塩キャラメルが跳ねる夜
∟※その他の項目に、嫌いな食べ物の入力を推奨。
月曜日は世界から色が少しだけ失われる日だ。週末の浮ついた空気が嘘のように静まり返った校舎は、まるで巨大な生き物の抜け殻のようで、わたしは余り好きではなかった。けれど、今日の月曜日はちょっとだけ違った。何故なら、本日は英くんの部活がオフの日だから。彼と二人で帰れる、ただそれだけの事実が、灰色だった筈の世界に淡い色彩を添えてくれる。
「じゃあ、また明日」
ホームルームが終わるなり、クラスメイト達が蜘蛛の子を散らすように教室を後にしていく。その喧騒の中、わたしは自分の席で、英くんが動き出すのを静かに待っていた。彼は未だ机に突っ伏したまま、微動だにしない。まるで化石にでもなってしまったかのように。その気だるげな背中を見つめているだけで、胸の内側が擽ったいような、甘い痛みにも似た感情で満たされていく。これが恋というものなのだろう。存外、悪くない。
暫くして、のそりと上半身を起こした英くんが、眠たげな瞳でこちらを向いた。その目がわたしを捉えた瞬間、ふにゃり、と警戒心の欠片もない笑みを浮かべるものだから、心臓が一つ、大きく跳ねた。この顔は、わたしだけのものだ。その事実が堪らない優越感をくれる。
「
名前、帰ろ」
「うん」
短いやり取り。けれど、その響きには確かな親愛が込められていて、それだけで充分だった。鞄を持って立ち上がった、その時。英くんのスマートフォンが、静かな教室に場違いな程の軽快な着信音を響かせた。
「……あ、姉ちゃん? うん、今? ……え、マジで。分かった、すぐ行く」
電話の相手は、英くんのお姉さんらしい。ちらりとこちらを窺う彼の表情が、見る見るうちに申し訳なさそうな色に変わっていくのを見て、わたしはこれから起こるであろう出来事を正確に予測した。
「ごめん、
名前。急用。姉貴が何かやらかしたらしくて、迎えに行かなきゃ」
「そう。大変だね」
「ほんと、ごめん。埋め合わせは、絶対するから」
心底済まなそうに眉を下げる英くんに、わたしは首を小さく横に振った。
「気にしないで。お姉さん、待っているんでしょう? 早く行ってあげて」
「……うん。じゃあ、また明日」
「また明日、英くん」
ばいばい、と軽く手を振って、彼は少し名残惜しそうにしながらも、足早に教室を出ていった。一人きりになった室内に、再び静寂が降りてくる。先程まで、確かにそこに在った筈の淡い色彩は、彼の背中と共に消え失せてしまったようだった。
(一緒に居たかったな)
ぽつり、と心の中で呟く。声に出すには、余りにも子供っぽくて、気恥ずかしい言葉。わたしはゆっくりとスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。英くんとのトーク画面には、昨日の夜の他愛ないやり取りが残っている。
『一緒に居たかった』
指が勝手に、そう打ち込んでいた。けれど、送信ボタンを押す直前で、わたしは指を止める。こんなメッセージを送ったら、英くんはきっと、自分の急用を更に気に病んでしまうだろう。それは、わたしの本意ではない。彼の優しさを知っているからこそ、余計な気遣いをさせたくなかった。
打ち込んだ文字を一つ、また一つと消していく。自分の心に蓋をするように。
結局、わたしは『気を付けて帰ってね』とだけ送り、スマートフォンを鞄に仕舞った。大丈夫。また明日になれば会える。たった一晩の我慢だ。そう自分に言い聞かせながら、一人、夕暮れ前の廊下を歩き始めた。

