状態異常:ときめき
∟幼馴染との静かな会話の中、恋の根っこが浮かび上がる。
「……やや苦悶する研磨が居るって聞いたんだけど? お悩み相談なら、この黒尾さんが聞いてあげようじゃないの」
悪戯を仕掛ける猫のように、しなやかで足音もなく。人懐っこさを煮詰めたようでいて、ほんの少しだけ神経を逆撫でする声が、不意に背後から降ってきた。ソファの背凭れに体重を預けていた孤爪は、攻略中のRPGの一時停止ボタンを押しながら、億劫そうに首だけを巡らせる。
視線の先には、案の定、全てを見透かしたような、黒尾の顔。口角をにい、と引き上げたその表情は面白がっているようでもあり、僅かな揶揄いをスパイスのように含んでもいる。けれど、こちらが本気で傷付く領域には、決して踏み込まない。その絶妙な間合いの取り方が、この幼馴染の食えないところだった。
「……なんで知ってるの」
「知ってるも何も、山本が嘆いてたぞ。今日の研磨、トスがコンマ数秒、思考がワンテンポ遅かったってな。鬼の霍乱か、それとも恋の病かってさ」
「……言う程、遅れてない」
唇を尖らせて反論するも、説得力は皆無に等しい。自分でも自覚はあった。サーブの軌道、ブロッカーの呼吸、スパイカーの助走。いつもなら寸分の狂いもなく脳内で処理される情報が、今日は妙なノイズに掻き消され、クリアな判断ができなかった。
「そーかなぁ。俺の目には、致命的なバグを抱えた"恋する男の子"にしか見えなかったけど?」
黒尾の肘が、こつん、と軽い音を立て、孤爪の肩を小突く。その一撃が、図星と云う名の的の中心を正確に射抜いた。
「……違う」
「はいはい、違いませんー。じゃあ、違わない方に賭けて、俺がカフェで奢ってあげよう。特別お悩み相談コース付きでな」
「うざ……」
吐き捨てた言葉とは裏腹に、孤爪はのろのろと立ち上がっていた。ゲーム機をスリープさせながら、小さな溜め息をつく。どう云うわけか、この男にだけは、心の奥で絡まったコードを解きほぐせるような、そんな予感がしたからだ。
辿り着いたのは、吉祥寺の喧騒から一本路地を入った、蔦の絡まる静かなカフェ。黒尾は慣れた様子でアンティーク調の扉を開け、窓から午後の柔らかな光が差し込む特等席を選ぶ。まるで、自分のテリトリーだとでも宣言するように。
「俺は、アイスカフェラテ。研磨は……ホットのカモミールティーな。落ち着くヤツ」
メニューも見ず、店員に告げる黒尾に、孤爪は何も言わなかった。こちらの思考パターンを読まれているようで居心地は悪いが、今はその先回りが有り難くもあった。
やがて運ばれたカップから、ふわりと優しい湯気が立ち昇る。
「で? 好きな子が出来た、ってことで、ファイナルアンサー?」
単刀直入な問いに、孤爪は答えあぐねて、テーブルの木目を指先でなぞる。
「……どうして、そう思うの」
「勘。それと経験則。研磨がシステムエラー起こしてる時って、大抵、"人"が関わってる。ゲーム相手じゃ、お前はそうならないだろ」
「……バグってる、って……」
「褒め言葉だよ。で? どんな子なの」
促され、孤爪は観念した様子で、唇を僅かに開いた。カモミールティーの香りが、緊張した咽喉をそっと潤す。
「……
苗字、さん」
「ほぉぉぅ。あの、物静かな文学少女って感じの? 図書室の匂いがしそうな。大人しいけど、瞳の奥に揺るがない芯が一本通ってるタイプの?」
黒尾の的確過ぎる人物評に、孤爪は素直に頷くことしかできない。
黒尾は「成る程ねぇ」と感心したように口笛を吹くと、グラスの中の氷をストローで掻き混ぜた。カラン、と涼やかな音が店内に響く。
「で、悩みってのは?」
「……分からないんだよね。どうして、"好き"って思うのか、その根拠が」
孤爪は漸く言葉を紡ぎ始めた。
「会うと心臓が煩いし、話し掛けられると、その言葉がずっと頭の中でリピート再生される。……でも、理由がない。ロジックがないんだ。どうして、彼女じゃなきゃダメなのか、説明できない。よく分かんないのに、こんなに思考のリソースを割かれてるのが、変だなって」
「成る程ねぇ」
黒尾は一瞬で冗談めかした顔を消し、真剣な眼差しを孤爪に向けた。不敵な表情がデフォルトの男が、ふと見せる真顔。それだけで、カフェの騒めきが遠退き、場の空気がぐっと密度を増す気がするから狡い。
「理由なんて、なくていいんだよ」
「……え」
「いや、あったら便利だとは思うぜ? 『笑顔が可愛いから好き』とか『話が合うから好き』とか、アピールし易いしな。でも、今の研磨がぶち当たってる壁は、もっと根源的なヤツだろ。多分、"無条件で好き"ってヤツだ」
黒尾はカフェラテの結露を指で拭いながら言った。
「理屈じゃないんだよ。無条件で君が好き、ってヤツ。理由を必死に探すより、そう思ってる、今の自分の感情を信じる方が、よっぽど大事だったりする」
「……それって、バグじゃないの」
「バグでいいじゃん。そのバグのお陰でさ、今の研磨、めちゃくちゃ輝いてるぜ」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「だから、Sランクエンディングは目前だって。この俺が保証する」
黒尾はニカッと笑った。
その軽い調子は、けれど不思議な説得力を持って、孤爪の強張っていた背中をそっと押してくれた。
次の日。孤爪はいつもより、ほんの少しだけ多くの勇気をポケットに入れ、校舎の廊下を歩いていた。
放課後の喧騒と、夕陽の匂いが混じり合う時間。曲がり角の向こうから、見覚えのある姿が現れた時、孤爪の心臓が大きく跳ねた。普段なら、咄嗟に視線を逸らし、気配を消してしまう場面。だが、今日は違った。逃げずに一歩を踏み出した。
「……あの、
苗字さん」
名前が足を止める。夕映えが彼女の髪を透かし、淡い輪郭を作っていた。静かな瞳が、不思議そうにこちらを見つめている。
「今、少しだけ話してもいい?」
「……うん、いいよ」
凛としているけれど、柔らかな声。
校舎裏の、今はもう誰も使わないベンチ。肌寒くなる夕方の空気に、乾いた落ち葉の匂いが微かに混じっている。遠くからは運動部の掛け声が、風に乗って届いていた。
「……理由とか、根拠とか、よく分からないんだけど」
孤爪は自分の指先を見つめながら切り出した。ゲームのコントローラーを握る時とは違う、心許ない震え。
「きみのこと、ずっと考えてる。会わない日は、何してるのかなって思う。会えた日は、その一日を、何度も頭の中で再生してる」
「……え?」
「好きだよ。……無条件で、きみが好き。……変、かな」
言い切って、顔を上げる。
名前は、ぽかんとした顔で一瞬動きを止め、その深い色の双眸を瞬かせた。
やがて、その薄桃色の唇が、ふわりと花開くように綻んだ。
「変じゃないよ」
名前は小さく、でも、はっきりと笑った。
「……わたしも、同じだから」
Sランクエンディング達成。
この恋と云う名のバグは、修正不可能な、最高に美しいシステムエラーだった。