0.2秒の温度
繋いだ手のひらが、じわりと熱を帯びていく。
影山の大きな手に包まれた
名前の指先が、ほんの少しだけ力を込めて応えるように握り返してきた。その小さな反応だけで、影山の心臓は先程とはまた違う種類の音を立てて跳ね上がる。まるで、コート上で完璧なクイックが決まった瞬間のような、全身を駆け巡る高揚感。けれど、それよりもずっと個人的で甘美な感覚だった。
人混みを掻き分けながら、二人は目的の教室――1年4組、月島と山口が居るクラスの喫茶店へと向かっていた。影山の頭の中は、先程、
名前が指差した看板の写真――とろりとした半熟の温泉卵が鎮座する、見るからに濃厚そうなポークカレー――で既に占拠されつつあったが、それと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に繋いだ手の温もりと、隣を歩く
名前の存在が彼の意識を満たしていた。
文化祭特有の浮かれた喧騒は、不思議と二人を包む静かな空気の膜を破ることはなかった。寧ろ周囲の騒がしさが、繋がれた手を通して伝わる確かな存在感を際立たせているかのようだ。
やがて辿り着いた1年4組の教室前には、『Moon's irony & Mountain's smile Cafe / M&M Cafe』という、どことなく片方の悪意と、もう片方の人の良さが滲み出ているような、手作り感溢れる看板が掲げられていた。入口には黒と白のチェック柄の布がカーテンのように下げられ、中からは微かにコーヒーの香りと、軽快なジャズのBGMが漏れ聞こえてくる。文化祭の出し物としては、予想以上に本格的な雰囲気を醸し出していた。
「……ここか」
「うん。お洒落な感じだね」
名前が感心したように呟く。影山は看板の文字よりも、早くポークカレーにありつきたいという欲求で逸る心を抑えながら、カーテンをそっと押し開けた。
教室の中は黒い画用紙で窓が覆われ、天井からは小さな電飾が星のように瞬き、落ち着いた照明が落とされていた。机はクロスで覆われ、幾つかのテーブル席が設けられている。意外にも、教室の壁際には本棚が置かれ、何冊かの本が並べられていた。そして、フロアでは、クラスの女子生徒がフリルの付いたメイド服を、男子生徒の一部がシンプルな執事風のベストと蝶ネクタイを身に着けて、忙しそうに動き回っていた。
その中で、ひときわ長身の、見慣れた二つの姿が目に飛び込んできた。
「……げっ」
思わず声が漏れたのは、フロアの隅で腕を組み、心底面倒臭そうな表情で客を眺めている月島蛍の姿を認めたからだ。彼は他の男子生徒と同じ執事風のベストを着てはいるものの、その態度は"接客"とは程遠い。その隣では、山口忠が少し困ったような、それでも人の良さそうな笑顔を浮かべながら、注文を取ったり、料理を運んだりしている。山口も同じく執事風のベスト姿だが、こちらは随分と板に付いて見えた。
「いらっしゃいませー!」
山口が直ぐに二人に気づき、ぱっと顔を輝かせて歩み寄ってきた。
「影山!
苗字さんも、来てくれたんだね! ありがとう!」
「おう」
「こんにちは、山口くん」
名前が穏やかに挨拶を返す。影山は、山口の後ろでこちらを一瞥しただけで、ふい、と興味なさそうに視線を逸らした月島を睨み付けたい衝動に駆られたが、繋いだ
名前の手の感触がそれを押し留めた。
「空いてる席、こっちどうぞ!」
山口に案内され、二人は窓際の二人掛けのテーブル席に着いた。向かい合って座ると、繋いでいた手を離さなければならない。名残惜しさを感じながらも、影山はそっと手を放した。まだ微かに、
名前の指先の感触が残っているような気がした。
「ご注文、お決まりですか?」
山口がメニュー表を差し出す。しかし、影山はそれを受け取る前に即答した。
「ポークカレー温玉載せ」
「あ、はい! ポークカレー温玉載せね!
