猫の歩みと蕾の春 ∟指先が知る好き。

「……研磨くんのことが好き」  ぽつりと呟いた言葉が、静謐な部屋の空気に溶け込む。誰にも聞かれることのない告白。窓から射し込む夕暮れの光が、室内を橙色に染めていた。  当たり前の事実を口にしただけなのに、心の奥が騒めく。波紋が広がるように、静かな感情が胸の内側を揺らしていく。  机上で開いた本の頁は、いつの間にか止まったまま。何度も同じ行を目でなぞって、結局、内容が頭に入らない。文字の意味より、金色の瞳を持つ少年の姿が脳裏を占めている。 (片想い……なのかな)  研磨くんが、わたしをどう思っているのか、霧の向こう側を覗くように不確かだった。わたしにとって、彼は特別で、大切で、誰にも譲りたくない存在なのに。  研磨くんは普段から、余り感情を表に出さない。氷の面みたいに平坦な表情の下に、本当の気持ちが隠されている。だからこそ、彼の心を読めないことがもどかしい。 (研磨くんも、わたしを好きならいいのに)  そう願う自分が、少し恥ずかしくもある。でも、確かめるのは怖かった。万が一、わたしだけが好きで、彼は違ったとしたら――? 答えを知ることで、今の関係すら失ってしまうかもしれない。 「……」  手許のスマホに視線を落とす。画面が顔を青白く照らし出す。  最近、特定の単語をよく検索するようになった。  『片想い 対策』  画面に並ぶ情報を無表情でスクロールする。感情を表に出さないことは、わたしも得意な方だった。  『片想いの相手が、自分をどう思っているのか見極める方法』  『脈ありサインの見分け方』  『相手の心を引き寄せる行動』 (わたしにできること、ある?)  無意識に、研磨くんとの、今までの遣り取りを思い返す。映画のシーンを巻き戻すように、一つひとつの記憶を丁寧に辿る。  ゲームをしている時、研磨くんの指先が、僅かに震えていたこと。わたしが隣に座ると、ほんの少しだけ操作が乱れること。  名前を呼ぶと、一瞬だけ瞬きを増やすこと。  「研磨くん」と声を掛けた際の、微かな呼吸の乱れ。  目が合っても、即座に視線を逸らされること。  だけど、直ぐにまたこちらを見ていること。 (……もしかして)  これらは全て、偶然の一致ではないかもしれない。研磨くんなりの、感情表現の形なのかもしれない。 「……確かめたい」  恐る恐るスマホを操作し、検索結果の一つをタップする。 『ボディタッチを試してみると、相手の反応で脈ありか分かる』  ボディタッチ――つまり、触れる。  そんな作戦、今まで考え付きもしなかった。わたしは人と触れ合う行為に慣れていない。他人との距離を保つ事が、自分を守る方法だと思っていた。  でも……今回は違う。研磨くんは、只の"他人"ではない。 (もし、研磨くんが嫌がらなかったら?)  その可能性に胸が高鳴る。心臓の鼓動が、耳の奥に移動したみたいだった。
 放課後、音駒高校の校門前で、研磨くんを待っていた。春の風が柔らかく髪を撫でる。  軈て、のんびりとした足取りで、研磨くんが近づいてくる。猫のような、独特な歩き方。バレー部の練習を終えたばかりなのだろう、少し疲れた表情をしている。  わたしを見つけると、一瞬だけ目を見開いた。驚きの色が、金色の瞳に浮かぶ。 「研磨くん」 「……!」 (あ)  また、視線を逸らされた。でも、直ぐに戻ってくる。この仕種も、研磨くんなりの反応の一つなのだろうか。 「帰るの?」  何気ない質問をしてみる。自分の声がいつもより、ほんの少し高いことに気づく。 「……うん」  短い返事。でも、声色には温かみがあった。 「じゃあ、途中まで一緒に帰ろう」  思い切って、提案してみる。心臓が小刻みに跳ねる。 「……!」  研磨くんの表情が微かに変化した。驚いたような、嬉しいような、複雑な感情が垣間見える。  もしかして、わたしの申し出が予想外だった? それか、待っていたことなのかもしれない。  ゆっくりと歩き出す。春の陽射しが、二人の間に優しい影を落とす。  研磨くんは、わたしに合わせ、静かに隣を歩いていた。彼との沈黙は心地良く、特別な会話は必要ない。お互いの間に在る空気感だけで、充分に意味を持っていた。  でも、今日は違う。  わたしには――試したいことがある。 (ボディタッチ)  どうすれば、自然に触れることができるだろう。考えあぐねている内に、ふと、研磨くんが足許の小石を蹴った。  ――その勢いで、わざとらしくよろける。 (……今?)  一瞬の迷いの後、わたしはそっと手を伸ばした。心臓が早鐘を打つ。  指先が、研磨くんの手指に触れる。温かい。予想以上にしなやかな感触。 「……あ、ごめん」  研磨くんの声は小さく震えていた。 「……いいよ」  わたしはそのまま、研磨くんの指に、自分のそれを絡めた。勇気を出して、一歩を踏み出す。 (どう?)  研磨くんの反応を確かめる為、こっそりと横目で見る。  彼は固まっていた。息を止めたように、動きが静止している。 (……もしかして)  嫌がっている? それとも、驚いている? 不安が頭を過る。  試すように、もう少し指を絡める。お互いの体温が混ざり合う感覚。 「……研磨くんの手、温かい」  わたしの言葉に、彼の耳が赤くなった。首筋まで、朱が広がっていく。 「……っ!」 (あ……可愛い)  研磨くんが、小さく息を飲むのが分かった。その仕種に胸がきゅっと締め付けられる。  でも、彼は手を離さなかった。それどころか、些か力が入ったようにも感じる。 「このままでもいい?」  思い切って、尋ねてみる。疑問符が水面へ落ちる雫のように、静かに響く。  ぎゅっと手を握ると、研磨くんは微かに震えながら頷く。彼の掌から伝わる鼓動が、わたしの心と共鳴する。 「……うん」  小さな返事。でも、その一言に込められた想いは、決してちっぽけではないような気がした。  そうして、暫く歩いた。二人の間に流れる沈黙は、言葉よりも雄弁だった。  わたしは試しに、研磨くんの手をそっと握り直す。指と指の間の隙間を埋めるように。  研磨くんも、僅かに力を込めた。その反応に、胸の内側で何かが花開く感覚。 (研磨くんも……わたしのこと、好き?)  一つの可能性に、静かな喜びが広がる。心臓が密やかに高鳴り、心音が耳まで届きそうだった。  手の温もりが、心を満たす。冬の間、ずっと閉じていた蕾が、春の陽光を浴びて、漸く開くように。  わたしは小さく微笑んだ。誰にも見せない、特別な笑顔。  ――片想い対策、成功。  これからどうなるのかは、まだ分からない。でも、この体温を感じている限り、もう完全な片想いではないと思えた。二つの心が、少しずつ近づいている。  静かな恋の始まりだった。



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