が沈んでいるように映った。
「どうした。何かあったのか?」
「……ううん。何でもないよ」
首を横に振る仕種は、いつも通りの優雅さだ。だが、声の調子は、澄んだ音色の中に、ほんの僅かな翳りを帯びている。「何でもない」が、一番「何でもなくない」ことくらいは見抜ける。ましてや、相手は、俺が骨の髄まで愛している、このミステリアスな彼女なのだ。
「何でもない、って顔には見えねぇけどな。この俺を誰だと思ってんだ? 人の心の機微を読み取り、相手チームの戦略を丸裸にする、音駒の胡散臭い主将様だぞ」
「ふふ、自分で胡散臭いって言ってしまうんだね、鉄朗くんは」
漸く、
名前の唇に小さな笑みが浮かんだ。些細な変化に安堵する自分が居る。俺は彼女の隣に歩み寄り、窓枠へ同じように体重を預けた。鼻腔を掠める、清潔で甘い香り。それだけで、ささくれ立っていた心が凪いでいく。
「で? 本当にどうしたんだよ。悩みがあるなら、この頼れる彼氏に話してみな。大抵のことは解決してやれるぜ? 例えば、明日の小テストの範囲が分からないとか、購買のメロンパンが売り切れてたとか」
「わたしの悩みが、随分と可愛らしい事になっているね」
「そりゃ、お前が可愛いからだろ」
間髪入れずに返すと、
名前は「そう」とだけ呟き、視線を窓の外へ戻してしまった。しかし、白い頬がほんのり薄紅色に染まっているのを、俺は見逃さない。だが、彼女の深層に沈む憂いの正体は、未だ掴めないままだった。普段の彼女は、思考の大部分を分厚いベールで覆っている。そのベールを一枚ずつ剥がしていく過程が、堪らなく好きなのも事実だ。でも、今日のような分かり易い溜息は、俺の心を妙にざわつかせる。
「……なぁ、
名前」
「うん?」
「俺じゃ、頼りないか?」
柄にもない、弱気な言葉が口を衝いて出た。しまった、と思ったが、もう遅い。
名前は驚いたように目を見開いて、俺を見上げた。珍しい表情に、心臓を鷲掴みにされる。
「どうして、そう思うの?」
「だって、お前、何も言ってくれないから」
「……」
「お前の考えてること、全部知りたいなんて、傲慢なことは言わねぇよ。でも、お前がそんな顔して、溜息吐いてるのを見ると、……なんつーか、胸がぎゅっとなる。俺の知らないどこかで、お前が一人で何かを抱えてるんじゃないかって思うと、居ても立ってもいられなくなるんだよ」
思春期特有の、なんて一言で片付けるには、余りにも厄介で、どうしようもなく愛おしい感情が腹の底からせり上がる。
名前の存在一つで、俺の冷静さも策略も、いとも簡単に崩れ去ってしまう。俺はこの掴みどころのない少女に、完全に骨抜きにされている。
俺の告白に、
名前は暫く黙り込み、耳を傾けていた。軈て、ふわりと微笑むと、俺の制服の袖をそっと掴んだ。弱い力だった。
「鉄朗くんは、頼りないなんてこと、決してないよ」
「……じゃあ、何で」
「……秘密。これは、わたしの問題だから」
そう言って、悪戯っぽく笑う彼女の眸は、いつもの底知れない輝きを取り戻していた。結局、
名前の溜息の理由は分からずじまい。俺は内心で盛大に肩を落としながらも、彼女の指が触れる布越しの温もりに、否応なく絆されている自分を自覚するしかなかった。
「……お前のその秘密主義、いつか暴いてやるからな」
「楽しみにしているよ」
夕陽が校舎の向こうに沈み、教室に夜の気配が忍び寄る。
名前の謎は解けないまま、俺達は帰路に就いた。だけど、俺の脳内では、あの儚い吐息の音がいつまでもリフレインしていた。そして、この正体不明のモヤモヤが、その晩、俺の彼女を奇妙で壮大な夢の世界へと誘う事になるなど、知る由もなかった。

その日の夜、わたしは夢を見た。
鉄朗くんのことで、胸がいっぱいになったまま眠りへ就いたからか、舞台はどこか見覚えのある場所から始まった。
気が付くと、わたしは音駒高校の体育館へ続く、ひんやりとした渡り廊下に立っていた。けれど、その建物は実際のものとは似て非なる、全ての角が直角で構成された、真っ白な豆腐建築だった。奇妙な威圧感を放つ建造物に、何故か臆することなく足を踏み入れる。目的は中庭へ行くこと。夢の中のわたしは、それを至極当然の事と理解していた。
体育館の重い扉を開けると、そこには信じ難い光景が広がっていた。
先ず、天井。本来在る筈の武骨な鉄骨や照明はなく、巨大な鏡張りのアクアリウムになっていた。優雅に泳ぐジンベエザメや、色とりどりの熱帯魚の群れが、床を青く、幻想的に照らし出している。水の揺らめきが、光のカーテンとなり、現実と非現実の境界を曖昧にしていた。
その神秘的な光彩の中で、見慣れた赤いジャージ姿の山本猛虎くんが、寸分の狂いもないフォームで、延々とサーブを打ち続けていた。ボールがコートに叩き付けられる音、彼の気合の雄叫び、それらが無限にループしている。まるで、壊れた絡繰り人形のようだ、とぼんやり思った。