苗字さんは?」
「わたしは……ダージリンティーをお願いしようかな」
名前はメニューをゆっくりと眺めながら、微笑んで答えた。
「畏まりました! 少々お待ちください!」
山口が溌剌とした声で応え、厨房へと戻っていく。その背中を見送っていると、不意に、のそりと月島が近づいてきた。手に水の入ったグラスを二つ持って。
「ドーモ。王様と、そのお連れ様」
テーブルにグラスを、ことり、とやや乱暴に置きながら、月島が皮肉っぽい笑みを浮かべる。影山の眉間に、ぐっと皺が寄った。
「……んだと、テメェ」
「まあまあ。そんなに睨まないでよ。折角の可愛い彼女の前で、そんな怖い顔してると嫌われちゃうんじゃない?」
「……っ!」
月島の言葉は、的確に影山の神経を逆撫でする。だが、
名前の前で怒鳴り散らすわけにもいかず、ぐっと言葉を飲み込む。その様子を見て、月島は更に面白がるように口角を上げた。
「で? ご注文はやっぱりポークカレー? 王様はブレないね。芸がないと言うか、なんと言うか」
「うるせぇ、月島ボゲェ!!」
「飛雄くん」
反射的に怒鳴り返そうとした影山の名を、
名前が静かに呼んだ。その声には咎める響きはなく、ただ穏やかに制するような響きがあった。影山はハッと我に返り、口を噤む。
「月島くん、お仕事お疲れ様。この喫茶店、とても素敵だね」
名前が月島に向かって、ふわりと微笑む。その完璧に穏やかで、どこか掴みどころのない微笑みに、月島は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「……どうも。まあ、楽しんでってくださいヨ」
僅かに調子を狂わされたように言い捨てると、月島は興味を失ったように踵を返し、再びフロアの隅の定位置へと戻っていった。
「……アイツ、マジで……」
「ふふ、飛雄くんは素直だね」
忌々しげに月島の背中を睨む影山を見て、
名前が小さく笑う。
「どこがだ」
「思ったことが、すぐ顔に出るところ」
そう言って悪戯っぽく笑う
名前に、影山はぐうの音も出なかった。確かに、自分はポーカーフェイスなどとは程遠い。バレーの試合中ならまだしも、日常では感情が駄々洩れだということは自覚していた。
暫しの沈黙。教室内に流れるジャズの音と、他の客達の話し声が遠くに聞こえる。影山は手持ち無沙汰にテーブルの上のグラスを眺めていた。先程までの喧騒とは違う、二人だけの静かな時間が流れる。
不意に、
名前が問い掛けた。
「ねぇ、飛雄くん」
「……なんだ?」
「人って、心の中に悪魔を飼っていると思う?」
「……は? 悪魔?」
唐突な問いに、影山は目を瞬かせた。悪魔? 何故、今、そんな話になるのか、全く見当がつかない。
「うん。例えば……。凄く好きな人が居て、その人を誰にも渡したくない、独り占めしたいって強く思う気持ち。そういうのって、少しだけ、悪魔的だと思わない?」
名前は静かな瞳で、真っ直ぐに影山を見つめて言った。その瞳の奥はいつものように深く、感情を読み取ることは難しい。けれど、その言葉は、影山の胸の奥にすとんと落ちた。
独り占めしたい気持ち。
それは、影山の中にも確かに存在する感情だった。
名前が他の男と話しているだけで、胸の奥がざわつく。彼女の視線が自分以外に向けられることに、言いようのない苛立ちを覚える。それはコート上で自分のトスが、他の誰かに奪われることへの執着とはまた違う、もっと個人的で、どろりとした感情。
「……」
影山は答えられずに黙り込んだ。それは肯定とも否定とも取れる沈黙だった。
「わたしの中にも、きっと居るよ」
名前は、ふっと息を吐くように続けた。
「飛雄くんのこと、他の誰にも見せたくない。わたしの知らないところで、誰かと笑い合ってほしくない。……そう思う、意地悪で、欲張りな悪魔が、わたしの中に居る」
その告白は余りにも静かで、淡々としていた。けれど、その言葉が持つ熱量は、影山の心を強く揺さぶった。いつも穏やかで、どこか儚げに見える
名前の中に、そんなにも強い独占欲が秘められていたことへの驚き。そして、それ以上に――自分と同じ想いを、彼女もまた抱いているという事実に対する、どうしようもない程の喜び。
心臓が、ぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。それは苦しい痛みではなく、甘美な痺れを伴うような、幸福な痛みだった。
「……俺も、」
気づけば、声が漏れていた。
