カンストする共有夢 | Title:愛の強さ
その夜、孤爪研磨は湿った体育館の隅で目を覚ました。
夢の中の話だ。
いや、本人は夢だと気づいてはいなかったが。
馴染んだ筈の音駒高校の体育館は、記憶の中のそれとは似ても似つかない姿に変貌していた。床は足裏に冷たい感触を伝える、苔生した石畳。等間隔で滴り落ちる水滴の音が、ぽたん、ぽたんと、張り詰めた静寂に鋭く突き刺さる。空気はひやりと重く、呼吸の度に濃密な湿り気が舌先に纏わり付くようだった。まるで深い洞窟の底にでも迷い込んだかのようだ。
そして、目の前には信じ難い光景が広がっていた。ウーパールーパー達が何故か体操服を着て、一糸乱れぬ動きで整列し、ストレッチを行っている。ピンク色の柔らかな体が、妙な律動感を以って伸び縮みしていた。
(……見なかったことにしよう)
研磨は即座にそう判断し、そっと視線を逸らした。関わると面倒なことになる、という予感が働いた。難易度の高いクエストの導入部分のようだ。
背中に感じる通学鞄――何故か現実よりも数倍重く、岩でも詰まっているかのよう――に猛烈なタックルを受けながら、意思を持っているかのように、鞄が彼を洞窟の奥へと押し進める。抗う気力も湧かず、成すがままに進んでいくと、やがて仄暗い空間の先に、小さな祠のようなものが見えてきた。
近づいてみると、それは神社だった。鳥居の代わりに巨大なシュウマイが二つ、門のように聳え立っている。その異様な光景に眩暈を覚えつつ、奥へと視線を向けると、祭壇が設えられていた。中央には一際巨大な、湯気を立てているかのような錯覚さえ覚えるシュウマイが鎮座している。そして、その祭壇の脇には石碑があり、そこにはこう刻まれていた。
――猫又監督に捧ぐ。
(……なんでシュウマイ? アップルパイならいいのに……)
思考が迷走する中、祭壇の奥に目を凝らすと、更に奇妙なものが奉納品のように安置されていた。それは寸分違わぬ自分自身の姿を模した、1/8スケールのフィギュアだった。やや不満そうな、眠たげな表情まで忠実に再現されている。
(……なんか、凄くやだな、これ)
心の声は、この奇妙な空間の法則には干渉できないらしい。小さな研磨フィギュアはまるで生きているかのように動き出し、丁度、お参りに来たらしい
名前の手から一冊の本を受け取った。
名前の姿はいつものように静かで、どこかこの世の者ではないような雰囲気を纏っている。
研磨は、
名前が手渡した本のタイトルを読み取ろうと目を細めた。
『やや不満そうに浮遊する孤爪研磨の週三日バレー生活』
「……そんな生活、送ってないと思うけど……浮遊って何……」
呟きが洞窟の湿った空気に溶けた、その直後だった。
空気がぐにゃりと歪んだ。質量を持った気配が背後から忍び寄る。それは毛布のように優しく、それでいて抗い難い力で、確実に研磨を包み込もうとしていた。
「やや苦悶する研磨が居るって聞いたんだけど? お悩み相談なら、この黒尾さんが聞いてあげようじゃないの」
聞き慣れた、しかし、今はどこか荘厳さすら帯びた声。黒尾鉄朗だ。彼の声は神社の神主が祝詞を読み上げるかのように、薄暗い洞窟の中にやけに低く、深く響き渡った。その声色に、研磨は言いようのない居心地の悪さを感じた。
夢はそこで、ぷつりとテレビの電源が落ちるように、唐突に終わった。
研磨はゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の白い天井。額には寝癖の付いた自分の髪が数本、汗で張り付いている。冷房が効き過ぎているのか、部屋の空気は少し肌寒く、喉が微かに渇きを訴えていた。
隣に目をやると、そこには
苗字名前が静かに眠っていた。
彼の恋人であり、初恋であり、そして唯一の人。
掛け布団から僅かにはみ出した彼女の肩に、窓から差し込む朝の柔らかい陽光が淡い輪郭を描いている。艶やかな髪が白い枕の上に流れ、眠るその横顔は時を止められた彫刻のように、完璧な静謐さを湛えていた。
このまま時間が止まってくれたら――などと、普段の彼ならば決して考えもしないような、感傷的な言葉が不意に頭に浮かび、すぐに打ち消した。ゲームならポーズボタンを押せるけれど、現実はそうはいかない。
「ねぇ、研磨」
不意に、
名前の声がした。それは夜明けの湖面のように澄み切っていて、静かな部屋に心地よく響いた。彼女はもう目覚めていたらしい。長い睫毛が微かに震え、夜の海を思わせる深い色の瞳が研磨を捉えた。
「……起きてたの」
「うん、少し前から」
