0.4秒の嫉妬
東峰さんの鬼気迫る形相と、ゴールラインまでの逃走劇に因る疲労感で、俺の精神力ゲージはレッドゾーンを振り切っていた。お化け屋敷の出口で壁に手を突き、ぜえぜえと肩で息をしながら、隣を見る。僅かに息を弾ませているものの、
名前の表情は涼しいままだった。寧ろ、深い色をした瞳の奥には、確かな愉悦の光さえ灯っている。俺との温度差に、何だか無性に腹が立つのと同時に、言いようのない安堵感が込み上げてくるのだから、自分でもワケが分からない。
「……なんか、甘いモンでも食いに行くか?」
気づけば、そんな言葉が口を衝いて出ていた。恐怖で氷のように縮み上がった心臓を、何か別の刺激で上書きしたかったのかもしれない。そして、何よりも、もう少しだけ、この温かい手の感触を、隣にある
名前の存在を感じていたかった。
「うん、いいね。クレープとか、どうかな?」
名前の提案に、俺は二つ返事で頷いた。ポークカレー温玉載せの感動はまだ胃袋に温かく残っているが、甘いものは別腹だ。今の俺には、脳に直接届くような糖分が猛烈に必要だった。
再び人でごった返す廊下を、今度は少しだけゆっくりとした足取りで進む。繋いだ手の平から伝わる
名前の体温が、恐怖で冷え切っていた指先をじんわりと温めていく。その心地良さに、自然と口元が弛みそうになるのを必死で引き締めた。
目指すは、1年1組――つまり、あのバカ、日向翔陽のクラスが出している模擬店だ。確か、クレープ屋をやっていると、朝のHR前に廊下で喧しく騒いでいたのを思い出す。あいつのことだから、どうせ碌でもない、騒がしいだけの店だろうと高を括っていたのだが。
「あ、あった。あそこみたいだね、飛雄くん」
名前が指差した先には、やけにカラフルで、手作り感満載の看板が掲げられていた。『太陽SUNSUNクレープ☆ 日向印の元気をお届け!』という、暑苦しいくらいにポジティブなキャッチコピーが、これまた太陽を模したであろう、歪な丸の中に躍っている。
教室の入口からは甘ったるい匂いと、無駄にテンションの高い呼び込みの声が洪水のように溢れ出ていた。
「……うるせぇな、やっぱり」
思わず悪態が漏れる。だが、
名前はどこか面白そうにその看板を見上げていた。
「ふふ、日向くんのクラスらしいね。元気があって、楽しくなりそう」
そう言って、俺の手を軽く引く。その小さな力に抗う術を、俺は持ち合わせていない。
教室の中に足を踏み入れると、そこは予想通りの喧騒と熱気に包まれていた。壁にはオレンジや黄色の画用紙で作った太陽と星が所狭しと貼られ、BGMにはやたらとアップテンポなJ-POPが流れている。クラスの生徒達はお揃いの太陽マークが付いたエプロンを身に着け、目まぐるしく動き回っていた。
「いらっしゃいませー! 太陽SUNSUNクレープへようこそー!」
入口で、これまた太陽みたいに明るい笑顔の女子生徒に迎えられる。その声のデカさに、俺は思わず顔を顰めた。
「……二人」
「はーい! ご注文は何にしますかー?」
メニュー表を見ると、やたらと凝った名前のクレープが並んでいる。『日向スペシャル☆ 元気MAX!! チョコバナナ』とか、『大王様もビックリ!? 王様の苺ミルク』とか、ふざけた名前ばかりだ。何が王様の苺ミルクだ、ボゲェ。
「俺は……チョコバナナ」
「わたしは、苺クリームにしようかな」
名前が穏やかに注文を告げる。その時だった。
「おー! 影山じゃねーか! それに、
苗字さんも!」
店の奥から聞き慣れた、そして、今は一番聞きたくなかった声が飛んできた。オレンジ色の髪を揺らしながら、日向が満面の笑みでこちらへ駆け寄ってくる。その手には、何故か泡立て器が握られていた。お前、調理担当なのかよ。
「よぉ! 来てくれたんだな! サンキュー!」
「……おう」
ぶっきら棒に返す。日向はそんな俺の態度など気にも留めず、にぱっと笑うと、俺達の目の前に一枚のチラシを突き出した。
「見てくれよ、影山! 今、うちのクラス、特別企画やってんだぜ!」
そのチラシには、デカデカと『ラブラブカップル限定? ドキドキ割引クレープ!』と書かれていた。その下には小さな文字で『※但し、お互いに「あーん」して食べることが条件です!』という、ふざけた注釈まで付いている。
「……は?」
俺は思わず、地を這うような低い声を出した。なんだ、この馬鹿げた企画は。
「へへーん! どうだ、影山! お前ら、付き合ってんだろ? だったら、このカップル割引、使わねぇ手はないよな!」
日向がニヤニヤと、心底楽しそうな顔で俺達を見ている。その視線が、やけに癪に障る。
「誰が使うか、そんなもん! 普通に買わせろ、ボゲェ!」
「えー! なんでだよー! 折角のチャンスじゃんか!
