冬空の下のトス ∟冬の陽だまり、二人の距離。

 冷たい冬の風が駅前を吹き抜け、薄曇りの空から雪の匂いが漂う。吐く息が白く凍り、街路樹が鋭く揺れる中、影山飛雄は一本の木のように、静かに立っていた。黒のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、群青色の瞳が人混みを忙しなく見渡す。一見、無愛想な表情だが、必死に誰かを探しているのが見て取れた。 「……遅い」  小さく呟く声が冷気に溶ける。約束の時間まで、あと三分。影山は十五分前に到着していた。バレーではセッターのタイミングが一瞬でも狂えば、トスが崩れ、スパイカーが宙を切る。時間を守るのは、彼にとって呼吸と同じ――だが、今、恋人の苗字名前を待つこの瞬間は、試合前のセットアップが狂ったような焦燥感に襲われていた。  胸の奥でうねる緊張。指先がピリピリする高揚感。バレーなら冷静にブロックの位置を読み切るのに、名前を想うと心が乱れる。「……っ、なんだ、これ」と呟き、深呼吸しても落ち着かない。冬なのに、ダウンジャケットの下で汗が滲むのが分かった。 (コートの上なら、こんな感覚はねえのに……)  歯を食い縛るが、その思考は背後からの声で消し飛んだ。 「飛雄くん」  鈴のような声に、全身がびくりと跳ねる。電流が走ったような感覚が、肩から足先まで駆け抜けた。何度聞いても、その声は影山の神経を震わせる力を持っている。振り返ると、名前が立っていた。  深い夜の海のような双眸が影山を見つめ、血の気のない透き通った肌に、絹糸のような髪が戦いでいる。ネイビーブルーのコートに、淡いピンクのカシミヤマフラーが、彼女の白さを引き立てていた。 「……遅かったな」  平静を装い、低く力を込めた声色で言う。心臓の鼓動が漏れそうで、強い言葉に頼るしかなかった。 「時間ぴったりだよ」  名前の声は晴れやかで、冷たい空気に透明感を添える。彼女の主張には優しい説得力があり、影山はつと視線を逸らした。澄んだ瞳に見つめられると、バレーのコート上で相手の動きを読むようにはいかない。 「……寒くないのか?」  本当は「待ってた」とか、「来てくれて嬉しい」と口にしたいのに、素直な気持ちが喉まで出掛かっては消えていく。 「少し。でも、飛雄くんに会えたから、もう平気」 (は!?)  鼓動が跳ね上がる。クイックを決めた瞬間のような衝撃。名前の無垢な返事が、影山を打ち抜く。バレーならタイミングを図れるのに、彼女の前では、トスの軌道がブレるような混乱に襲われた。 「……ズルい」  心の声が漏れる。不器用さに歯痒さを感じた。 「何が?」  首を少し傾げながら、名前が尋ねる。その仕草に計算された可愛らしさは微塵もない。だからこそ、影山の心を掴んで離さない。 「そ、そう云うことを、普通に言うのが……」  答えながら、自分の言葉が、司令塔の指示のように硬いことに気づく。 「だって、本当のことだよ」  名前の無邪気さが、影山の心臓に負担を掛ける。耳元で太鼓を叩かれているような鼓動。目の前に居るのは、誰よりも大切な恋人。けれど、逃げたくなる程に照れ臭い。 (こいつ、なんでこんな平然としてんだ……)  名前の感情は、深海のように読めない。静かに広がる青い海のような平穏さと、その底に秘められた未知の深さ。だからこそ、影山を惹き付ける。 「飛雄くん、どこか行きたい場所はある?」  名前の声が思考を現実に引き戻す。 「……いや、特に」  腕を組んで視線を落とす。他のカップルなら、映画やカフェか? どちらも自分には馴染みがなかった。影山の思考は、自然と一つの場所に辿り着く。 「バレー用品、見に行くか?」  本音が飛び出し、「デートっぽくねえ!」と内心焦るが、「でも、スパイクの角度みたいに、名前との距離を正確に測りたい」とも思った。 「そう言うと思った。飛雄くんらしいよ」  名前は小さく微笑んだ。そこには皮肉も嘲りもなく、ただ純粋な温かさがあった。影山の頬が、僅かに熱くなる。 「……文句あるのかよ」  少し強張った声で言う。防御的な口調で、恥じらいを隠すのが精一杯だった。 「ないよ。飛雄くんが行きたいなら」  名前の応答に、本心が見抜かれている気がした。 「……っ」  影山は全身から汗が噴き出しそうな感覚に襲われながら、そっぽを向いた。寒い筈の風が頬を熱く撫でるが、気温の所為ではないと理解していた。  二人は並んで歩き始めた。駅前の雑踏を抜け、スポーツセレクトショップ『ギアーズ』へ向かう道すがら、名前の髪が肩に触れる度に息を詰めた。微かに漂うシャンプーの香りが、影山の全神経を研ぎ澄ませる。ショーウィンドウにはクリスマスの飾り付けが施され、赤と緑のオーナメントや小さなライトが煌めく。周囲のカップルが自然に手を繋ぐ光景を横目に、影山は自分達との違いを感じていた。  ふと、名前が歩調を緩める。 「飛雄くん」 「……ん?」 「手、繋ぐ?」  その問い掛けは、柔らかな冬の雪の如く、静かに影山の耳に降り注いだ。心臓が跳ね、速攻のタイミングが狂ったような感覚が、全身を駆ける。 「っ、別に……!」  言い掛けて、自分の言葉の曖昧さに気づく。 「別に?」  名前の優しい追い打ちには、純粋な疑問が浮かんでいる。 「……いや、繋ぐのは、別にいいけど……」  影山は少しぎこちなく、名前の手を取った。  指先は冷たかったが、掌に収まる感触は柔らかい。小さな手が、自分の大きな手にすっぽりと包み込まれる。その対比が、不思議と影山の胸を満たした。手の平と手の平が合わさるところから伝わる体温。それは単なる熱量以上の何かを伝えているようだった。 「……あったかい」  名前の呟きが反響する。影山は何も言えなかった。ただ目の前の信号が青になるのを待つ振りをして、赤くなった顔を隠した。言葉にできない感情が、彼の中で渦を巻いていた。  そして、青信号と共に歩き出した。  街路樹の間から漏れる冬の陽光が、二人の姿を淡く照らしている。影山の大きな影と、名前の小さな影が、アスファルトの上でゆっくりと重なり合う。  バレーボールのコートの上では、常に冷静で、次の一手を読み、正確な判断を下す影山飛雄。しかし、名前の隣では、彼はただの"思春期の男の子"に過ぎない。感情をコントロールできず、言葉を選べず、落ち着きを失う。  名前の一言一言に揺さぶられ、冷静でいられなくなる。だが、そんな自分を受け止めてくれる恋人が隣に居る。その事実だけが、影山に安心感を与えていた。  冬の待ち合わせは、ただの時間合わせではない。影山にとって、それは"好きな人を待つ"と云う、未知の感情と向き合うひとときだった。コートの上では感じることのない、新しい緊張と高揚。  そして、今日もまた、影山は名前に翻弄される。  だが、それも悪くない。  影山飛雄の心臓が、そう告げていた。歩調を合わせて隣を歩く名前の存在が、寒い冬の日を暖かなものに変えていく。握り締めた手から伝わる温もりが、少しずつ彼の心を溶かしていくようだった。コート上では味わえない、初めての心地好さに戸惑いながら。



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