コートの外の俺
∟二人の足跡、白い雪道。
スポーツセレクトショップ『ギアーズ』の自動ドアが、静かに開いた。
温かな空気が肌を撫でると同時に、バレーシューズのゴムや、新品のスポーツウェア特有の繊維の匂いが鼻腔を掠める。店内のBGMは、小さな音量で流れる洋楽。その旋律が非日常感を演出していた。
影山飛雄は、隣に寄り添う
名前の手を、無意識に握る力を少しだけ強めた。屋内の明るい照明が、彼らの繋いだ手指に落ちる。
――手を繋いだまま入店するのは、流石に恥ずかしい。
しかし、直ぐに離すのも不自然な気がして、結局、そのままにしておく。影山にとっては、こうした些細な判断でさえ、バレーボールの試合中より難しく感じられた。
「……ボゲェ」
自分に向かって呟く。影山特有の自己嫌悪の表現だ。
何をそんなに意識しているんだ。
コート上なら、例え何万人の観客に見られていようが、きっと集中できるのに。
――
名前と一緒に居ると、どうしてこうも平常心が乱れるんだろう。
試合前のウォームアップよりも、
名前の隣を歩くことの方が緊張する。それが不思議でならなかった。
「飛雄くん、見て」
ふわりとした声が耳に届く。少し高めの、しかし、決して甲高くはない、透明感のある声。それは、影山の心にいつも静かな波紋を広げた。
名前は壁に整然と並べられたバレーボールを指差していた。
ミカサ、モルテン、ウィルソン……連なるボールの中で、彼女の指は、すっとミカサの公式球をなぞる。その仕種に、どこか儀式めいた優雅さがあった。
「このボール、飛雄くんがいつもトスを上げるのと同じだね」
名前の言葉に、影山は少し驚いた。彼女は詳しくない筈なのに、よく見ていたのだろう。
「……そりゃ、公式球だからな」
いつもの素っ気ない返事。だが、心の中には密かな嬉しさが満ちていた。
「うん。でも、こうして見ると、また違った印象だね」
「……違った印象?」
影山は、
名前の横顔を盗み見る。彼女はボールを眺めながら、静かに微笑んだ。何か神秘的なものを発見したかのような、穏やかで深い表情。
「飛雄くんの手の中にある時は、もっと……生きているみたいに見える」
――生きてる。
影山は、その一言をゆっくりと噛み締めた。ボールが生きている。常に感じていたことだったが、誰かに言葉にされたのは初めてだった。
「……俺の手の中で?」
「うん。飛雄くんがトスを上げる時は、ボールが意思を持っているみたいに見えるよ」
名前の言辞に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
バレーボールは、影山の全てだった。それを、
名前は説明しなくても理解してくれている。
他人にそう言われたことはなかった。「王様のトス」と揶揄されることはあっても、そのトスの本質を言い当てられたことはなかった。
「……お前、ほんとにバレー詳しくねぇのか?」
「うん、全然」
「……なら、何でそんなこと分かるんだよ」
他の誰も気づかなかったことを、何故、
名前は見抜けるのか。影山には不思議でならなかった。
「飛雄くんを見ているから」
答えはシンプルでありながら、影山の心を真っ直ぐに射抜いた。
――ヤバい。
心臓が跳ね上がる。鼓動が早くなるのを、自分でも感じた。サーブを打つ前の緊張感とは違う、もっと深い、もっと根源的な震えだった。
影山は、
名前の目を直視できず、視線を逸らした。まるで、強い光を見たかのように。
「……お前、ズルい」
「また?」
「……ああ」
名前はいつもこうして、影山の心を簡単に揺さぶる。それが「ズルい」と感じられた。バレーボールのルールさえ詳しく知らないのに、彼の深部に在る感情を、素手で掴むように理解してしまう。
名前は小さく微笑むと、影山の袖を軽く引いた。その所作には、どこか優しい誘導がある。彼の内面に潜む、言語化できない想いを得心しているかのように。
「次はシューズを見よう」
影山は言葉を発する代わりに頷くと、
名前と一緒にシューズコーナーへと向かった。
店内の白い床に、二人の足音が並んで続く。
――二人で並んで歩く。その事実が、どうしようもなく嬉しい。
コート上では、決して得られない種類の喜び。それを感じている自分が、少し不思議だった。
「飛雄くん、これを履いてみて」
シューズの試着スペースで、
名前がブラックにネイビーが入った色味のバレーシューズを手渡した。シンプルながらも洗練されたデザインは、影山の好みに近い。
「……なんで、これ?」
「飛雄くんに似合いそうだから」
影山はフットスツールに座って靴紐を結びながら、「似合う」と云う基準で選ぶ
名前の感覚に些か驚いた。自分自身は常に機能性を重視してきた。グリップの良さ、クッション、サポート力。見た目なんて、二の次だった。
「俺、バレーシューズの見た目とか気にしねぇし」
口では否定しながらも、
名前がチョイスしたシューズを、何故か特別に感じていた。
「でも、飛雄くんが履くなら、カッコいい方が素敵だと思うよ」