山本くんの横を通り過ぎ、体育館の隅に在る通気口へと向かう。何故か、そこが中庭への入口だと知っていた。ポケットから、徐に出前サービスのロゴシールを取り出し、錆びた金属の格子にぺたりと貼り付ける。これで良し。わたしは満足気に頷くと、身体を滑り込ませた。
暗く狭いダクトを抜けた先は、月明かりに照らされる静かな中庭だった。四方を豆腐建築で囲まれた空間の中央に、異様な存在感を放つ祭壇が鎮座している。黒曜石で出来た立札が祀られており、誰かの手習いらしき拙い文字で、こう刻まれていた。
『思春期』
祭壇の上には、硝子瓶が一つ、大事そうに置かれている。中身は何も入っていないように見えたけれど、よく目を凝らすと、立ち昇っては消える、仄かな湯気だけが閉じ込められていた。どこからか漂う、魚の脂が溶け出した、甘いスモーキーな香り。そう、これは秋刀魚の塩焼きの湯気だ。わたしは直感的に理解した。思春期を祀る祭壇に、秋刀魚の塩焼きの湯気。成程、実に理に適っている。
その時、わたしは自分の手に、いつの間にか、一冊の本が携えられていることに気づいた。ハードカバーの、ずしりと重い書籍。表紙には金色の箔押しで、こう記されている。
『反復横跳びする黒尾鉄朗の定期購読便』
わたしは迷うことなく祭壇に歩み寄り、その書物を秋刀魚の塩焼きの湯気瓶にそっと差し出した。奉納する神官のように、厳かな気持ちで。
すると、どうだろう。湯気瓶がカタリと揺れたかと思えば、祭壇の背後の闇から、するりと一人分の影が現れた。プリンヘッドが特徴的な、孤爪研磨くんだ。彼は眠たげな視線を手にしたゲーム機から離さないまま、静かに口を開いた。
「定期購読しながら、反復横跳びしてるクロが居るって聞いたんだけど」
その言葉を聴いた瞬間、ぷつり、と夢の糸が切れた。
自室のベッドの上で、目を開ける。窓の外は、まだ薄暗い。鮮明な夢の残滓が、脳裏に焼き付いている。豆腐建築、無限サーブの山本くん、思春期の祭壇、研磨くんのシュールな一言。余りに荒唐無稽な内容に、思わず笑いが込み上げた。
笑壺に入りながらも、わたしは理解していた。あの夢は紛れもなく、わたしの心そのものだったと。
『思春期』を祀る祭壇。それは、わたしを想う度に色々な現象と戦っている、愛しい鉄朗くんの象徴。秋刀魚の塩焼きの湯気は、彼の尽きることのないエネルギーや欲求。そして、『反復横跳びする黒尾鉄朗の定期購読便』。時に落ち着きなく揺れ動く彼の心情を、その全てを、わたしは定期購読するように、隅から隅まで把握していたいのだ。鉄朗くんの幼馴染である研磨くんが現れたのは、鉄朗くんに最も近しい存在である彼にすら、少しだけ嫉妬している独占欲の表れなのかもしれない。
わたしの、昨日の溜息の正体は、これだったのだ。
鉄朗くんが好きで好きで堪らない。彼の考えていること、感じていること、全部を知り尽くして、わたしのものだけにしたい。けれど、それは決して叶わない夢想だと分かっている。そのどうしようもない事実に対する、甘くて苦しい、諦めにも似た嘆息。わたしの問題、と言ったのは、この強過ぎる独占欲が、他ならぬ自分自身の心から生まれているものだからだ。
真実に辿り着いてしまうと、無性に彼に逢いたくなった。わたしは枕元のスマートフォンを手に取り、メッセージを打ち込む。
『鉄朗くん、今から会えないかな』
送信後、直ぐに通知音が鳴り、返信を告げた。『直ぐ行く』と云う短い言葉に、心が温かくなる。
マンションのエントランスで待っていると、暫くして、少し息を切らした彼が、寝癖もそのままに走ってきた。わたしの顔を見るなり、心配そうな、それでいて、安堵したような複雑な面持ちを浮かべる。
「
名前、どうしたんだよ、こんな朝早くに。また、何かあったのか?」
「ううん。只、鉄朗くんに逢いたくなっただけだよ」
わたしがそう言って微笑むと、彼は心底驚いた表情をして、それから困ったように眉を下げた。
「……お前のその一言で、俺の心臓が幾つあっても足りねぇの、分かってる?」
「ふふ、知っているよ」
わたしは一歩踏み出して、鉄朗くんの胸に額を預けた。とくん、とくん、と速い鼓動が伝わる。
「だから、わたしのものだね、鉄朗くんの心臓」
わたしの言葉に、息を呑む気配がした。鉄朗くんの腕が躊躇いつつも、わたしの身体を確りと抱き締める。彼の胸元に頬を埋めると、いつもと同じ、安心する匂いがした。
「……本当、お前には敵わねぇな」
耳元で、鉄朗くんの諦観めいた、最高に幸せそうな声が囁く。ふ、と彼の唇から零れたのは、昨日、わたしが吐いたものとは全く違う、温かくて甘い溜息だった。その音を聴きながら、わたしは満足して、そっと瞼を閉じた。彼の心音も、この吐息も、全部、わたしのものだ。そう思えば、胸の奥がきゅうっと絞られ、同時に満たされていくのだった。