影山飛雄の脳内へ、ようこそ | 君の夢は、少しだけ狂っていた。

 夢の始まりは、烏野高校の体育館だった。  だが、何かがおかしい。  名前の視界を埋め尽くしたのは、バレーボールコートの床に無限に転がるトス練習用のボール。壁一面には鮮やかな青色で『最強セッター養成所』と大書された垂れ幕が、異様な存在感を放っていた。そして極め付けは――  巨大な牛乳パックの形をした体育館。  現実離れした光景に、名前は戸惑いを隠せなかった。常識を覆す空間に立ち竦む彼女の足元で、不意にボールが跳ね上がり、勢いよく顔面を襲ってきた。 「っ――!」  咄嗟に身を躱したが、次々と跳ねるボールが意思を持ったかのように襲い掛かってくる。それは「影山飛雄、ここにあり」と宣言するかのような精密なコントロールだった。 「飛雄くんの脳内って、こんななの……?」  普段は感情を表に出さない名前も、この状況には呆れた声を漏らさずにはいられなかった。彼女の理性と常識が、目の前の光景に悲鳴を上げているかのようだった。髪が無数のボールを避ける動きに合わせて揺れる。  漸く無限のトスボール地獄を抜けた先に、更に異様な風景が広がっていた。  ――ぐんぐん牛乳を祀った祭壇。  祭壇の周囲には、黄金色に輝く無数の温玉が、兵隊のように整然と並べられている。  目を疑うような場景に言葉を失った名前は、ふと手元を見下ろした。いつの間にか『影山飛雄の為のトス講座』なる分厚い本を持っていることに気づく。恐る恐る開くと、それが当然かのように「温玉の殻を本で割れ」と朱色の文字で指示が書かれていた。 「……意味が分からない」  透明感のある声で名前は呟いた。けれど、ここが影山の脳内である以上、常識を求めても無駄だろう。彼女は一度深呼吸をし、言われるがままに本で温玉の殻を割った。  すると――  高速トスを繰り返す影山の姿が突如として現れた。 「くそっ! もっと精度を上げねぇと!」  無限のボールを相手に、彼はただ黙々とトスを上げ続けている。何の疑問も持たず、何の迷いもなく。正に『最強セッター養成所』の名に相応しい姿だった。  影山の眉間には深い皺が刻まれ、鋭い眼差しは一点を捉えている。その集中力は、夢の中でさえも鮮烈に輝いていた。名前は彼の姿に見入ってしまう。日常の影山そのままの姿があるからこそ、周囲の狂った光景が一層不可思議に思えた。 「……何してるの?」  不意に背後から声がして振り向くと、そこには無表情の月島蛍が立っていた。黒縁の眼鏡の奥の瞳は、いつもの冷めた視線そのものだ。 「高速トス練習する影山が居るって聞いたんだけど」 「……夢なのに、どうして月島くんまで?」  名前は思わず問い掛けた。この夢の不可解さが増すばかりだった。 「知らないよ。こっちが聞きたいくらいだし」  月島は心底どうでもよさそうな顔で、影山のトスを見つめていた。その表情には、現実世界での『王様』への皮肉めいた視線が透けて見える。  一方、影山は相変わらず只管トスを上げ続けていた。その動きは機械のように正確で、疲れを知らないかのようだった。 「……飛雄くん、疲れないの?」  名前が静かに問い掛けると、影山は一瞬だけ手を止めた。漆黒の髪の下から、群青色の瞳が名前を捉える。 「……名前?」  影山の声には僅かな驚きが混じっていた。 「うん、わたしだよ」  名前の声に、影山はほんの少し、安堵したような表情を見せた。その表情は名前の胸に温かさを広げた。 「……名前が居るなら、これが夢でも悪くねぇな」  影山の脳内は相変わらず滅茶苦茶だったけれど、その一言だけはやけに現実的で、甘く響いた。名前の頬が僅かに熱くなる。

