ポケットの中の覚悟論
∟彼のポケットに隠された、覚悟の重さ。
性的な事柄を連想させる表現が含まれます。
四月の柔らかな夕暮れ時。
西の空が燃えるような茜色に染まり、家々の屋根や窓ガラスにその最後の光を投げ掛け、ゆっくりと一日の終わりを告げている。風はまだ少しだけ冷たさを帯びていて、庭先の名前も知らない花の蕾を、秘密を囁くようにふっくりと揺らしていた。
そんな時間の狭間で、わたしは北信介くんの部屋、その縁側に腰を下ろし、彼のちょっと硬いけれど、温かい膝にそっと頭を預けていた。ひんやりとした木の感触が背中に伝わり、それが却って、彼の温もりを際立たせる。
「寒ないか?」
低く、落ち着いた声が頭上から降ってきた。その問い掛けに、言葉の代わりに小さく首を横に振る。大丈夫だよ、と伝えるように。すると、信くんは何も言わず、自分が肩に掛けていた――恐らく部活帰りそのままなのだろう――ジャージの上着をするりと脱ぐと、わたしの冷えた足元にふわりと掛けてくれた。
それは、彼の体温でまだ温かく、使い込まれた布地からは太陽と、それから信くん自身の、少し汗の混じった清潔な匂いがした。その匂いに包まれると、ささくれ立っていた心がやんわりと解けていくような気がする。
「……ねえ、信くんのポケットの中って、温かい?」
わたしの唐突な呟きは、きっと風の音に紛れてしまうくらい小さなものだった筈だ。けれど、信くんは膝の上の髪を梳いていた手をぴたりと止め、些か驚いたように、わたしを見下ろした。夕陽の残光が、彼の銀髪を縁取り、逆光で表情はよく見えない。
「……なんや、それ」
怪訝そうな、でも、どこか優しい響き。
「だって、そこはきっと、信くんの一番近くでしょう? 狭くて、暗くて、でも、凄く温かくて。誰にも邪魔されずに、信くんの体温と心臓の音だけが聞こえるような……そんな場所に、包まれてみたいんだ」
冗談めかして笑ってみせたけれど、声は少し震えていたかもしれない。信くんの全部を知りたい。いつも泰然自若としているように見える彼の、心の奥底に隠されたもの。不安とか、迷いとか、密かな願いとか――そう云う、普段は見せない柔らかな部分。わたしだけが触れることを許される、そんな聖域が、彼のポケットみたいに、どこかに在るんじゃないかって。
信くんは一瞬きょとんとした後、ゆっくりと眉を下げて、迷子の仔猫でも見るような、困ったような、それでいて、どこまでも優しい眼差しで、わたしを見つめ返した。
「ほな、入れてやりたいなあ。……俺のポケット、ちょっと小さいかもしれんけど」
その声は春先の陽だまりみたいに柔らかくて、わたしの心をじんわりと溶かしていく。くすぐったくて、でも、同時に、きゅっと胸の奥が締め付けられるような、切ない気持ちがぽつんと灯る。信くんの優しさが余りにも真っ直ぐで、眩しくて、少しだけ泣きたくなった。
暫く、どちらも言葉を発することなく、ただ過ぎていく時間に身を委ねていた。遠くで鳴く鳥の声、風に戦ぐ葉擦れの音、隣に居る彼の静かな呼吸。その全てが、この瞬間の為に用意された背景音楽のようだった。
不意に、信くんの声のトーンが僅かに低くなった。いつもの穏やかさの中に、何か決意のような硬質な響きが混じる。
「なあ、
名前」
「うん?」
彼の声に促されるように、ゆっくりと顔を上げた。信くんは少しだけ視線を床の上に落とし、指先で縁側の木のささくれを弄びながら、言い慣れない言葉を喉の奥で探しているみたいだった。その真剣な横顔が夕陽に照らされて、妙に大人びて見える。
「……いつか、やなくて。万が一、て場合もあるやんか」
「……え?」
予測不能な言い回しの響きに、わたしの心臓が小さく跳ねた。
「いや、そんなん別に……すぐに、どうこうとかは、ちゃうんやけど。ただ、備えちゅうのは……、その、ええことやろ」
部活の作戦会議でもしているみたいな、真面目な顔つき。何を言い出すのだろう、と見つめていると、信くんは意を決したように息を吸い込み、懐――ジャージのポケットから、そっと一つ、手の平の中に収まる程の、小さな、鈍い銀色に光る薄いパッケージを取り出した。
