感情バグ:夕暮れとアップルパイ | Title:満点の笑顔
背後から投げ掛けられた「可愛い」という言葉は、致死性の高い状態異常攻撃みたいに、おれの全身の自由を奪った。反論する気力も、逃げ出す為のスタミナも、もう残っていない。ただ、茹で上がったように熱い顔を俯かせることしかできなかった。体育館の床に描かれた白いラインが、ぐにゃりと歪んで見える。
――降参だ。完敗。
今日の
名前は、初見殺しのギミックが満載された、高難易度クエストのボスキャラクターみたいだった。おれの思考パターンも、弱点も、全て見抜かれた上で、的確に、且つ楽しそうに攻撃を仕掛けてくる。
やがて、部活の終わりを告げる号令が体育館に響き渡り、チームメイト達が片付けを始める喧騒が、おれの意識を現実へと引き戻した。熱気の残る空気の中、おれはのろのろとモップを手に取り、フロアの隅から掃除を始める。その間も、壁際で静かにおれの動きを見守っている
名前の視線が、背中に突き刺さっているような気がしてならなかった。
全ての片付けが終わり、部室で制服に着替えて昇降口へ向かう。隣には当たり前のように、
名前が並んで歩いていた。彼女の短いスカートが、歩くリズムに合わせて軽やかに揺れている。夕暮れの光が差し込む廊下で、その光景は先程よりも更に、おれの平静を乱すには充分過ぎる破壊力を持っていた。
「……あのさ」
おれは意を決して口を開いた。声が掠れていないか、内心で少し心配になる。
「うん、どうしたの、研磨」
名前は小首を傾げ、夜の海の色を湛えた瞳で、おれを見上げた。その無垢な表情が、さっきまでの小悪魔的な振る舞いと結び付かなくて、頭が混乱する。
「アップルパイ、買いに行く前に……それ、直して」
おれは彼女のスカートの裾を、指ではなく視線で示した。これ以上、あの不安定な領域に心を掻き乱されたくなかったし、何より、他の誰かの目に触れるのが、どうしようもなく嫌だった。ゲームのレアアイテムを、自分だけのものとして隠しておきたいのに似た、独占欲。
「これ? 今日の実験は終わったから?」
名前はきょとんとした顔で、自分のスカートを摘まんでみせる。
「……終わったとかじゃなくて。他の人に見られる」
「ふぅん。研磨は、わたしが他の人に見られるのは、嫌なの?」
「……嫌だ」
即答だった。思考するより先に、言葉が口から滑り落ちていた。その答えに、
名前は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにふわりと花が綻ぶように微笑んだ。それは、さっきまでの悪戯っぽい笑みとは違う、もっと穏やかで優しい光を帯びた笑顔だった。
「分かった。じゃあ、ちょっと待っていて」
彼女はそう言うと、くるりと背を向け、少し離れた女子トイレの方へと歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、おれは大きく息を吐いた。心臓が漸く平常運転の速度に戻っていくのを感じる。
数分後、戻ってきた
名前のスカート丈は、いつもの見慣れた長さに戻っていた。たった数センチの違い。けれど、その数センチが、おれの心にセーブポイントのような、確かな安堵感を齎してくれた。
「これで、いい?」
「……うん」
頷きながら、おれは自分の単純さに、少しだけ呆れていた。彼女の掌の上で、見事に踊らされている。でも、その事実が不快ではないのだから、どうしようもない。
二人で並んで校門を出て、駅へと続く緩やかな坂道を下っていく。夕日が街全体をオレンジ色に染め上げ、おれ達の影を長く、アスファルトの上に伸ばしていた。
「ねぇ、研磨。今日のわたし、どうだった?」
隣を歩く
名前が、楽しそうに尋ねてくる。
「……どうって言われても。攻撃的だった」
「そうかな。研磨の反応が、凄く面白かったから、つい。目が離せない、って顔に書いてあったよ」
「……書いてない」
ムキになって否定するけれど、
名前の言う通りだったことは、自分が一番よく分かっている。悔しいけれど、事実だ。