『最強セッター養成所』より脱出せよ

「……名前が居るなら、これが夢でも悪くねぇな」  そう呟いた影山の言葉は、体育館の静寂に溶けるように響いた。その声は、この奇妙な夢の中で唯一、名前の心に確かな実感を齎した。  巨大な牛乳パックの壁、無限に転がるトスボール、温玉祭壇。  めちゃくちゃ過ぎるこの空間で、影山だけが唯一、何の疑問も持たずに淡々とボールを上げ続ける。その姿には、どこか安心感があった。  ――これは間違いなく夢だ。  名前はそう確信していた。でも、どうすれば目覚めることができるのだろうか?  名前はふと、手元の『影山飛雄の為のトス講座』を見つめる。ページを捲ると、新たな文字が浮かび上がってきた。 「夢から脱出するには、影山飛雄のトスをキャッチしろ。」  そんなバカな。名前は思わず首を傾げた。  いや、しかしここは影山の脳内なのだ。常識など通用しない。彼の世界では、バレーボールこそが全ての中心にある。 「……ねぇ、飛雄くん」  名前の声に反応して、影山がトスを上げながらこちらを見た。 「……?」  その視線は鋭いが、名前に向けられる時だけは不思議と柔らかさを帯びる。 「わたしが、君のトスを受けたら……目が覚める気がする」 「は?」  影山は眉をひそめ、手の動きを止めた。その表情には困惑が浮かんでいる。 「いや、そんなわけねぇだろ」 「でも、飛雄くんの脳内なら、それくらいあり得ると思う」  名前が真顔で答えると、横で見ていた月島がふっと鼻で笑った。その笑いには皮肉が込められている。 「確かに、影山の脳内なら、そういう意味不明な設定もありそうだね」 「ボゲェ!! 俺の脳内を勝手に決め付けんじゃねぇ!!」  影山が声を荒げ、顔を真っ赤にした。その反応は、現実の彼そのものだった。名前は微かに笑みを浮かべる。 「飛雄くん、トスをちょうだい」  名前は既に両手を構えていた。白い指先が緊張で僅かに震えている。 「……っ、受けられんのか?」  影山の声には、疑いと共に僅かな期待が混じっていた。 「やってみる」  名前の静かな決意に、影山は一瞬だけ迷ったように目を伏せたが、すぐに鋭い視線を戻し、トスの体勢に入った。彼の姿勢は完璧で、それだけで名前の心臓が高鳴る。 「……行くぞ」  そう言うと、影山は驚くほど正確なトスを上げた。ボールは美しい弧を描いて名前の方へ向かってくる。  名前はボールを見据え、両手をしっかりと構える。影山のトスは、彼女の為に少し弱められているようだった。そんな細やかな配慮にも、名前は心を揺さぶられる。  パシッ――  ボールが手のひらに収まった瞬間―― 「……っ!!」  名前は、はっと目を覚ました。  見慣れた天井が、ぼんやりと視界に映る。窓の外から差し込む朝の光は、夢の残滓を洗い流すように、名前の目を射抜いた。部屋の中は静かで、時計の針だけが規則正しく動いていた。 「……夢、だったの?」  名前は自分の手を見つめる。ボールの感触は、もう手のひらにはない。けれど、確かな記憶として心に残っていた。 「……なんだ、それ」  隣で影山が、ぼそりと呟いた。その寝惚けた声に、名前は思わず身を起こした。 「飛雄くん?」 「……いや、なんか、俺も夢見てた気がする」  影山はなおも目を閉じたまま、不思議そうに言った。 「どんな夢?」 「……牛乳パックの体育館で、無限にトスしてた」  その言葉に、名前の心臓が跳ねた。 「……やっぱり、同じ夢……?」  二人は顔を見合わせる。影山の群青色の瞳には混乱の色が浮かんでいた。 「……ボゲェ、朝から訳わかんねぇこと言わせんな」  そう言いながら、影山は布団を被ってしまった。その仕草には照れが混じっているようにも見えた。  しかし、名前の心の中には、彼が夢の中で言った言葉が鮮明に残っていた。 「……名前が居るなら、これが夢でも悪くねぇな」  現実でも、夢でも。  彼の傍に居られるのなら、それだけでいい。  名前はふっと微笑み、影山の隣で再び目を閉じた。もう一度、同じ夢を見てもいいと思いながら。彼女の心は、不思議な安らぎに満ちていた。  朝日が二人を静かに包み込む中、名前は影山の寝息を聞きながら考えた。  牛乳パックの体育館も、無限のトスボールも、温玉祭壇も――それらはすべて、彼の純粋な情熱が生み出した夢の風景なのだと。  そして彼女自身もまた、その情熱の一部に包まれていることを、名前は密かに幸せに思った。



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