塩キャラメルが溶ける頃
性的な事柄を連想させる表現、兄貴が登場します
名前に導かれるまま、静まり返ったマンションのエントランスホールを抜ける。ひんやりとした空気が肌を撫で、さっきまでの焦燥が、嘘のように凪いでいくのを感じた。数歩前を歩く
名前の細い背中と、さらりと揺れる髪から目が離せない。只、彼女がそこに居ると云う事実だけで、悪夢で掻き乱された気持ちが満たされる。単純なものだ、俺の心も。
エレベーターを降り、見慣れた部屋の扉が開かれる。
苗字家特有の、古い紙と甘い花の混じった匂いが、ふわりと鼻腔を擽った。安堵から、思わず深い息を吐く。
「どうぞ。散らかっているけれど」
「……お邪魔します」
促されるまま、リビングに足を踏み入れた、その瞬間。ソファの影から、ぬっと黒い人影が現れた。心臓が跳ねる、と云うよりは、一度止まってから、嫌な音を立てて動き出した、と云う方が正しい。
「おや、低燃費の彼じゃないか」
そこに立っていたのは、
名前の兄、
苗字兄貴さん。いつも通りの全身同一色だが、胸元には白抜きで『〆切直前』と書かれた、ふざけたTシャツを着用している。作家としての気概の表れなのか、只の悪趣味なのか。
「
兄貴兄さん、まだ起きていたの」
「ああ。自我を持つ冷蔵庫に恋する
その他の話を思い付いてね。プロットを練っていたところさ」
それ、俺が見た夢とニアミスしてませんかね。
兄貴さんは、俺を一瞥すると、にこり、と人の良さそうな、しかし、目の奥が全く笑っていない笑顔を向けた。
「こんな夜更けに、俺の可愛い妹に逢いに来るとは、中々の情熱だね、英くん。感心するよ。だが、パジャマも持たずに来たんだろう? これを貸してあげよう」
兄貴さんはそう言って、どこからともなく取り出したミント色のTシャツを、俺の眼前に突き付けた。それには白く大きく、こう書かれていた。
『待機電力』
「……遠慮します」
「そう言うなよ。君の為に取っておいたんだ。ほら、肌触りも良い」
「
兄貴兄さん、英くんが困っているよ」
俺が断るより早く、
名前が冷静な声で、
兄貴さんを制した。彼女は慣れた様子で、兄の手から服を取り上げると、ソファの上に無造作に放る。
「それに、このTシャツは、昨日、兄さんが着ていたものでしょう?」
「おっと、バレたか。だが、洗濯済みだよ。それに、物語の主人公(ヒーロー)には、適切な衣装が必要だからね」
全く悪びれない
兄貴さんに、俺は内心で深い溜息をついた。この人のペースに巻き込まれると、体力を無駄に消耗する。省エネを信条とする俺にとって、天敵のような存在だ。
「まあいい。君達には、積もる話もあるだろう。俺は仕事部屋に戻るよ。英くん、くれぐれも、
名前を泣かせるんじゃないぞ。俺の妹の涙は、たった一粒で湖が出来るくらい貴重だからね」
大袈裟な台詞と共に、
兄貴さんはひらりと手を振り、自室へと消えていった。漸く訪れた静寂に、肩の力を抜く。
「ごめんね、英くん。兄が」
「……いや。慣れた」
嘘だ。全く慣れない。
名前はくすりと笑い、「こっちだよ」と俺の手を引いた。連れて行かれたのは、彼女の私室だった。
ドアを開けた瞬間、リビングとはまた違う、より濃密な彼女自身の香りに包まれる。壁一面の書架、窓辺に置かれた観葉植物、寝室の中央に鎮座する、深いネイビーのカバーが掛けられたベッド。全てが、
苗字名前と云う人間を構成しているみたいで、神聖な場所に足を踏み入れてしまったような、妙な緊張感が奔った。
「座って。何か飲む?」
「……水、貰っていい?」
俺がベッドの縁に腰掛けると、
名前は縦に頷き、部屋を出ていった。一人残された俺は、改めて室内を見渡す。本棚には、俺には到底理解できそうにないタイトルの哲学書や画集が並んでいる。あいつの頭の中は、一体、どうなっているんだろう。
直ぐに、グラスを持った
名前が戻ってきた。手渡された水を一口飲むと、乾いた咽喉が潤う。
「それで、英くん。変な夢って、どんな内容だったの?」
隣にちょこんと座った
名前が、夜の海のような双眸で、俺を見上げる。無垢な好奇心に満ちた視線を受け、あのカオスな夢の内容を明かすのが、急に気恥ずかしくなった。
「……体育館が、斜め45度に傾いてて」
「うん」
「床で、塩キャラメルがバウンドしてた」
「うん」
「廊下に、金田一が倒れてて、無視された」
「ふふっ」