「そう? じゃあ、わたしの勘違いだったのかな。でも、真っ赤になった研磨の顔、凄く可愛かった」
「……可愛くない」
もう、何を言っても無駄な気がしてきた。彼女は、おれがどんな反応をするのか、全てお見通しなのだろう。それは攻略本を片手にゲームを進めるようなもので、おれに勝ち目なんて最初から存在しなかったのだ。
やがて、駅前の商店街に差し掛かり、
名前が言っていた新しい洋菓子店の前に辿り着いた。ガラス張りの洒落た店構えで、店内からは甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
「ここだよ。美味しそうなの、あるといいね」
名前に促されるまま店に入ると、ショーケースの中に並べられた色とりどりのケーキが目に飛び込んできた。その一角に、お目当てのアップルパイが鎮座している。こんがりと焼き色の付いたパイ生地、その格子模様の隙間から覗く、艶やかなリンゴのコンポート。見ているだけで、口の中にじわりと唾液が湧いてくる。
「……わ、凄い」
思わず、声が漏れた。普段のローテンションな自分が嘘のように、心が浮き立つのが分かる。多分、今のおれは、ずっと欲しかったゲームの限定版を手に入れた時みたいな顔をしているに違いない。
「ホールのもあるみたい。どうする?」
「……ホールで」
迷わず答えると、隣に居た
名前が、くすくすと喉を鳴らして笑った。その声にハッとして、彼女の方を見る。
その瞬間、おれは息を呑んだ。
名前が、見たこともないような顔で笑っていたからだ。
それは体育館で、おれを揶揄っていた悪戯っぽい笑みでも、おれの答えに満足した時の穏やかな微笑みでもない。心の底から、本当に、どうしようもなく嬉しい、という感情が溢れ出してしまったような、満点の笑顔。彼女の深い色の瞳は、ショーケースの照明を反射して、星屑を散りばめた夜空のようにきらきらと輝いていた。薄桃色の唇が描く弧は、完璧な三日月のようだった。
その笑顔を見た途端、今日一日の出来事が全て浄化されていくような気がした。短いスカートに翻弄されたことも、心臓が煩かったことも、顔が熱くなったことも、全部。全部が、この瞬間の為の壮大な前フリだったんじゃないかとさえ思えた。
――ああ、そうか。
名前の「実験」は、おれの反応を観察することだけが目的じゃなかったのかもしれない。彼女は、おれが本当に好きなものを前にした時の、素の表情が見たかったんじゃないだろうか。そして、その表情を引き出せたことが、彼女にとっての最高の報酬だった。
「良かった。研磨が本当に嬉しそうな顔をしている」
幸せを噛み締めるように、
名前が呟く。
おれは、何も言えなかった。ただ、彼女の満点の笑顔から目が離せなかった。それはどんな高グラフィックのCGよりも綺麗で、どんなレアアイテムよりも価値があって、おれの心をそれこそカンストするくらいに満たしていく。
アップルパイの箱を大事そうに提げて、店を出る。すっかり暗くなった空には、一番星が瞬いていた。
帰り道、どちらからともなく、そっと手を繋ぐ。彼女の指先は少し冷たくて、でも、その冷たさが心地良かった。
「今日のクエスト、クリア報酬はこれだね」
名前が、繋いだ手をきゅっと握りながら言った。
「……うん。でも、今日のボスは、強過ぎた」
「そう? でも、また挑戦してほしいな」
「……手加減して」
そんな軽口を叩きながら、おれは心の中で思う。
愛の強さなんて、やっぱり数値じゃ測れない。でも、もし測れるとしたら、それはきっと、こんな風に相手の笑顔一つで、自分の世界の全てが輝いて見える、その瞬間の心の震えのことなのかもしれない。
この温かい幸福感も、今日の少しだけおかしな出来事も、二人のセーブデータにまた一つ、大切な記録として上書きされていく。そして、きっとこれからも、上限解放されたみたいに二人のレベルは上がり続けていくのだろう。終わりは見えないけれど、決して退屈ではない、二人だけのクエスト。
隣で微笑む
名前の横顔を見ながら、おれはこのクエストなら、永遠に続けてもいい、と本気でそう思った。