その一言には、どこか惹かれる響きがあった。「飛雄くんが履くなら」と云う前提が、影山の心を温かくした。
「……」
影山は言葉に詰まった。
名前の優しさと思い遣りに、どう応えればいいのか分からなかったのだ。
「お前、自分のは見なくていいのか?」
話題を逸らすように言う。
「うん。わたしは、バレーしないから」
「……お前、俺のことばっか見てるだろ。少しは自分のことも見ろよ」
本当は分かっている。
名前が自分の為に想ってくれていることを。でも、それを素直に受け入れるのが、どうしても恥ずかしかった。
「今日は、飛雄くんが使うものを選びたいから」
影山は、ぎゅっと靴紐を締めた。その動作に、言葉にならない感情を込める。
――そう云うところが、ズルいんだよ、お前は。
履いてみると、思った以上にしっくり来る。
足にフィットする感覚。バレーの動きを想像すると、これなら良いパフォーマンスが出せそうだった。
名前の言う通り、見た目も悪くない。機能性と美しさが両立している。彼女の審美眼に、影山は内心で感嘆した。
「……良いかも」
珍しく素直な褒め言葉。影山にしては大きな一歩だった。
「ふふ、良かった」
名前が満足そうに目を細める。その表情に、影山の胸は締め付けられるような感覚を覚えた。
影山は礼を述べようとして、口を噤んだ。
名前への感謝。それは彼にとって、最も困難な言動の一つだった。
――素直に言えれば、楽なのに。
でも、どうしても口にするのが難しい。言葉は時にバレーボールよりも扱い辛い。的確な位置に上げるトスよりも、適切な語句を選ぶ方が、影山には何倍も難易度が高かった。
「……」
代わりに、
名前の髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でた。その仕種には、言い表せない程の感謝が込められていた。影山なりの、精一杯の表現方法。
「……飛雄くん?」
不思議そうな声。影山のそんな所作は、
名前にとっては予想外だったのだろう。
「……選んでくれて、ありがとな」
それが精一杯だった。短い一言だが、影山の中では長い旅路を経て生まれた、感謝の言葉。
名前は驚いたように瞬きをした後、微笑んだ。双眸に小さな光が灯る。
「うん。どう致しまして」
その笑顔が眩しくて堪らなかった。冬の陽射しみたいに、温かくも力強い煌めきを放っていた。
――帰り道。
外に出ると、いつの間にか雪が降り始めていた。
ふわり、ふわりと落ちる雪片。空から舞い降りる白い結晶が、街灯の明かりを受けて輝いている。
影山は半ば無意識に、
名前のマフラーを直してやる。雪景色の中、淡いピンクのマフラーが、彼女の頬を優しく彩る。
「……寒くねぇか?」
問い掛けには、言外の心配が込められていた。
「ううん、飛雄くんが居るから、平気」
また、心臓を撃ち抜かれた。
名前の言葉はいつも的確に、影山の弱い部分に当たる。その度に、自分の心が少しずつ開いていくのを感じた。
影山は無言で、
名前の手指を掴む。
ポケットに入れていた手で、彼女の指先を包み込んだ。柔い感触が、信じられない程に心地好い。
驚いたように目を瞬かせる
名前に、影山はぼそっと呟いた。突然の思い付きだったが、それでも言わずにはいられなかった問い掛け。
「……来世でも、バレーやってると思うか?」
唐突な質問。しかし、背後には深い意味が在った。
「……どうかな」
「俺は、やってると思う」
影山の眼差しが、雪を通して、遠くを見つめる。まるで、未来の自分を探すかのように。
「……生まれ変わっても、バレーは辞めねぇと思う」
それは単なる趣味の話ではなく、影山の存在自体に関わる告白だった。
改めて、
名前の手をぎゅっと握る。力加減に希望と不安が入り混じっていた。
「もし……もし、お前も生まれ変わるなら」
言葉に詰まる。ここから先を続けるのは、影山にとって、大きな勇気が必要だった。
「なら?」
名前の疑問符が、影山の背中を押す。
「……その時も、一緒に居てくれよ」
生まれ変わっても、また出逢いたい。また一緒に居たい。影山なりの、愛の告白だった。
その望みに、
名前は一瞬、目を丸くした。
けれど、次の瞬間には、穏やかに微笑んで、影山の手を握り返した。伝わる温もりに、救われたような気持ちになる。
「うん。飛雄くんが望むなら、わたしはいつだって、傍に居るよ」
名前の答えはシンプルでありながら、影山の不安を払拭するには充分だった。
――雪が静かに舞い降りる。
二人の足跡が並ぶアスファルト上に、白い欠片がゆっくりと積もっていく。軈て、それらは溶け、消えてしまうだろう。しかし、互いの間に生まれた絆は、積雪より確かなものだと、影山は感じていた。
影山は、その靴跡がどこまでも続けばいいと、心から願っていた。
それは単なる
道程ではなく、両者の人生そのものだった。どこまでも並んで歩いてゆく未来を、影山は静かに強く願った。
影山は再び、
名前の手を握り直し、冬空の下で歩き続けた。
影山の胸中で、バレーボールと
名前と云う二つの大切なものが、少しずつ調和を見せ始めていた。