「で、
その他寺の冷蔵庫に通知表があって……最終的に、俺、発芽した」
雑な説明を終えると、
名前が肩を震わせて笑い出した。最初こそ、くすくすと上品だった笑声は、やがて堪え切れなくなったように「あははっ」と弾けた。滅多に見せない、年相応の無邪気な笑顔。その破壊力に、俺の心臓は容易く撃ち抜かれる。
「ご、ごめんね……でも、発芽する英くん、ちょっと見てみたいかも」
「……及川さんみたいなこと言うな」
笑壺に入り、潤んだ目許を指で拭いながら、
名前は「はい」と何かを差し出した。それは、彼女がコンビニで買ったと云う、塩キャラメルの箱だった。
「夢の中の英くんは、食べられなかったでしょう?」
そう言って、悪戯っぽく笑う彼女が、余りにも愛しくて。
言葉なんて、もう必要なかった。俺は受け取った紙箱から、一粒のキャラメルを取り出すと、
名前の唇にそっと押し当てた。驚いて、少しだけ開かれた唇の隙間から、琥珀色の塊を滑り込ませる。
「ん……」
名前がそれを舌で転がすのを見届けてから、俺も一粒、自分の口に放り込んだ。柔らかくて、僅かにしょっぱい。遠回りした時間の味がする。
口中に広がる、甘くて塩気のある味加減。英くんの好きな味で、わたしが彼を想って買った味だ。彼の手によって与えられたそれは、他のキャラメルよりもずっと特別で、官能的なフレーバーさえ持っているように感じられた。
わたしの瞳を、英くんの些か眠たげな、熱を帯びた瞳が真っ直ぐに見つめている。視線に射抜かれて、身体中の血液が沸騰しそうだった。言葉は要らない。彼が何を求めているのか、わたしが何を欲しているのか、お互いに痛い程、理解していた。
どちらからともなく、顔が近づく。触れ合った唇は、英くんと塩キャラメルの味がした。最初は啄むようだったキスは、直ぐに深さを増していく。彼の両手が、わたしの肩を支え、ベッドの上にゆっくりと押し倒された。視界に広がるのは、彼の真剣な表情と、薄暗い天井だけ。
「……
名前」
掠れた声が名前を呼ぶだけで、身体の芯が蕩けてしまいそうになる。一緒に過ごせなかった二日分の寂しさが、焦がれるような熱に変わり、わたしの中から溢れ出す。
「英くん」
わたしは彼の首に腕を回し、その身を強く引き寄せた。もっと触れてほしい。彼の全てを、わたしの中心に刻み付けたい。言葉にならない想いが、互いの肌を通して流れ込むようだった。
英くんの指が、部屋着の裾からそろりと忍び込み、素肌をなぞる。その感触に震えが奔った。
「……なあ」
「うん」
「今日、泊まってもいい?」
それは問い掛けの形をしていたけれど、有無を言わさない響きを持っていた。わたしは返事の代わりに、英くんの唇に、再び自分の口唇を重ねる。言の葉よりも確かな、わたしの答えだった。
英くんは満足そうに目を細めると、わたしの髪を優しく梳いた。手つきはどこまでも慈しみに満ちていて、胸の奥がきゅう、と甘く締め付けられる。
「俺さ、お前が体育館に来てたって、金田一から聞いた」
「……見ていたの」
「いや、俺は見てない。でも、来てたなら、声、掛けてくれれば良かったのに」
少しだけ、拗ねたような口調。それが堪らなく愛おしくて、わたしは彼の頬に片手を添えた。
「英くんの邪魔をしたくなかった。それに、わたしが逢いたかっただけで、英くんはそうじゃないかもしれない、って思ったら、臆病になってしまったんだ」
素直な心境を吐露すると、彼は意外そうに双眸を見開いた。そして、ふ、と息を吐くように笑う。
「俺が、
名前に逢いたくないわけないだろ」
低めた声は、絶対的な確信に満ちていた。わたし達は同じ気持ちで、同じように遠回りをして、同じようにもどかしい夜を過ごしていたのだ。その事実が、どうしようもない程の幸福感となって、全身を駆け巡った。
「英くん」
「ん?」
「わたしを、英くんのものにして」
それは、わたしが言葉にできる、精一杯の想いだった。わたしの願いを聞いた英くんは、一瞬だけ息を止め、深く頷いた。彼の瞳の奥で、静かな炎が、ごう、と音を立て、燃え上がるのが見えた気がした。
もう遠回りも、擦れ違いも要らない。
空が白み始めるまで、只、お互いを求め合う。口にできない沢山の想いは、きっとこの熱が全て伝えてくれる筈だから。
こうして、塩キャラメルが跳ねる奇妙な夜は、二人だけの甘い宵へと、姿を変えていくのだった。