黄色い鳥の受難 | 猫カフェ体験、モテ期到来 | Title:楽しくて死んでしまう
二月二十二日、『猫の日』と呼ばれるこの日、五色工は街を歩きながら、何度目かの溜め息をついた。
「……なんで俺、こんなシャツ着てんだ?」
五色の視線は自分の胸元に向けられていた。そこには、やたらと派手な黄色い鳥のプリントが大きく描かれている。本来なら着るつもりのなかったこのシャツは、朝、寮の乾燥機から慌てて衣類を取り出した際に間違えて選んでしまったものである。いつもならきちんと確認するのに、今朝は
名前との約束に遅れそうで、焦りの余り手に取ったのが運の尽き――そう思うと、また吐息が漏れた。
隣を歩く
名前はそんな五色の様子を特に気にする素振りも見せず、冬の終わりを告げる柔らかな日差しの中、ゆったりとした歩調で進んでいる。彼女の髪が風に揺れる度に、そこだけ時間が緩やかに流れているような錯覚を覚えた。その姿を横目で見つめる間も、胸元の黄色い鳥が自分を嘲笑している気がして仕方がない。
「で、どこ行くんだ?」
五色は少し困惑しながら尋ねた。朝の連絡は「ちょっと出掛けよう」という
名前からの唐突なものだった。彼の声には、今日という日の目的がまだはっきりしていないことへの戸惑いが滲んでいる。
名前は軽く考えるような仕草をしてから、ふと微笑んだ。その表情に何か企みがあると感じたのは、きっと気のせいではなかった。
「特に決めていないけれど……そうだね、今日は猫の日だから、猫に関連するお店に行ってみるのはどう?」
「猫カフェとか?」
五色は首を傾げながら問う。彼は猫が嫌いなわけではないが、猫カフェに行くこと自体には少し抵抗があった。動物と触れ合うという行為そのものよりも、その空間に漂う"猫好き"達の熱量に圧倒されそうで――。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、
名前はさらりと次の言葉を口にした。
「うん。工くんが鳥のシャツを着ているから、猫がどういう反応をするか試してみたい」
その言葉に、五色の背筋に電流が走った。
「……実験台みてぇな扱いするなよ!」
五色は思わず肩を竦めたが、
名前の表情には僅かに悪戯っぽい光が宿っている。彼女の瞳が楽しげに輝くのを見て、五色は内心で呻いた。この輝きは、いつも彼が窮地に立たされる前触れだ。彼はこのままでは勝てないと悟りつつ、仕方なく歩を進めることにした。
保護猫カフェ『ふわもこ邸』に向かう途中、
名前がふと足を止めた。通り掛かった雑貨屋のショーウィンドウに、猫のぬいぐるみが並んでいる。それらに混じって、丸みを帯びた黄色い鳥のクッションが置かれていた。五色はその光景を見て、何か不吉な予感を覚えた。
「工くん、あれ」
名前の声に、嫌な予感は確信へと変わる。指差された方向を見ると、そこには怒ったような表情を浮かべた鳥のクッションがあった。その目が、自分を非難しているようにさえ感じられた。
「この鳥、工くんに似てる」
その言葉に、五色は反射的に眉を寄せた。クッションの鳥と同じ顔を自分がしているとは、冗談にしても勘弁してほしい。
「またそれかよ!? 俺、そんな鳥顔してねぇだろ!」
だが、
名前は全く動じることなく、微笑を深めた。その表情には、五色の反応を予測していたという余裕すら感じられる。
「表情が似ているよ」
五色は何か言い返したかったが、適切な言葉が見つからず、結局、不貞腐れたようにそっぽを向いた。自分の反応が
名前の予想通りだということも、彼を余計に苛立たせた。その様子を見て、
名前はくすりと笑う。その笑い声は、まるで小さな鈴が鳴るような心地よさで、彼の怒りを不思議と和らげた。
「……ふふ、工くん、今日は本当に可愛いね」
「お、おい、
名前……そういうことさらっと言うの、ずりぃぞ……」
五色は頬を赤く染めながら視線を逸らした。こうして、
名前の一言で自分の感情が翻弄されるのは、いつものことだった。そんな彼の態度が気に入ったのか、
名前は自然な流れで言葉を続ける。
「工くんが可愛い鳥さんになった記念に、何か買ってあげるよ」
「いや、いいよ! 俺、鳥になった覚えねぇし!」
五色は必死に抵抗するが、自分の言葉が空回りしていることを悟っていた。
名前の決めたことを覆すのは、いつだって至難の業だ。
「でも、折角だから記念に」
「記念ってなんだよ……!」
必死の抵抗も虚しく、
名前は小さな黄色い鳥のマスコットを手に取ると、静かにレジへと向かった。その後ろ姿を見送りながら、五色は諦めの吐息をついた。今日一日、自分は鳥として扱われる運命にあるらしい。
ふわもこ邸に到着すると、猫カフェ特有の、猫達の柔らかな鳴き声と、爪とぎのカリカリとした音、そして温かいミルクに似た甘い香りが漂う。店内には、綿菓子のようなふわふわの毛並みのペルシャ猫が、陽だまりの中でうとうとしていた。艶やかな黒猫が、高い棚の上から店内を見下ろし、その瞳は宝石のように輝いている。窓際では、キジトラ猫が日向ぼっこをしており、キャットタワーの上ではスコティッシュフォールドが丸くなっていた。その他にも、白猫、茶トラ……様々な毛色の猫達が気ままに過ごしている。色々な種類の猫用おもちゃも置かれており、選んで遊べるようになっていた。その光景は、五色の予想を遥かに超えていた。
