孤独な猫の恋心
∟片想い、攻略開始。
「……どうしよう」
スマホの画面に映った攻略サイトをスクロールしながら、口から小さく溜め息が漏れた。明るく輝く画面が暗い部屋の中で浮かび上がる。
『片想い 脈ありサイン』
『片想い 脈なし 見分け方』
『好きな人 振り向かせる方法』
検索履歴のラインナップを見つめる度、自分の情けなさに沈んでいく。虎がやってる恋愛シミュレーションゲームなら攻略できると思うのに、現実の恋愛は難易度が高過ぎる。
「おれ……馬鹿じゃないの……」
頭を掻きながら、ベッドに身を投げ出す。天井の微かな染みをぼんやりと見つめる。そこに彼女の横顔が浮かんでは消える。
苗字名前。
その名前を心の中で呟くだけで、胸の奥に熱が広がる。静かな炎が燃え上がるような感覚。
名前はおれにとって、ただの『好きな人』なんかじゃない。特別な存在だ。
深い夜の海のような瞳に見つめられると、その視線から逃げ出したい衝動に駆られるのに、どうしても目を離せない。磁石に引き寄せられるように。透き通った白い肌に触れたら、きっと指先を通して何かが壊れてしまいそうで怖い。雪で作られた人形のように儚くて、でも冷たくはない。
そんな彼女が微かに笑ったり、何かに驚いて目を見開いたりする一瞬を見つけると、心臓が跳ねる。鼓動が耳まで響いて、頭がぼうっとする。
(おれ、完全に片想いしてる……)
それに――どう考えても、脈なし。そこが辛い。
名前は物静かで、感情が読み難い。氷の奥に閉じ込められた花みたい。優しいのに、手が届きそうで届かない。「研磨くん」と名前を呼ばれる度に心が浮き上がるのに、
名前の表情は淡々としている。彼女の心の内側は、深い森の奥のようで見えない。
……いや、本当に脈なしなのか? それすらも分からない。その不確かさが、もどかしい。
「……どうすれば、
名前の気持ちが分かるんだろ」
スマホを再び手に取って、『片想い 対策』と検索してみる。画面に浮かび上がる文字列を追う。
『会話の中で、ボディタッチを試みましょう』
『目が合ったら微笑んでみる』
『積極的に話し掛けることで距離が縮まります』
「……無理」
ボディタッチとか……そんなの、おれには無理に決まってる。火傷しそうなくらいの緊張感。
名前に近づくだけで、体温が急上昇して動悸がするのに、触るなんて……。想像するだけで顔が熱くなる。
いや、でも――このままじゃ何も変わらない。
「……やるしかない……?」
スマホの画面を見つめながら、自分に問い掛ける。指先が微かに震えていた。
次の日、音駒高校の放課後。
バレー部の練習を終えた後、汗を拭きながら校門へと向かう。夕暮れが校舎を橙色に染め始めていた。そこで、彼女を見つけた。
「研磨くん」
「……!」
名前は髪を風に揺らしながら、ゆっくりと歩いてきた。その姿は夕暮れの光に輪郭を縁取られ、まるで別世界から来た人のよう。幻想的ですらある。
あの目――深い夜の海みたいな、感情の底が見えない瞳。でも、こちらを見つめるその眼差しは、どこか柔らかい。氷が少しだけ溶け始めたような。
「帰るの?」
「……うん」
声が震えないように、意識的に短く答える。
「じゃあ、途中まで一緒に行こう」
「……!」
予想外の言葉に、心臓が跳ねる。彼女から誘ってくれた――この時点で、既に今日は特別な日になった。
名前の歩く速度に合わせて、おれも隣を歩き出す。二人の間に不器用な沈黙が流れる。風に乗って
名前の髪がふわりと揺れ、僅かに桜の香りが漂ってくる。
……どうしよう。昨日の検索結果が脳裏に浮かぶ。
(ボディタッチ……試してみる?)
でも、どうやって? 手を繋ぐ? いや、そんなの無理だ。ゲームのコントローラーを握る時のような自然さはない。肩に触れる? いや、距離が近過ぎる。心臓が止まってしまう。
……じゃあ、自然に……自然に……。
「あ」
足元にあった小石を蹴った振りをして、わざとよろけてみる。演技力皆無のおれには精一杯の演出だ。
――そして、
名前の手に『偶然』触れる。指先が触れた瞬間、電流が走ったような感覚。
「……あ、ごめん」
慌てて謝るおれの声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
「……いいよ」
予想外の展開。
名前は表情を変えずに、でもそっと指を絡めてきた。細く白い指が、おれの指と交差する。
「……?」
驚いて振り向くと、
名前は淡々とした顔のまま、でも微かに目を細めていた。薄暮の光が彼女の横顔を優しく照らしている。
「……研磨くんの手、温かい」
「……っ!」
その言葉に、耳が一気に熱くなる。顔も恐らく真っ赤だろう。夕陽の所為にしたい。
これは……脈あり……なの? それとも単なる優しさ? おれの理解力では判断できない。
「このままでもいい?」
名前の指が、おれの手をぎゅっと握る。その感触が今までの人生で経験したことのない心地よさで、頭がぼうっとする。
震えそうな手を必死に落ち着かせながら、おれは小さく頷いた。声にならない。
「……うん」
(おれ……これ、成功してる?)
現実感がない。シミュレーションゲームのシナリオのような非現実感。でも、手のひらに伝わる温もりは確かに現実だ。
歩きながら、絡んだ手にそっと力を込めてみる。
名前は、ほんの僅かに微笑んだ。春の日差しが雪を溶かすような、柔らかな表情。
(これって、片想い……じゃない?)
春の息吹が、心に花を咲かせたようだった。
部屋に戻って、再びスマホを開く。薄暗い部屋の中で、画面の光が顔を照らす。
『片想い 対策』で検索したサイトを見る。
『積極的に話し掛けることで距離が縮まります』
『ボディタッチで親密さが増します』
「……成功してる……?」
おれは自分の手をじっと見つめた。さっきまで
名前と繋いでいた感触が、まだそこに残っているように感じる。幽霊のような温もり。
「……
名前……」
名前を呟く。それだけで胸が熱くなる。
画面を閉じる。今日の出来事を反芻する。あの手の感触、微かな微笑み、「研磨くんの手、温かい」と言う言葉。
これ、多分――片想いじゃないかもしれない。
おれの心臓が、騒がしく高鳴る。ゲームのボスを倒した時より、もっと強く。
――恋が、始まった瞬間だった。
次の展開は、もう攻略サイトには載っていない。これからは、自分の手で進んでいくしかない。
名前という名の、最高難度の謎解きゲームに挑む為に。