翌日の火曜日。英くんは朝から少し眠そうだったけれど、いつも通りだった。授業中に時折、彼からの視線を感じて、その度に心臓が小さく音を立てる。目が合えば、彼はちょっとだけ口角を上げて、すぐにまた気だるげな表情で黒板へと意識を戻す。その些細なやり取りだけで、渇き切っていた心が一気に潤っていくのを感じた。単純だ、と自分でも思う。
そして、放課後。英くんは当然のように部活へ向かった。分かっていたことだ。理解していたけれど、昨日、一緒に過ごせなかった分の寂しさが、じわりと胸に広がっていく。
(少しだけ)
ほんの少しだけなら、いいのではないだろうか。
気づけば、わたしの足は昇降口とは逆方向、体育館へと向かっていた。純粋な探求心とは、些か違う。ただ、英くんの姿を一目見たかった。汗を流す姿を、ボールを追う姿を、チームメイトと話す姿を。わたしが知っている気だるげな彼とは異なる、"バレーボール選手"としての国見英を、この目に焼き付けたかった。
体育館の裏手、ちょっとだけ開いた窓の隙間から、中を窺う。キュッ、キュッ、とシューズが床を擦る短い音。ボールが叩き付けられる衝撃音。そして、彼のチームメイトの檄が飛ぶ。その全てが混ざり合い、熱気となって肌を撫でた。
居た。
コートの向こう側、他の選手達に混じって、長身の練習着が動いている。しなやかな跳躍、無駄のないフォームで放たれるスパイク。それは教室で見る彼とは全く違う、精悍で、どこか近寄り難い空気を纏っていた。かっこいい、と素直に思う。けれど、同時に少しだけ寂しくもなった。あの場所は、わたしの知らない彼の世界だ。
不意に、こちらに飛んできたボールを拾おうとした金田一くんと、窓越しに目が合ってしまった気がした。わぁ、拙い。わたしは咄嗟に身を隠し、心臓を早鐘のように打たせながら、その場にしゃがみ込んだ。見られただろうか。いや、気のせいかもしれない。だけど、彼らの練習の邪魔をしてしまったかもしれないという罪悪感が、じわじわと胸を蝕んでいく。
(帰ろう)
会いたい、なんていう自分本位な感情で、英くんのテリトリーに踏み込むべきではなかったのだ。わたしは静かに立ち上がると、今度こそ本当に帰路に就いた。結局、会えずに終わる。なんて、滑稽なのだろう。
帰り道、コンビニに立ち寄った。特に買うものはなかったけれど、何となく、まだ家に帰りたくなかった。ぼんやりと店内を眺めていると、ふと、お菓子コーナーの一角が目に入る。そこには、英くんの好物である塩キャラメルが行儀良く並べられていた。
無意識に、その内の一箱を手に取っていた。彼の為に買ったわけではない。ただ、わたしが食べたかっただけ。そう、自分に言い訳をしながら。
自宅のマンションに帰り着き、自室のベッドに倒れ込む。手の中には、まだほんのり冷たい塩キャラメルの箱。これを渡す口実があれば、今直ぐにでも彼に会えるのに。
『今、何してる?』
また、メッセージを打っては消した。遠回りばかりしている。素直に「会いたい」と、ただその一言が言えないわたしは、本当に臆病だ。
結局、その日のわたしは、英くんに連絡することができなかった。

火曜日の部活は、いつもよりきつく感じた。月曜に休んだ分を取り戻すかのような容赦ない練習メニューに、体中の水分が全部汗になって出ていったんじゃないかとさえ思う。疲労感でぐにゃぐにゃになった身体を何とか引き摺り、部室で着替えていると、隣で同じように伸びている金田一が話し掛けてきた。
「なあ、国見。今日、体育館の裏に、
苗字さん、居なかったか?」
「は?
名前が?」
思わぬ名前に動きが止まる。金田一は「いや、ボール拾いに行った時、一瞬見えた気がしたんだよな……気のせいかもしんねーけど」と、自信なさげに首を傾げた。
(あいつ、来てたのか……?)