名前はゆっくりと身体を起こし、枕に背を預けた。陽の光を浴びて、彼女の白い肌が一層透き通って見える。
「夢……見た」
研磨は目を細めながら言った。あの奇妙な夢の残滓が、まだ意識の隅に残っている。
「地下迷宮の?」
名前が問い返す。その声には、確信めいた響きがあった。
「わたし、研磨に本を渡したんだ。変なタイトルの」
「……見てた。おれも。シュウマイの神社の奥で」
「じゃあ、やっぱり、あれは――共有夢だったんだね」
淡々と、だが、どこか不思議そうに
名前は微笑む。彼女のその表情は時折、研磨の中にある理屈や論理をいとも簡単に無効化してしまう力を持っていた。共有夢なんて非科学的な現象を、彼女は当然のことのように受け入れている。
暫く、二人の間には沈黙が流れた。窓の外からは、遠くで車の走る音や、鳥の囀りが聞こえてくる。日常の音だ。それが、さっきまで見ていた奇妙な夢とのギャップを際立たせる。
「ねぇ、研磨」
再び、
名前が口を開いた。
「愛の強さって、どうやって測るのかな」
唐突な問いだった。まるで夢の中の出来事の続きのように、それは研磨の思考に滑り込んできた。愛の強さ。そんなもの、考えたこともなかった。ゲームのステータスみたいに、HPや攻撃力のように数値化できるものなら、分かり易いのに。
「……レベルとか、経験値とかじゃない?」
研磨は自分でも少し的外れかもしれないと思いながら、彼らしい言葉で返した。
「ふぅん」
名前は小さく頷き、悪戯っぽく目を細めた。
「じゃあ、わたし達の愛のレベルは、今、幾つくらいだと思う?」
その問いに、研磨は言葉に詰まった。レベルなんて分からない。測る方法も知らない。けれど、今、隣に居る
名前の存在、その温もり、静かな呼吸、自分を見つめる深い瞳。それらが、どんな難関クエストをクリアした時よりも確かな手応えとして、彼の心を満たしている。それはレベルや数値では到底表現できない、もっと根源的な感覚だった。
「……カンスト、してるといいけど」
迷った末に、研磨はぼそりと呟いた。最大レベル。それ以上は上がらない、絶対的な強さ。
名前は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにくすりと喉を鳴らして笑った。
「カンストか。研磨らしい答えだね。じゃあ、もうこれ以上は強くならないの?」
「……バグ技とか、アップデートとかで、上限解放されるかも」
研磨は少しムキになって答えた。ゲームの世界では、常に限界を超える方法が存在する。愛だって、そうかもしれない。
「そう。じゃあ、これからも一緒にレベル上げを頑張らないとね」
名前は満足そうに微笑んだ。
彼女の言葉は、研磨の心をふわりと軽くした。そうだ、レベル上げだと思えばいい。二人で一緒に経験値を積んで、もっと強くなっていけばいい。それは終わりが見えないけれど、決して退屈ではないクエスト。
陽光が部屋を満たし始め、冷房の効いた空気が少しずつ温まっていく。研磨は掛け布団をそっと引き上げ、
名前の肩を覆った。
名前は黙ってそれを受け入れ、心地よさそうに目を閉じる。
「愛の強さ」なんて、結局のところ、測る必要などないのかもしれない、と研磨は思った。それは派手なエフェクトや劇的なイベントシーンで示されるものではなく、こうして隣に居ること、触れ合うこと、同じ時間と空間を共有すること、その一つひとつに宿っているのだろう。地道なレベル上げがキャラクターを確実に強くしていくように、この穏やかな日常の積み重ねこそが、二人の絆を揺るぎないものにしている。
それはどんなレアアイテムよりも貴重で、どんな最強のボスを倒すよりも難しいけれど、何よりも確かな、セーブデータのような安心感。
研磨は、
名前の寝息が聞こえる程の静寂の中で、そっと彼女の髪に触れた。指先に伝わる柔らかな感触。この温もりを守りたい。この静かな時間を、できるだけ長く続けたい。その想いこそが、今の彼にとっての「愛の強さ」の、最も具体的な形なのかもしれない。
「ねぇ、
名前」
「ん……?」
眠りに落ち掛けていたのか、
名前が微かに声を漏らす。
「……別に、なんでもない」
言いたいことは、きっと沢山ある。感謝も、不安も、未来への漠然とした期待も。でも、それらはまだ、研磨の中で適切な言葉になっていない。だけど、それでいい、とも思った。
名前は何も追求せず、ただ研磨の気配を感じながら、再び穏やかな眠りへと沈んでいく。それで充分だった。共有された奇妙な夢の記憶も、今はもう二人の絆を確かめる為の、少しおかしなエピソードの一つに過ぎなかった。