「……っ」
時間の流れが、ふつりと途絶えたような錯覚。風の音も、遠くで鳴く鳥の声も、何もかもが遠ざかっていく。視界の端で、茜色の空がゆっくりと深みを増していくのが見えたけれど、わたしの意識は、信くんの手の中に在るそれ一点に吸い寄せられていた。
「信くん、それって……」
語尾が掠れた。
「うん。……避妊具や」
はっきりと、静かにそう言った彼の声が、やけに大人びて聞こえた。心の準備なんて、全くできていなかった。耳の付け根から首筋に掛けて、じわりと血が集まっていくのが分かった。こんな近くで知らされて、顔から火が出そうだった。
「バァちゃんがよう言うとる。『段取り八分』やって。……せやから俺、ちゃんと備えとくことにした」
信くんはどこか誇らしげに、少し照れたようにそう付け加える。真面目なトーンで語る彼の横で、わたしの脳内では"信くんのポケットにコンドームが入っている"と云う情報だけが、暴走したメリーゴーラウンドみたいにくるくると回り続けていた。不謹慎かもしれないけれど、そのギャップが何だか可笑しくて、でも、それ以上に胸が締め付けられて、どうしようもなかった。
「……それは……」
言葉が上手く紡げない。
「……でも、信くん。そんなの、わたしが言わない限り、絶対にしないって、思っていた」
だって、信くんはそう云う人だから。わたしが本当に望むまで、絶対に無理強いなんてしない。そんな誠実さを、わたしは誰よりも信じていたから。だから、彼がこれを持っていることが、少しだけ、ほんの少しだけ、ショックだったのかもしれない。
「うん。だから、これは俺の覚悟やねん」
言って、信くんはふわりと笑った。いつもの、少々困ったような、でも、安心させてくれる笑顔。その言葉は軽いようでいて、ずしりと重かった。彼の揺るぎない実直さと、わたしへの深い想いが、その一言に凝縮されている気がした。
「使わんで済むなら、それでええんや。けど、万が一の時に『持っとったら良かった』って後悔すんのは嫌や」
そう続けられた彼の気持ちはどこまでも真っ直ぐで、わたしの心に深々と沁みた。
もう、どうしたらいいの。
胸がいっぱいで、息が上手くできない。喜びと、戸惑いと、愛しさと、微かな不安が綯い交ぜになって、わたしの心臓をぎゅうっと掴む。本当に、信くんのポケットに飛び込んでしまえたら、どんなに楽だろう。
「……信くんのばか」
やっと絞り出したのは、そんな小さな、掠れた声だった。信くんはぽりぽりと、やや赤くなった頬を掻きながら、ふはは、と苦笑いした。
「せやな。バカかもしれんな。けど、
名前の為になら、幾らでもバカでおれるわ」
その言葉が、最後の一撃だった。わたしはもう何も言えなくなって、ただ、信くんの胸に頬を埋めた。耳の奥が熱いまま、彼の規則正しい心臓の鼓動が薄い布越しに伝わってくる。その確かな温もりに包まれていると、先程までの戸惑いが少しずつ溶けていって、只々純粋な"好き"と云う感情が、降り積もる雪のように、静かに心の中に重なっていくのを感じた。
きっとこの先も、わたしは何度も彼のポケットに入りたいと思うのだろう。
それは、ただ甘える為だけじゃない。彼の"覚悟"に、わたしも応えたいから。信くんと、ちゃんと未来の話ができるようになるその日まで、わたしはわたしで覚悟を重ねていきたい。そう強く思った。
わたしがまだ知らない、今日の彼のポケットの中身。そこにはきっと――
偶に、信くんの手首で静かな存在感を放っている、静電気除去のブレスレット。
それから、先程見せられた、未来への備えである小さな銀色の包み。
そして、もう一つ。
小さく、丁寧に折り畳まれた、一枚の練習スケジュール。
それは、彼の努力が刻まれた、大切な汗の記録。
夕闇がすっかり周辺を覆い尽くす頃、わたしはまだ、彼の温かい胸に頬を埋めたまま、その優しい鼓動に耳を澄ませていた。