「おお、すげぇ……!」
五色は興奮するも、大きい声を出して猫に怖がられないように、言葉を一瞬で引っ込めた。自分の胸元に描かれた鳥が、この空間でどんな反応を引き起こすか――不安と期待が入り混じる。
猫達は静かな空間を楽しむように、日向で伸びたり、棚の上で丸くなったりしている。その姿に見惚れながらも、五色は自分が異物であることを強く意識していた。
五色は慎重にお店の猫じゃらしを手に取り、装備した。これが彼の唯一の武器であり、盾でもある。
「工くん、まずは落ち着いて、猫に安心してもらわないとね」
名前の言葉に、五色は緊張した面持ちで頷いた。猫じゃらしを握る手に力が入り、思わず息を呑む。壁際では、茶トラ猫が興味深そうに彼の動きを見つめていた。
「お、おう……」
五色は猫達に警戒されないよう、息を潜めて姿勢を低くし、静かに床に這い蹲った。そして、ゆっくりと猫じゃらしを揺らす。その姿は、初めて釣りに挑戦する子供のように不器用だった。
(……く、屈辱じゃねぇけど、なんか妙な気分だな……)
そんな五色の努力が実ったのか、暫くして一匹の若い白猫がゆっくりと近づいてきた。しかし、まだ警戒しているのか、五色の手が届かない距離で様子を窺っている。興味深そうに猫じゃらしを見つめる瞳は、まるで獲物を狙うハンターのようだ。その視線に、五色は言いようのない緊張を覚えた。
「……き、来たか?」
「うん、良い感じだよ」
名前の励ましに、五色は固唾を呑んで見守りながら、更にそっと猫じゃらしを動かした。すると、好奇心に負けた白猫が少しずつ距離を詰め、猫じゃらしに狙いを定めてぴょんと跳び付いてくる。その動きは予想以上に素早く、五色は思わず身を引いた。
(うおっ……!)
その瞬間、他の猫達も「遊んでいいの?」とばかりに集まってきた。黒猫、茶トラ、サバトラ……色とりどりの猫達が五色の周囲を囲み、猫じゃらしに群がる。その光景は、猫の王国に迷い込んだ旅人のようだった。
(うわ、なんかすげぇぞ……!)
「ふふ、工くん、モテモテだね」
名前の言葉に、五色は本当にモテているのか、揶揄われているのか分からず、複雑な表情を浮かべた。モテると言うより、寧ろ囲まれている感覚が強い。猫達は五色の動きに合わせて跳び付き、じゃれ付き、時折、彼の服の端をちょいちょいと引っ張ったりもする。彼らの柔らかな毛並みが、五色の指先を擽る。その様子は、確かに可愛らしいのだが――。
(おい、可愛いけど……これ、めっちゃ大変じゃねぇか!? 休む暇がねぇ!)
「工くん、まるで猫使いみたい」
名前の言葉に、五色は内心で反論した。
(いや、俺が使われてる側じゃねぇか!? てか、こいつら、俺のシャツまで狙ってる気がすんだけど……)
黄色い鳥のシャツは、どうやら猫達にとっても魅力的に見えるらしい。彼らは時折、五色の胸元をツンツンとしたり、顔をすりすりとこすり付けたりしている。その感触は悪くないが、このシャツを損傷させてしまったら、寮の先輩に弁償することになる。
(こ、こら! 借り物のシャツを獲物みてぇに扱うなー!)
猫達はそんな五色の心の叫びもどこ吹く風とばかりに、次々と彼にじゃれ付いていく。その様子は、彼を仲間として受け入れているかのようだった。不思議と心が温かくなる感覚に、五色は戸惑いを覚えた。
「工くん、今日は本当に楽しいね」
名前の言葉に、五色は疲れた表情を浮かべながらも、僅かに頷いた。
「いや、俺はもう精神力的にヤバい……」
五色は息を切らしながらも、猫達にじゃれ付かれる感触が悪くないことを認めざるを得なかった。小さな命が自分を信頼して近づいてくる――その感覚は、確かに特別なものだった。だが、油断した瞬間、茶トラの猫が彼の胸元に飛び付いた。黄色い鳥に狙いを定めたかのような一撃に、五色は息を呑んだ。
(ぐはっ!? やっぱ狙われてるー!)
名前はその様子を見て、肩を震わせながら笑う。その表情には、心から楽しんでいる色が濃く出ていた。
「ふふ、本当に楽しくて……死んでしまいそう」
(俺は今、別の意味で死にそうだ!)
五色は茶トラを優しく抱き上げながら、
名前の笑顔を見つめた。彼女がこんなに心から笑う姿は、実は珍しい。その笑顔が、このどこか滑稽な状況のお陰だと思うと、黄色い鳥のシャツを着た運命も、猫達に囲まれる混乱も、それほど悪くないように思えてくる。
猫が彼の膝の上で丸くなった時、五色は思わず微笑んだ。小さな命の温もりと、
名前の優しい視線に包まれて、彼は静かな幸福感に浸った。例え、先輩にシャツの件で怒られたとしても、今日、この瞬間は、間違いなく特別な一日になるだろう。
こうして、猫達に囲まれた五色と、それを楽しげに見つめる
名前。
楽しくて、笑い過ぎて、二人は今日も幸せな時間を過ごしていた――。