0.5秒の所有欲

兄貴が登場します。  日向のクラスの喧騒から逃れるように、俺達は教室の隅で黙々とクレープを消費していた。口の中に残るチョコバナナの甘さと、先程、名前の唇に苺クリームを運んだ瞬間の記憶が混ざり合い、脳の奥で奇妙な化学反応を起こしている。心臓はまだ、ドクドクと不規則なリズムを刻んだままだ。 『……俺以外から、食うなよ』  耳元で囁いた、あの言葉。  一体、どこの誰が言ったんだ。……俺だ。俺が言った。  自分でも信じられないくらいに独占欲を剥き出しにした、子供染みた台詞。それを反芻する度に、耳の付け根から首筋に掛けて、じわりと熱が広がっていくのを感じる。だが、不思議と後悔はなかった。寧ろ、俺の言動に驚き、頬を染め上げた名前の顔を思い出すと、胸の内がぎゅっと満たされるような、妙な満足感があった。  隣で、名前が苺クリームクレープの最後の一口を、名残惜しそうに食べている。その小さな唇の動き一つで、俺の視線が釘付けにされてしまうのだから、我ながらどうかしている。 「ご馳走様。美味しかったね」 「……おう」  空になったクレープの包み紙を近くのゴミ箱に捨て、俺達は再び人混みの中へと戻った。繋いだ名前の手は、先程よりも少しだけ汗ばんでいる。俺のか、名前のか、もう判別は付かない。只、その湿り気さえもが、彼女の存在を証明する確かな証のように感じられた。 「次は、どうしようか」  名前が、俺の顔を見上げて尋ねる。その深い海の色をした瞳に見つめられると、いつも思考が停止する。  お化け屋敷は、もう勘弁だ。かと言って、日向のクラスのような騒がしい場所も、今は些か気疲れする。  本当は、どこでも良かった。いや、どこにも行かなくても良かった。只、こうして、名前の隣に居て、誰にも邪魔されずに、この温もりを堪能していられれば、それで。  そんな本心を、この口が素直に紡げる筈もない。 「……別に。どこでも」  また、ぶっきら棒な答えしか出てこない。俺は自分の語彙力の乏しさを呪いながら、人の流れがやや途切れた方へと、無意識に足を向けた。校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下。そこから見える中庭は、メインストリートの喧騒が嘘のように静かで、幾人かの生徒が木陰で休んでいるだけだった。  俺達も、特に会話をすることなく、中庭の隅にあるベンチに腰を下ろした。  騒めきは遠いBGMのように聞こえ、吹き抜ける風が火照った肌に心地良い。 「……」 「……」  沈黙が流れる。だが、それは気まずいものではなかった。繋いだ手から伝わる互いの体温が、言葉以上の何かを交わしているような、そんな穏やかな時間。  このまま文化祭が終わるまで、ずっとこうしていたい。  そう思った、その時だった。 「おや。こんな所に、愛の逃避行中の妹が居るとは」  頭上から、どこか芝居がかった、落ち着いた声が降ってきた。  はっとして顔を上げると、そこには見覚えのある、長身の男が立っていた。名前の兄だと云う、苗字兄貴さん。相変わらず全身同一色の格好だが、胸元には『〆切間近』と云う、やけに切羽詰まった四文字が白くプリントされている。あんた、大丈夫なのかよ。  そして、その隣には、初めて見る少年が佇んでいた。  名前と同じ、吸い込まれそうな色味の瞳。整った顔立ち。俺よりも背は低いが、手足が長く、品の良いカーディガンを羽織っている。どことなく、名前に似た、近寄り難い雰囲気を纏っていた。 「兄貴兄さん。それに、も」  名前が驚きと共に、穏やかな表情で立ち上がる。その声の響きが、俺と話す時とは僅かに違う、家族間だけが持つ親密な色を帯びていることに、俺は気づいてしまった。胸の奥が、チリッと小さく焦げるような感覚。 「姉貴、本当にコイツと付き合ってんだ」  と呼ばれた少年が、俺を頭の天辺から爪先まで値踏みするように眺めながら、呆れた声音で言った。その視線には、敵意とは異なる純粋な好奇心と、ほんの少しの侮りが混じっている。 「。飛雄くんに失礼でしょう」 「どこが。思ったこと言っただけだし」  は悪びれもせず、ふいと顔を逸らす。なんだ、コイツ。年下の癖に、やけに生意気だ。 「はは、済まないね、飛雄くん。弟はまだ、姉離れができていないんだ。ところで、君のその顔、実に物語的だね。葛藤と焦燥、そして、微かな所有欲。素晴らしいインスピレーションが湧いてくる」  兄貴さんがにこやかに、しかし、全く笑っていない目で、俺を見ながら言う。この人の思考回路は、やっぱりよく分からない。 「兄貴兄さん達は、何かを見に来たの?」 「ああ。が、ここの美術部の展示を見たいと言うものだからね。ついでに、俺は新しい物語の素材を探しに。例えば、"文化祭の喧騒の中で、恋人の兄と弟に遭遇し、内心、穏やかではない王様のお話"とか」  ……この人、俺の心を読んでんのか?  俺は思わず、眉間に皺を寄せた。名前が兄や弟と話している。当たり前の光景だ。家族なのだから。  だけど、俺の知らない名前の一面。俺の知らない、彼らとの時間。俺が彼女と出逢うずっと前から積み重ねられてきた、彼らだけの歴史。  その事実が、ずしりと重い鉛のように、俺の胃の腑に沈んでいく。  