「俺も、居るかもしれねぇ。……お前のこと、他の奴に触らせたくねぇし、見せたくもねぇって思う……そういう、黒いモンが」
それは、影山にとって精一杯の告白だった。ぶっきら棒で、飾り気のない言葉。けれど、嘘偽りのない本心だった。
名前の唇に、ふわりと柔らかな微笑みが浮かんだ。それは先程、月島に向けたものとは違う、もっと親密で温かな色を帯びた微笑みだった。
「ふふ、そう。……お揃いだね、飛雄くん」
お揃い。その言葉の響きが、影山の胸を満たしていく。まるで、秘密を共有した共犯者のように。心の中に潜む、少しだけ不穏で、けれど抗い難い程に甘美な「悪魔」を二人は互いの中に認め合ったのだ。
その時、タイミングを見計らったかのように、山口が料理を運んできた。
「お待たせしましたー! ポークカレー温玉載せと、ダージリンティーです!」
湯気を立てるカレー皿が、影山の目の前に置かれる。香ばしいスパイスの匂いと、豚肉の旨味が凝縮されたような芳醇な香りが鼻腔を擽る。中央には、完璧な半熟具合の温泉卵がぷるんと鎮座し、艶やかな黄身が今にも溢れ出しそうだ。
「うおっ……!」
影山の目が、途端にバレーボールを追う時のように真剣な輝きを帯びた。先程までの甘い空気は一瞬にして霧散し、彼の意識は完全に目の前のポークカレーへと集中する。
「頂きます!」
律儀に手を合わせると、スプーンを手に取り、まずは温泉卵をそっと崩す。とろりとした黄身が褐色のカレールーの上に流れ出し、魅惑的な模様を描いた。影山はそれをルーと丁寧に掻き混ぜると、大きな一口を頬張った。
「……んんっ! うめぇ!!」
思わず声が漏れる。スパイスの複雑な香りと、じっくり煮込まれたであろう豚肉の旨味、野菜の甘みが溶け込んだ濃厚なルー。そこに円やかな温泉卵の黄身が絡み付き、絶妙なハーモニーを奏でている。白米の炊き加減も完璧だ。
影山は、もう言葉を発することも忘れ、一心不乱にポークカレーを口へと運び始めた。その食べっぷりは、正に「満腹中枢、仕事しろ」と言いたくなるような勢いだ。
名前はカップに注がれた紅茶の湯気を静かに見つめながら、時折、向かいで夢中になってポークカレーを頬張る影山に視線を送っていた。その瞳には愛おしさと、そして、先ほど自分自身が口にした「悪魔」に通じるような、深い満足感が浮かんでいるように見えた。
(わたしの飛雄くんが、こんなに美味しそうにご飯を食べている。この幸せそうな顔を、他の誰にも見せたくない)
そんな、甘く危険な囁きが、
名前の心の中で小さく響く。けれど、それは決して不快なものではなかった。寧ろ、影山への愛情を再確認させる、心地良い響きですらあった。
あっと言う間にカレー皿は空になり、影山は満足気に息をついた。額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「……ご馳走様」
「ふふ、早かったね。美味しかった?」
「おう。今まで食った文化祭のモンの中で、一番美味かったかもしれねぇ」
素直な感想に、
名前は嬉しそうに目を細めた。
「それは良かった。月島くん達に伝えてあげないとね」
「……それは、別にいい」
褒めるのは癪だ、とでも言いたげに、影山はそっぽを向いた。その子供っぽい反応に、
名前はまた小さく笑った。
紅茶を飲み終えた
名前がカップを置くと、二人は席を立った。会計を済ませ、山口に「美味かった」と(月島には聞こえない程度の声で)告げると、再び手を繋いで喫茶店を出た。
教室の外に出ると、再び文化祭の喧騒が二人を包み込む。けれど、先程までとは少しだけ違う空気が二人の間に流れていた。
影山は、繋いだ
名前の手の温もりを感じながら、先程の会話を反芻していた。
心の中の悪魔。独占欲。
それは、決して綺麗な感情ではないのかもしれない。けれど、
名前がそれを肯定し、「お揃い」だと言ってくれたことが、影山の心を温かく満たしていた。この感情は、
名前を大切に想う気持ちの、もう一つの側面なのだと。そう思えた。
隣を歩く
名前の横顔を盗み見る。穏やかな表情は変わらない。けれど、その奥に秘められた情熱を、影山は確かに感じ取っていた。
――烏野高校文化祭。
ポークカレー温玉載せの味と共に、心の中に潜む「悪魔」の存在を確かめ合ったこの日の記憶は、繋いだ手の温もりと共に、きっとこれからも、影山飛雄の世界を鮮やかに彩り続けるのだろう。他の誰にも渡したくない、二人だけの大切な宝物として。