衝動デバッグ:不具合の夜
おれの部屋のドアを開けると、生温い空気が頬を撫でた。換気をしていなかった所為で、昼間の熱がまだ室内に籠もっている。窓を開け放つと、ひんやりとした夜風が流れ込み、カーテンをふわりと揺らした。
「お邪魔します」
名前が静かな声と共に、おれの背後から部屋に滑り込む。彼女がこの部屋に居る光景は、もうすっかり見慣れたものになっていた。散らかりっぱなしのゲームソフトの山も、充電ケーブルが絡まったままのコンセント周りも、彼女の前では不思議と生活感の一部として許されている気がする。
「適当に座ってて」
「うん」
おれは提げていたアップルパイの箱を机の上に置き、キッチンから皿とフォークを二組持ってきた。
名前はベッドの縁に腰掛け、行儀良くその様子を眺めている。彼女の存在が、見慣れた筈の自室の風景を少しだけ特別なものに変えてしまう。
「あ、研磨。ごめん、お手洗いを借りてもいい?」
「……うん、いいけど」
頷くと、
名前は静かに立ち上がり、部屋を出ていった。ぱた、ぱたと軽いスリッパの音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。一人きりになった部屋で、おれはさっきまでの喧騒が嘘のような静寂に包まれながら、箱からアップルパイを取り出した。ホールで買ったそれはずっしりとした重みがあり、甘いシナモンの香りが部屋中に広がっていく。
数分後、再びスリッパの音が近づいてきて、ドアが開いた。
「ただいま。……わぁ、美味しそう」
戻ってきた
名前は、折り畳み式の豆テーブルに広げられたアップルパイを見て、嬉しそうに目を細めた。
おれはそんな彼女の姿を見て、一瞬、思考が停止した。
――なんで。
彼女のスカートが、また短くなっていた。
学校を出る前に、確かに直した筈の丈が、再びあの危険な領域まで引き上げられている。さっきまでの安堵感は、致命的なミスでセーブデータを上書きしてしまったみたいに、あっさりと消え去っていた。
「……
名前」
「ん?」
小首を傾げる彼女は、心底不思議そうな顔をしている。
「……なんで、また……短くしたの」
「え? だって、ここは研磨の部屋でしょう?」
名前はそれが当然の理であるかのように、事もなげに言った。
「研磨しか、居ないから。研磨にしか、見せないから。……駄目だったかな」
駄目なワケ、ない。
駄目じゃないけど、良くもない。
おれの脳内で、警報がけたたましく鳴り響いている。それは、おれだけの為に用意された、極めて個人的で、最高に無防備な領域。その事実が、おれの理性の安全装置をいとも簡単に焼き切っていく。
「……別に、駄目じゃないけど」
絞り出した声は、自分でも驚く程に掠れていた。心臓が、また早鐘を打ち始める。
「良かった」
名前はふわりと微笑むと、おれの向かい側、豆テーブルを挟んで床に直接座り込んだ。その無造作な動作に合わせて、スカートの裾が更に危うい角度を描く。おれは、もうどこに視線を向ければいいのか分からなかった。
「早く食べよう、研磨」
促されるまま、フォークを手に取る。パイ生地に突き立てると、サクッ、という心地良い音がした。一口分を切り分けて口に運ぶ。温められたリンゴの甘酸っぱさと、バターの芳醇な香りが口一杯に広がり、脳が蕩けるような幸福感に満たされる。
――美味しい。凄く、美味しい。
なのに、おれの意識の大部分は、目の前の光景に釘付けになっていた。
名前も美味しそうにパイを頬張っている。白い手指が小さな口にパイを運び、こくりと喉を鳴らす。その一つひとつの仕草がスローモーションのように見えた。そして、彼女が足を少し崩す度に、柔い太腿が惜し気もなく晒される。
――これは、バグだ。
おれの感情回路に、明らかなバグが発生している。
普段なら、こんな風に思う筈がない。彼女のことは大切で、愛おしくて、壊れ物みたいに丁寧に扱いたい、唯一の存在。なのに、今、頭の中に渦巻いているのは、もっと乱暴で独善的な欲求だった。