苗字さんはどう思う? お得だよ?」
日向が、今度は
名前に同意を求める。
名前は少し困ったように微笑みながら、俺の顔とチラシを交互に見ていた。
「ふふ、楽しそうな企画だね」
……おい、
名前。まさか、お前、乗る気じゃねぇだろうな。
「だろー!? じゃ、影山は彼女と一緒に『あーん』しなきゃダメだかんな! それがルール!」
日向が、ビシッと指を突き付けて宣言する。その目は、悪戯っ子のようにキラキラと輝いていた。
「ふざけんな! 誰がやるか、そんな恥ずかしいこと!」
「逃げんなよ、影山! 男だろー!?」
日向が挑発するように煽ってくる。コイツ、完全に面白がってやがる。
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。こんな馬鹿げた茶番に付き合って堪るか。だが、ここで逃げたら、それこそ日向の思う壺だ。それに……。
ちらりと、
名前の顔を盗み見る。彼女は少し頬を赤らめながらも、どこか期待するような、それでいて困ったような、複雑な表情で俺を見つめていた。
その視線に、俺の心臓がドクンと大きく脈打った。
羞恥心で顔が熱くなるのを感じる。だが、それと同時に、別の感情がむくむくと湧き上がってきた。
そうだ。
名前に「あーん」してやるのも、
名前から「あーん」してもらうのも、俺だけの特権であるべきだ。この日向の馬鹿げた企画に乗るのは癪だが、この権利を他の誰かに奪われる可能性を想像しただけで、胸の奥が黒く燃え上がる。
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。内心の葛藤はシーソーのように揺れ動いていたが、最終的に天秤は片方に大きく傾いた。
「……分かった。やってやるよ」
絞り出すような声で、俺はそう言った。日向は一瞬、ぽかんとした顔をしたが、すぐにニシシと悪戯小僧の笑みを浮かべた。
「よっしゃー! それでこそ影山! じゃあ、まずは
苗字さんから、影山に『あーん』な!」
日向が調理場に向かって、大声で叫ぶ。
「おーい! こっち、苺クリーム! 愛情トッピングマシマシでー!」
……愛情トッピングってなんだよ、ボゲェ。
やがて、ほかほかと湯気を立てる焼き立ての苺クリームクレープが、
名前の手に渡された。周囲の生徒達が、面白そうにこちらを遠巻きに見ているのが分かる。クソ、見世物じゃねぇんだぞ。
「……飛雄くん」
名前が小さな声で、俺の名を呼ぶ。その声が、やけに甘く鼓膜を震わせた。
彼女はフォークでクレープの先端を少量掬い取ると、そっと俺の口元へと差し出した。
生クリームの甘い香りと、苺の甘酸っぱい香りが鼻腔を擽る。
俺は心臓がバクバクと暴れ出しそうになるのを必死で抑えながら、ゆっくりと口を開けた。
名前の指先が、ほんの僅かに震えているのが見えた。
そして、彼女の白い指から甘いクレープが、俺の口の中へと運ばれる。
温かくて、蕩けるように甘い。
だが、それ以上に、
名前が俺の為にしてくれた、という事実が、何よりも甘美な味わいとなって、俺の全身を痺れさせた。
「……ん」
味わう余裕なんて、殆どなかった。ただ、その瞬間が永遠に続けばいいと、馬鹿みたいなことを考えていた。
「……どう、かな?」
名前が心配そうに、俺の顔を覗き込む。その大きな瞳が不安気に揺れていた。
「……うめぇ」
俺は、それだけ言うのが精一杯だった。本当は、もっと気の利いた言葉を言いたかったが、今の俺にはこれが限界だ。
すると、
名前の表情が、ふわりと花が綻ぶように和らいだ。その笑顔を見た瞬間、俺の中の何かが、カチリと音を立てて切り替わった。
「よーし、次は影山の番だぞー!」
日向の間の抜けた声が飛ぶ。俺は無言で、自分のチョコバナナクレープを受け取った。そして、同じようにフォークでクリームとバナナを掬い取ると、
名前の前に立つ。
今度は、俺の番だ。
名前の薄桃色の唇が、僅かに開かれるのを待つ。その無防備な様に、心臓が煩く鳴った。
俺は少しだけ身を乗り出し、彼女の耳元に唇を寄せた。周囲に聞こえないように、けれど、
名前にはハッキリと届くように囁く。
「……俺以外から、食うなよ」
それは不器用で飾り気のない、剥き出しの独占欲。
名前は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに意味を理解したのか、見る見るうちに首筋まで真っ赤に染め上げた。その反応が堪らなく愛おしくて、俺は満足気に口角を上げた。
そして、震える彼女の唇に、そっとクレープを運んでやる。
「っしゃー! カップル割引成立ー! おめでとうございまーす!」
日向が試合に勝ったかのように大声で叫び、周囲の生徒達もパチパチと拍手をしている。うるせぇ、ボゲェ。静かにしろ。
俺達は割引されたクレープを手に、喧騒から逃れるように教室の隅へと移動した。
隣で、
名前が自分の苺クリームクレープを小さな口で、ゆっくりと味わっている。その横顔を見つめながら、俺はさっきの自分の言葉を反芻していた。
(……俺以外から、食うな)
それは単にクレープを食べさせてもらうな、という意味だけではない。
この甘くて、少しだけ気恥ずかしくて、どうしようもなく幸せな瞬間を、これからもずっと、俺だけのものにしたい。そういう、身勝手で強欲な願いが込められていた。
――烏野高校文化祭。
お化け屋敷の恐怖も、ポークカレーの至福も、この甘ったるいクレープの味も。
その全てが、
名前という名の宝石を、より一層輝かせる為のスパイスなのかもしれない。
繋いだ手の温もりと、心臓を鷲掴みにするような甘い囁き。
この日の記憶はきっと、俺のバレーボール人生と同じくらい鮮烈な色を放ちながら、俺の心に刻まれ続けるのだろう。
他の誰にも渡したくない、俺だけの甘美な宝物として。