繋いでいた筈の手は、いつの間にか離れていた。空になった右手が、やけに心許ない。 「じゃあ、俺達はもう行くよ。お邪魔だったかな?」 「ううん、そんなことないよ。来てくれて、ありがとう」  名前が兄弟に向ける、柔らかな微笑み。  それは、俺が今まで見たどんな笑顔よりも自然で、穏やかで――遠いものに感じられた。  ああ、クソ。  なんだ、この感情は。  ポークカレーの温玉を食い逃げされた時よりも、日向へのトスがズレた時よりも、もっと黒くて、ドロドロした何かが、胸の奥で渦巻いている。 「飛雄くん、またね。妹を宜しく頼むよ」 「……義兄さん、なんて、絶対に呼ばねーからな」  兄貴さんとはそれぞれに言い残すと、ひらりと片手を振り、人混みの中へと消えていった。  後に残されたのは、再びの静寂と、俺の中に生まれた、どうしようもなく不機嫌な澱みだけだった。
 兄さんとが去った後、隣に座る飛雄くんの纏う空気が、明らかに変わったことに気づいていた。  先程までの、クレープを巡る攻防で見せた子供っぽい高揚感や、お化け屋敷で本気で怖がっていた時の素直な反応は影を潜め、今は分厚い氷の壁で、自身を覆ってしまったかのように硬く冷たい。  飛雄くんは黙ったまま、中庭の向こうを、焦点の合わない目で見つめている。握り締められた拳。僅かに寄せられた眉間。ぴたりと閉ざされた唇。  全身から、"不機嫌"オーラが立ち上っているのが、手に取るように分かった。 (……可愛い)  その理由が、今し方の兄さん達とのやり取りにあることは、想像に難くない。  わたしが、自分以外の誰かと親密に話す姿。特に、それが家族と云う、飛雄くんが決して立ち入ることのできない領域に属する人間だったから。  飛雄くんがコートの上で見せる、傲慢なまでの自信とは裏腹の、不器用で脆い部分。その独占欲が、こんなにも分かり易く表に出てしまうところが、どうしようもなく愛おしい。  わたしの中の意地悪で欲張りな悪魔が、飛雄くんのその姿を見て、静かに満足の溜息をつく。  彼のその感情は、わたしだけのもの。  その対象は、わたしだけ。  わたしはそっと、飛雄くんの隣に座り直した。そして、固く握り締められている彼の左手に、自分の両手を重ねるようにして、そっと触れた。  びくり、と彼の肩が僅かに震える。けれど、振り払われることはなかった。 「飛雄くん」  静かに名前を呼ぶ。  彼は視線を中庭に向けたまま、返事をしない。でも、耳だけは正直に、こちらを向いているのが分かった。 「怒っているの?」 「……別に」  短い否定。声は拗ねた子供のようで、些か低く、硬い。 「そう。……わたしはね、飛雄くん」  わたしは重ねた手に、少しだけ力を込めた。彼の指先が、氷のように冷たい。 「今、わたしは、飛雄くんと居たい」  真っ直ぐに言葉を紡ぐ。  彼の視線が驚いたように、ゆっくりとこちらを向いた。深い色の瞳が、戸惑いに揺れている。 「兄さんやと話す時間も、大切だよ。でも、それはそれ。今は違う」 「……」 「文化祭の、どんな賑やかな出し物よりも、どんな美味しい食べ物よりも……只、こうして、飛雄くんの隣に居たい。飛雄くんの体温を感じて、飛雄くんの呼吸を聞いて、同じ景色を見ていたい」  それは駆け引きでも、慰めでもない。わたしの、偽りのない本心。  世界がどんなに沢山の魅力的なもので溢れていても、今のわたしにとって、一番価値があり、一番欲しいものは、目の前に居るこの不器用な王様、唯一人なのだから。 「……だから、そんな顔をしないで」  わたしは片手で、彼の強張った頬にそっと触れた。  飛雄くんの目が、大きく見開かれる。その瞳の奥で、硬く凍っていた氷が、パリン、と音を立てて砕けるのが見えた。 「……名前」  飛雄くんが掠れた声で、わたしの名前を呼ぶ。  その声を聞いた瞬間、わたしの中の悪魔は幸福感に満たされ、すうっと眠りに就いた。  飛雄くんの頬辺から、凝り固まった力が抜けていく。そして、見る見るうちに、耳の先から首筋までが、熟した林檎のように真っ赤に染まった。その反応が、どんな言葉よりも雄弁に、彼の心の内を物語っていた。 「……おう」  やがて、飛雄くんは小声で、そう頷いた。  今度は彼の方から、優しい力強さで手指を握り返される。  先程までの冷たさはもう、どこにもない。じんわりと確かな熱が、わたしの指先にまで伝わってくる。  ――烏野高校文化祭。  傾き始めた陽の光が、校舎の窓ガラスに反射して、きらきらと輝いている。遠くからは閉会式が近いことを告げる放送と、生徒達の賑やかな声が、風に乗って運ばれてくる。  けれど、そんな喧騒も、今のわたし達には届かない。  この繋いだ手の温もりと、隣に座る彼の存在。  それだけで、わたしの世界は完璧に満たされている。  この先、どんな物語が待っていようとも、この瞬間が、わたし達の原点になるのだろう。  不器用な嫉妬と、真っ直ぐな告白。  その全てを抱き締めて、わたし達はただ静かに、同じ時間を生きていた。  失くしたくない、たった一つの宝物を、この掌の中に確かめながら。



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