0.1秒の衝動
烏野高校の文化祭は、予想を遥かに超える人の波でごった返していた。
校舎全体が巨大な生き物の如く熱気を帯び、そこかしこから弾ける笑い声と、クラス毎の呼び込みが飛び交っている。ソースの焦げる香ばしさ、甘ったるい綿菓子のフレーバー、フランクフルトの少し油っぽい匂い――様々な食べ物の芳しさが渾然一体となって鼻腔を擽り、活気と云う名のエネルギーが渦巻いていた。教室の入口には、趣向を凝らした手作りの看板が掲げられ、廊下の壁には、色とりどりのポスターが所狭しと貼られている。思い思いのコスプレに身を包んだ上級生達が、楽しげに闊歩する。学校自体が非日常を詰め込んだ、巨大なテーマパークへと変貌したかのようだった。
その喧騒の只中で一人、影山飛雄は時が止まったかのように、中庭に近い渡り廊下の隅で立ち尽くしていた。
じっとりと汗ばんだ手の平を、影山はもう何度目になるか分からないくらい、制服のポケットの中でこっそりと拭っている。サーブを打つ直前ですら、ここまで手が湿ることは滅多にない。バレーボールであれば、ミリ単位の動き、コンマ数秒の判断を研ぎ澄ませられる。誰よりも正確にスパイクのコースを読み、寸分の狂いもなく、ボールをアタッカーの最高到達点へと届ける男が、今、この瞬間は世界で一番と言ってもいい程、無意味で制御不能な緊張に支配されていた。
理由は唯一つ。
――彼女と、今日、ここで待ち合わせると約束していたから。
「飛雄くん」
不意に人波の向こうから、凛とした声が届いた。その声がした方へ視線を流すと、周囲の喧騒だけをスローモーションにするフィルターが掛かったかのように、一人の少女がこちらを目指して歩いてくるのが見えた。
ふわりと柔らかな髪が、渡り廊下を吹き抜ける風に優しく揺れている。同じ学校の見慣れた制服。けれど、彼女が纏うと、特別な衣装のように映る。透き通る白い肌に、吸い込まれそうな程に深く、静かな海の色を閉じ込めた大きな眸。彼女の双眸が真っ直ぐに影山を捉えた瞬間、彼は自分が呼吸をすることすら忘れていたことに気づく。
「ごめんね、少し遅れてしまって」
透明感のある、澄んだ声。粛としているのに、不思議とどんな騒音の中でもはっきりと耳に届き、心に残る余韻を持っている。
たった一言だけで、今し方まで耳障りな程に響いていた周囲の騒めき――音楽、歓声、足音――全てが急速に色褪せ、遠い背景へと溶け込むようだった。
「……別に、そんな待ってねぇし」
咄嗟に視線を逸らし、ぶっきら棒な言葉を返すのが精一杯だった。けれど、耳の先端がじわりと熱を持ち、赤く染まるのは止めようがなかった。
実際には、約束の時間よりもかなり早くから、この場所で待機していた。落ち着きなく周辺を見回しては、何度も携帯電話で時刻を確認し、彼女らしき姿を探して空振りする度、小さく溜息を吐いていたことなど、例え拷問され、口が裂けたとしても言える筈がない。
彼女の名前は、
苗字名前。
数ヶ月前、影山がバレーボール以外で初めての、内側から湧き上がるどうしようもない衝動に従い、「好きだ」と告げた相手。そして、「わたしも、影山くんのことが好き」と云う、夢ではないかと疑う程に柔らかな返事をくれた、彼の恋人。
あの日以来、影山飛雄の世界はバレーと云う絶対的な中心軸はそのままに、確実に彩りを増し、広がりを見せていた。
「どこから見て回ろうか?」
名前が隣に並び、歩き出す雰囲気を感じさせながら尋ねる。
「……3年の、お化け屋敷、行きたい」
クラスの出し物一覧を眺め、真っ先に目に留まったそれを口にする。