もし本当に来ていたのなら、どうして声を掛けてこなかったんだろう。昨日、一緒に過ごせなかったから? いや、
名前はそういうことを気にするタイプじゃない。寧ろ、「英くんの練習風景を観察しに来たよ」とか、平然と言い放ちそうな奴だ。
もしかして、俺が何か怒らせるようなことをしたのだろうか。いや、心当たりはない。そもそも、
名前の地雷がどこにあるのか、付き合っている俺ですら完璧には把握できていない。ミステリアス、と言えば聞こえはいいが、時々、何を考えているのか、本気で分からなくなる。
「……さあ。連絡、来てないし」
ぶっきら棒にそう答えると、俺はロッカーを閉めた。いつもなら、部活が終わるこの時間帯に、
名前から『お疲れ様』とか、育てている観葉植物の成長記録とか、どうでもいいようで、でも、俺にとっては大事なメッセージが届いている筈だった。しかし、今日に限って、スマートフォンは沈黙を保ったままだ。
言いようのない胸のもやもやを抱えたまま、金田一とのっそりと帰路に就く。自販機で買ったスポーツドリンクが、やけに温く感じた。
家に帰り着くと、どっと疲れが押し寄せてきた。シャワーを浴びる気力もなく、制服のままベッドに倒れ込む。スマートフォンを手に取り、
名前とのトーク画面を開く。何か送ろうか。でも、なんて? 『今日、来てた?』と訊くのも、何か違う気がする。
思考が上手く纏まらない。瞼が鉛のように重い。まあ、いいか。明日、会えるんだし。
俺は考えるのをやめて、重力に身を任せるように深い眠りの中へと沈んでいった。
……そして、俺はとんでもなく奇妙な夢を見た。
気づくと、俺は青葉城西高校の体育館に居た。だが、何かがおかしい。視界がぐにゃりと歪んでいる。そう、体育館全体が、有り得ないことに斜め45度に傾いていたのだ。平衡感覚が狂い、立っているだけで精一杯だ。そして、床には何故か、俺の好物である塩キャラメルが、バスケットボールみたいにポーン、ポーンと規則正しくバウンドしていた。硬質な音を立てて跳ねる、無数の塩キャラメル。シュール過ぎる。
「うわ……」
この悪夢から逃げ出そうと、俺は傾いた体育館の扉を開け、外に出た。すると、廊下の曲がり角で、金田一がうつ伏せに倒れていた。
「金田一? おい、大丈夫か」
声を掛けると、金田一はゆっくりと面を上げた。しかし、その目は虚ろで、俺と視線を合わせようとしない。ぷいっ、と効果音が付きそうな勢いで顔を逸らされ、そのまま再び床に突っ伏してしまった。なんなんだ、こいつは。
金田一を放置して先に進むと、目の前に古びた寺の門が現れた。学校の廊下から寺に行けるとか、どんな構造だよ。門には『
その他専門 精神修行寺』と達筆な字で書かれている。
その他。
名前が世界で一番嫌いな食べ物だ。なんで、そんな場所に俺が。
恐る恐る中へ入ると、本堂らしき場所の中央に鎮座していたのは、仏像ではなく、一台の冷蔵庫だった。上には、
その他型の小さな聖像が載せられている。その冷蔵庫は「ブゥーン……」と自我を持っているかのように不気味に唸っており、扉には『本日定休日』という札がぶら下がっていた。定休日なのに、普通に入れたけど。
ワケが分からないまま冷蔵庫に近づくと、その扉が独りでに、ぎぃ……と開いた。中を覗き込むと、そこには霜に塗れた俺の通知表がぽつんと一枚、置かれていた。手に取って見てみると、『生活態度:やや無気力』の文字が赤ペンで強調されている。ご丁寧にどうも。
すると、俺はいつの間にか、右手に一冊の本を携えていた。表紙には『発芽する国見英の可能性』と書かれている。なんだ、この自己啓発本みたいなタイトルは。俺は謎の使命感に突き動かされ、その本を冷蔵庫の中に戻した通知表にそっと重ねた。意味は全く分からない。
その瞬間。