有無を言わさず、彼女をこのまま床に押し倒してしまいたい。
抵抗する細い腕を押さえ付けて、驚きと、少しの恐怖に染まった顔を間近で見たい。
そして、おれ以外の誰にも見せることのない、その無防備な領域の全てを、おれだけのものだと刻み付けたい。
そんな、普段のおれからは到底考えられない、暴力的な衝動。ゲームのキャラクターがバグで意図しない行動を取ってしまうみたいに、おれの思考が、おれの制御を離れて暴走している。
「ん……研磨?」
フォークを持つ手が止まっていることに気づいたのか、
名前が不思議そうに、おれの名前を呼んだ。彼女の深い色の瞳が心配そうに揺れている。その純粋な眼差しが、おれの黒い衝動を更に煽るようだった。
「……
名前」
「どうしたの。美味しくなかった?」
「……ううん、美味しい。凄く」
おれは衝動を振り払うように、一度、目を強く瞑った。そして、ゆっくりと瞼を開ける。
名前の唇の端に、パイ生地の小さな欠片が付いているのが見えた。
――次の瞬間、おれは無意識に手を伸ばしていた。
自分の意思とは関係なく、身体が勝手に動いた。伸ばした指先で、彼女の唇に付いた欠片をそっと拭う。
名前の肩が、びくりと小さく震えた。柔らかな唇の感触が、指先に生々しく伝わる。
そして、おれはその指を、そのまま自分の口元へと運んだ。
舌先で、甘いパイの欠片を絡め取る。
「……っ」
名前が息を呑む音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。彼女の白い肌が、見る見るうちに薄紅色に染まっていく。驚きと、困惑と、そして、ほんの少しの期待が入り混じったような表情で、おれをじっと見つめていた。
おれ自身も、自分の取った行動に心臓が凍り付くような思いだった。なんだ、今の。何をしたんだ、おれは。
「……研磨」
名前が震える声で囁いた。
「今の、なに……?」
「……分かんない」
本当だった。自分でも、分からなかった。ただ、胸の奥で暴れていた黒い獣みたいな衝動が、この細やかな行動によって、少しだけ鎮められたような気がした。
沈黙が落ちる。窓から吹き込む夜風が、二人の間の熱を冷ますように通り過ぎていった。
やがて、
名前がふっと息を吐くように笑った。それは全てを理解し、受け入れるような、慈愛に満ちた微笑みだった。
「……研磨の、そういうところも好きだよ」
その言葉はどんな強力な回復アイテムよりも、おれの心を正常に戻してくれた。暴走していた感情のバグが、すっと修正されていく。残ったのは、心臓を鷲掴みにされるような激しい愛おしさと、自分の独占欲の深さに対する、僅かな戸惑いだけ。
「……ごめん」
「どうして謝るの? わたしは嬉しかった」
名前はそう言うと、豆テーブルに身を乗り出し、おれの頬にそっと手を添えた。ひんやりとした彼女の指先が、火照った肌に心地良い。
「研磨が、わたしのこと、物凄く好きなんだって、分かったから」
彼女の瞳が、何もかもお見通しだ、と語っていた。おれの抱いた醜い衝動も、その奥にある不器用な愛情も、全部。
――ああ、もう、本当に敵わない。
この子には、一生勝てないんだろう。
おれは観念して、彼女の手に自分の手を重ねた。
「……今日のクエスト、まだ終わってなかったみたいだね」
「うん。ラスボスは、まだこれから、かも」
名前が悪戯っぽく囁く。その言葉の意味を理解して、おれの顔に再び熱が集まった。
今日の夜は、きっと長くなる。
でも、それも悪くない。この終わりが見えないクエストを二人で一緒に、何度でもコンティニューしていけばいい。失敗も、バグも、全部含めて、二人だけのセーブデータに上書きしながら。
おれは目の前で微笑む世界で一番愛しいボスキャラクターを、今度こそ、ゆっくりと時間を掛けて攻略しようと、心に決めた。