「ふふ、飛雄くんがお化け屋敷って、意外だね。怖いの、平気なの?」
少し驚いたように、微笑む気配がした。
「……別に。ボールが顔面に当たって、下げられることの方が何百倍も怖ぇ。……って云うか、
名前が行きたいって言うなら、どこでも行く」
後半は殆ど、自分でも何を口走っているのか分からないまま、早口で付け加えた。
「そう。じゃあ、行ってみようか」
名前は、影山の不器用な言葉に潜むものを、正確に汲み取ってくれる。ふっと息だけで笑う呼気が揺れ、二人は自然と並んで歩き始めた。
しかし、数歩も進まない内に、前方から来た集団に押される形で、
名前の肩が、隣を歩いていた男子生徒にぶつかりそうになる。
「……っ、危ねぇ!」
考えるより先に、手が伸びていた。反射的、と云う語句すら生温い速度で、
名前の華奢な手首を掴む。呼吸をするのと同じくらい、影山の身体に染み付いた無意識の動作だった。
触れた瞬間、握った腕首から、驚く程の熱が伝わったように感じた。いや、熱いのは、自分の掌かもしれない。自身の体温なのか、彼女の体温なのか、判別がつかなかった。只、柔らかさと確かな存在感に、心臓が大きく跳ねた。
手を離すべきか、一瞬迷う。けれど、喧騒の中で彼女を一人にしてしまう不安が、それを許さなかった。指先をほんの少しだけ滑らせる。意を決して、ぎこちなくだが、
名前の指に、自分の指を絡めた。
「……っ、飛雄くん?」
驚いたような、戸惑う声。
名前の顔が見られない。
「……うるせぇ。こっちの方がはぐれねぇし、歩き易いだろ」
言い訳にもなっていない、ぶっきら棒な言い分を吐き捨てるように返す。前を向いたままだが、握った手には、
名前を離さないと云う意志を込め、そっと力を加えた。
嫌がられるかもしれない。振り払われるかもしれない。そんな懸念が、胸の奥を冷たく掠める。しかし、指先が震えることも、拒絶される気配もなかった。
それどころか――
「……うん。そうだね。とても歩き易い」
直ぐ隣から聞こえた、穏やかで、どこか嬉しそうな響きを含む一言。まるで、完璧なトスが決まった瞬間のような、鮮やかな衝撃となって、影山の心臓を文字通り鷲掴みにした。
人混みの中で、たった一つの輝く宝石を見つけた。
そんな、途方もない感覚。
今、自分の顔がどんな形をしているのか、全く見当がつかない。もしかしたら、バレーの試合中に見せる険しい表情とは程遠い、ぐしゃぐしゃに緩んだ、締まりのない顔つきになっているかもしれない。それだけが猛烈に気になった。
なにせ、繋いだ手指から伝わる彼女の存在が、余りにも眩しくて、鮮烈で。周囲の喧騒も、けたたましいBGMも、飛び交う笑い声も、何もかもが遠く、意識の外へ追い遣られてしまったのだから。
「あ、見て、飛雄くん。あそこのクラスの喫茶店、ポークカレー温玉載せだって。写真、凄く美味しそうだよ」
空きの片手で、
名前が前方の教室の看板を指差す。
「食う」
即答だった。食い気味に振り返った影山の瞳には、一点の曇りもない、真剣な光が宿っていた。バレーに対するものと、寸分違わぬ真剣さで。
――烏野高校文化祭。
それは、他の生徒にとっては年に一度の、只、楽しいだけの学校行事かもしれない。
けれど、影山飛雄にとっては違う。
この日は初めて、勇気を出して彼女と手を繋いだ日であり、雑踏に溢れた日常の内側で、もう一度、
苗字名前と云う名の掛け替えのない宝石に出逢い直した日でもあった。
そして、これから先もずっと、影山の記憶の中で色褪せることなく、大切な記念日として刻まれるのだろう。結んだ手指の温もりと共に。