黄昏の約束
∟北信介の秘密の瞬間。
性的なニュアンスが含まれます。
肌を焦がすような西陽がグラウンドを染め上げ、体育館の窓から差し込む光が長い影を床に伸ばしている。バレーボールの弾む音と、チームメイトの掛け声が響く中、北信介はふと息をついた。汗で滑る指先でボールを回しながら、一瞬だけ集中が途切れる。
「……っ」
意識しないようにしていたのに、気が付けば脳裏に浮かぶのは彼女の姿だった。
苗字名前。
額に滲む汗を手首で拭いながら、北は静かに息を整える。腕に張り付いた練習着の感触が、妙に鮮明に感じられた。思春期特有の現象に悩まされる度、己の精神力の未熟さを痛感するが、こればかりはどうしようもない。何せ、あんなに愛おしい彼女を想えば、真面でいられる筈がないのだから。
「北、ナイスレシーブ!」
声が飛んでくるが、北の意識は半分だけそこにあった。ボールを追う足が、いつもより重い。
練習終わり、夕暮れの光が差し込む部室で着替えていると、ポケットの中のスマホが確かに震えた。画面を見ると、メッセージの通知が届いている。
『信くん、お疲れ様。一緒に帰らない? 今、美術室の片付けが終わったところ』
北の喉が、ひくりと動く。端末を持つ手に、僅かに力が入った。放課後の空気が、急に密度を増したように感じる。
(今来るんか……!)
期待と緊張が綯い交ぜになりながらも、北は至って平静を装い、『ええよ』と短く返信する。何事もないかのように装うことが、今の彼にできる精一杯の自制だった。すぐに『ありがとう』とだけ返ってくる。
不意に先日、
名前の部屋で過ごした夜のことを思い出す。家族が不在だと聞いて、勉強を教えるという名目で訪れた時のこと。
月光がカーテン越しに差し込む静謐な空間で、清潔なシーツに沈む
名前の姿。華奢な肢体を包む薄布の下、心臓の鼓動が伝わる程に近くで交わした、甘やかな吐息。透き通る白い指が、北の背をそっと撫でた時、どうしようもなく心を掻き乱された。彼女の髪から漂う微かなシャンプーの香りが、今でも鼻腔に残っているかのようだった。
名前の全てが、息が詰まる程に愛しくて、狂おしい程に欲しくなる。少しずつ深まっていく関係に、北自身が怯える程の熱を感じていた。
「北、大丈夫か?」
「……ん?」
突然肩を叩かれ、北は反射的に顔を上げた。すぐ横で、尾白アランが怪訝な面持ちで覗き込んでいる。額が汗で湿っていた。
「さっきから、様子おかしない? どっか痛いんか?」
「いや……なんもない」
誤魔化すようにタオルを首に掛けると、尾白はニヤリと笑った。その表情には、揶揄いと共に、友人としての理解が浮かんでいる。
「ほんなら、アレやな。例の彼女のこと、考えとったんやろ?」
「……煩い」
「ははっ! バレバレやっちゅーねん」
北が黙っていると、尾白は更に面白がるように肩を揺する。が、それ以上は追及せず、「ほな、俺ら先帰るで」と言い残し、他の部員達と共にその場を後にした。彼らの遠ざかる足音と笑い声が、室内に微かに残響する。
やがて部室を出ると、夕焼けの中、校門の前に佇む
名前の姿が目に入った。制服のプリーツスカートが風に揺れ、彼女の細い太腿が覗いている。空気の流れに髪を舞わせながら、じっと北を見つめている相変わらずの端正な姿は、どこか現実味がない程に美しかった。周囲の景色が、彼女を引き立てているようにさえ見える。
「信くん」
名前を呼ぶ声には、仄かな安堵が混じっていた。
「……待たせたん?」
「ううん。丁度、来たところ」
澄んだ声に安心しながら、北は彼女の隣に並ぶ。肩と肩の間に、見えない糸が張るような緊張感があった。
連なって歩く帰り道、秋の空気が二人の間を流れる。ふと、北は
名前の横顔を盗み見た。夕暮れに染まる彼女の頬は、儚い光を宿しているように思えた。彼女は歩調を揃えながら、小さく息をつく。その表情には、何か言おうとして迷う色があった。
「……信くん、何か考え事をしているの?」
図星を突かれ、北は僅かに言葉を詰まらせる。自分の内面が、そんなに簡単に読まれているのかと思うと、恥ずかしさと嬉しさが入り交じる。
「……別に」
「本当?」
名前の視線が、彼の横顔を優しく撫でる。その眼差しだけで、北は自分の心が溶けていくのを感じた。
「……お前のことや」
それは自然に零れた本音だった。言葉を発した瞬間、自分でも驚く程に心臓が跳ねる。身体の奥から、熱い何かが湧き上がってくる。
名前は、ふぅん、と静かに瞬きをした。その長い睫毛が、陽の名残を受けて輝いていた。そして、ほんのり口角を上げる。
「わたしも」
たった一言。けれど、それだけで体温が上がる。熱を帯びた感情が胸の奥で広がり、北は思わず
名前の手を引いた。彼女の指が思ったより冷たくて、それが妙に愛おしい。
「……っ、信くん?」
人気のない小道に入り、そっと彼女を壁際に追い込む。苔生した古い石垣の前で、二人だけの小さな世界が生まれた。驚いたように見上げる
名前の双眸が、黄昏に溶けていくように揺れた。その瞳の底には、拒絶ではなく、期待が宿っている。
「……そんな顔すんなや」
「どんな顔?」
「……俺を、焦らせる顔」
言葉を紡ぎながら、北は彼女の頬に指を添える。指先が触れた皮膚は想像以上に柔らかく、温かい。接したことで、お互いの感情が伝わり合うかのようだった。酷く愛しいのに、手に入れても猶足りないと思う。もっと近くで、もっと深く触れたくなる。指頭から伝わる彼女の体温が、北の全身に浸透していった。
名前が静かに目を伏せると、北はその隙に唇を落とした。一瞬だけ躊躇いが走ったが、彼女の俄かに開いた口唇が、北の迷いを吹き飛ばす。
重ねた瞬間、熱が込み上げる。
名前の朱唇の滑らかさと温もりが、北の意識を覆い尽くした。風が吹き抜ける中、密やかに交わされる口づけ。二人の間にあった見えない壁が、音もなく崩れていく。
「……信くん」
薄く漏れる彼女の声が、北の名を呼ぶ。その声音には、これまで感じたことのない甘さがあった。北は彼女の腰に手を回し、より強く引き寄せる。身体と身体が触れ合う感触に、思わず息を飲む。
焦がれる程の想いが、どこまでも深く、二人の間を満たしていった。西日が影を長く伸ばし、やがて外灯が灯り始める頃、二人の指先は固く絡み合ったまま。明日への約束を交わすように。