「低燃費で光合成する国見ちゃんが居るって聞いたんだけど!」
背後から、やけに明るい、聞き慣れた声が響いた。振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた及川さんが、何故か如雨露を片手に立っていた。
「え、及川さ……」
俺が何か言うより早く、及川さんは俺の足元を指差した。見ると、そこからにょきにょきと双葉が生え、あっと言う間に俺自身が鉢植えに収まっていた。発芽する国見英、マジか。
「うん、いいね! この国見ちゃんなら、俺の部屋のインテリアにぴったりだ! 水やりも殆ど要らなさそうだし、正に省エネ!」
そう言って、及川さんが俺の植木鉢を軽々と持ち上げようとした、その時だった。
「――――ッ!!」
俺はベッドから跳ね起きた。心臓がバクバクと煩い。全身、じっとりと汗を掻いていた。窓の外はまだ暗い。
なんだ、今の夢……。カオスにも程がある。
その他寺、自我を持つ冷蔵庫、そして、発芽する俺。及川さん、俺をインテリアにしようとしないでください。
荒い息を整えながら、ぼんやりと夢の内容を反芻する。意味不明な悪夢だった。けれど、その支離滅裂な夢の後で、何故か無性に、はっきりと一つの感情だけが浮かび上がってきた。
(
名前に会いたい)
今直ぐ。この瞬間に。
理由は分からない。夢の所為かもしれないし、夕方からのもやもやが爆発しただけかもしれない。でも、もうどうでもよかった。明日とか、遠回りなんてしている場合じゃない。
俺はTシャツとスウェットに着替えると、スマートフォンと財布だけをポケットに突っ込み、静かに家を抜け出した。夜の冷たい空気が、火照った身体を冷ましていく。
向かう先は、
名前が兄と二人で住んでいるマンションだ。管理人以外は
苗字兄妹しか住んでいないという、ちょっと特殊な場所。躊躇うことなくそこまで走り、エントランスの前で立ち止まる。そして、
名前に電話を掛けた。数回のコールの後、眠そうな、でも、紛れもない彼女の声が聞こえた。
『……もしもし、英くん? どうしたの、こんな時間に』
「……
名前。今、家の前に居る」
『え……?』
電話の向こうで、
名前が息を呑むのが分かった。数分の、永遠のように長い沈黙。やがて、エントランスの自動ドアが静かに開き、部屋着姿の
名前が姿を現した。驚きに見開かれた瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
「本当に、居る……」
「……うん」
駆け寄る彼女の前に立ち、なんて言えばいいか分からなくて、口籠もる。こんな時間に押し掛けて、ただの迷惑な彼氏だ。
「ごめん、急に。なんか……変な夢見て、無性に……会いたくなった」
我ながら、意味の分からない言い訳だ。けれど、嘘偽りのない本心だった。それを聞いた
名前は、きょとんとした顔で数回瞬きをした後、ふわり、と花が綻ぶように微笑んだ。
「そう。わたしもだよ、英くん」
彼女はそう言うと、おずおずと自分の右手を差し出した。その小さな手には、見覚えのあるパッケージが握られていた。夢にまで見た、塩キャラメルの箱。
「わたしも、ずっと会いたかった。遠回り、してしまったけれど」
その言葉と、彼女の潤んだ瞳を見て、全てを理解した。ああ、そうか。こいつも、同じ気持ちだったのか。
堪らなくなって、俺は彼女の手を両手で包んだ。塩キャラメルの箱が、コトリと音を立てる。
「……部屋、入ってもいい?」
「……うん。
兄貴兄さん、多分、まだ起きているけれど」
構うものか。今はこの両手の中に在る彼女の温もりだけが、俺の全てだった。遠回りした分、今日はお互い、素直になれそうだった。俺達はどちらからともなく顔を見合わせ、小さく笑い合うと、誰も居ない静かなエントランスを抜け、甘い薄闇の中へと歩を進めた。