黄色い鳥の余韻 | 黄色い鳥の受難と幸福。| Title:個性。

 五色は息を呑んだまま動けなかった。  再び胸元の黄色い鳥のプリントを目掛けて跳び付いた茶トラ猫は、その場で暫くモゾモゾと動いた後、満足したように彼のシャツに爪を引っ掛けたまま丸くなってしまった。爪先が布地に食い込む感触に、五色は微かな恐怖を覚えた。先輩から勝手に借りた大事なシャツに穴でも開いたら、どう弁解すればいいのか――。 「お、おい……」  囁くような声で猫を退かそうとするが、名前が微笑ましげにその様子を見守っているので、下手に動くこともできない。彼女の瞳には優しい光と、そこはかとなく悪戯心が混ざり合っていた。そうこうしている内に、他の猫達まで興味を示し始める。白猫が五色の膝に飛び乗り、黒猫がシャツの裾を軽く引っ張る。 「工くん、すっかり猫達のベッドみたいになってるね」  くすくすと笑いながら、名前が五色のシャツに付いた猫の毛を指先で摘まんでみせる。気づけば、彼の服はふわふわとした毛で埋め尽くされつつあった。黄色い鳥のプリントは、まるで巣の中で温もりに包まれているかのようだ。 「……これ、どうすんだよ」  五色の声には諦めと、少しばかりの愉快さが混じっていた。始めは猫達に囲まれることに戸惑っていたが、今ではその温かさと柔らかさが心地よく感じられていた。 「大丈夫。帰る前にコロコロを貸してもらおうね」  そんな気楽な言葉に、五色は呆れながらも諦めの息をついた。猫達は相変わらずシャツの鳥に興味津々で、茶トラの猫は完全にリラックスした様子で彼の胸元に顔を埋めている。その重みと体温が、五色の緊張を徐々に解きほぐしていった。  静かに佇む猫の姿を見ながら、五色は不意に名前へと目を向けた。彼女は柔らかな微笑みを浮かべ、この光景を見守っている。その表情には、彼が普段見ることのできない感情が滲んでいるようだった。 「なあ、名前……」 「うん?」  五色は躊躇いながらも、心の奥にあった疑問を口にした。 「俺、別に鳥顔じゃねぇよな?」  不意にそんなことを聞いてしまう。シャツのデザインを弄られたのもあるが、雑貨屋のショーウィンドウで見た黄色い鳥のクッションのことが頭を過った。あれと似てるなんて、まさか冗談だろう。胸元で眠る猫を前にして、そんな取るに足らない心配を浮かべる自分が、少し可笑しくもあった。  しかし、名前はくすりと笑ってから、優しく答えた。その声音には、五色の心に直接響くような温かさがあった。 「ううん、そういうことじゃないよ。……工くんって、こういう風に、皆から愛される存在なんだと思ったの」 「は?」  意外な答えに、五色は目を丸くした。 「ほら、猫達もこんなに懐いている。わたしだけじゃなくて、小さな動物達も、工くんのことが好きみたい」  その言葉に、五色は声を失った。  猫達に囲まれ、じゃれ付かれながら、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。確かに最初は戸惑ったが、こうして彼らが警戒心を解いて甘えてくるのは、決して悪い気分ではない。寧ろ、彼らの無垢な信頼に、何か特別なものが心を過った。 「……まあ、嫌じゃねぇけどな」  照れくさそうに呟くと、名前が柔らかく微笑む。その笑顔に、五色は一瞬だけ息を飲んだ。 「ふふ、そういうところが、わたしの好きな工くんの個性だよ」  彼女のその言葉に、五色はまた別の意味で息を呑んだ。心臓がひどく騒がしい。熱い血が一気に頬へと上り、自分の顔が赤くなっているのを感じた。  胸元に乗った猫が小さく身動ぎする。その動きに我に返り、五色は慌てて視線を逸らした。だが、名前の言葉は彼の心に深く刻まれていた。  猫の日の今日、彼の胸元の黄色い鳥は、猫達だけでなく、彼の大切な人の目にも、特別な何かとして映っていたのかもしれない。思いがけない発見に、五色は静かな喜びを覚えた。
 カフェの扉を開けると、そこは別世界だった。温かな猫達の気配から一転、澄み切った冷たい空気が頬を撫でた。日が傾き始め、街灯が一つ二つと灯り始めている。  ふわもこ邸での時間が、思った以上に長引いていたことに、五色と名前はカフェを出る直前に初めて気づいた。猫達にじゃれ付かれ、遊びに夢中になっていた時間以外にも、人間用の食事スペースで、五色はチキンライスやフライドポテトを頬張り、名前は温かいココアやスープ付きの日替わりパンでお腹を満たした。ふわふわの毛並みを眺めながら、立派な本棚から漫画も手に取った。『にゃんこぱんち』の最新刊や『ふかふかチーの物語』のページを捲る内に、笑みが自然と零れ、猫達の気ままな動きに目を奪われていた。窓の外を見やると、ガラスに映る二人の影が長く伸びている。時計を確認すれば、予定より二時間近くが過ぎていた。  帰り道、ふわもこ邸を出た後も、五色は頻りにシャツに残った毛を払っていた。茶色や白、黒などの猫の毛が、黄色い鳥のプリントの上に絡み付いている。どれだけ払っても、完全に取れる気配はない。  名前はそんな彼を見ながら、くすくすと笑う。その笑い声は、夕暮れの街に馴染むように軽やかだった。 「まだ気にしているの?」 「そりゃ気にするだろ。借り物だし、こんなに毛だらけじゃ、帰ったら先輩達に絶対ツッコまれる」  五色は眉を顰めながらも、その表情には深刻さよりも、どこか楽しげな色があった。今日の出来事が、意外と悪くない想い出になりそうだと感じていた。 「ふふ、それなら……」  名前は不意に足を止めると、彼の胸元にそっと手を伸ばし、服に付いた毛を指で摘まんで取る。その指の動きは繊細で、五色のシャツを丁寧に整えていくようだった。 「え……」  思いがけない行動に、五色は一瞬だけ固まった。夕暮れの街角で、二人きりの空間が広がる。名前の指先が彼のシャツに触れる度に、その温もりが布地を通して伝わってくるようだった。 「こうやって、少しずつ取れば大丈夫。ほら、こっちを向いて」  彼女の指先が、ピアノの鍵盤を奏でるようにシャツの上を滑る度、五色の鼓動が跳ねる。心臓の音が耳に響き、自分の呼吸が荒くなっていくのを感じた。名前の髪から漂う微かな香りが、彼の思考を曇らせる。 「お、お前……そんな近くで……」  言葉が途切れる。目の前の彼女の存在が、余りにも鮮明すぎて、五色は正確に考えることができなくなっていた。 「ん? なぁに?」  無邪気な顔で覗き込まれ、五色は一気に顔が熱くなった。猫達に囲まれていた時とは違う意味で、彼は完全に身動きが取れなくなっていた。名前の指先が動く度に、彼の心臓も同じリズムで鼓動しているかのようだ。 「……なんでもねぇ」  そう言って、五色は目を逸らしながらも、名前の手元をじっと見つめていた。彼女の細い指が、丁寧に猫の毛を取り除いていく。その様子に、何故か胸が痛いほど温かくなる。  街灯の光が二人を優しく包み込み、遠くから帰宅を急ぐ人々の足音が聞こえてくる。五色は、猫の日という何の変哲もない日に、自分のシャツに付いた猫の毛を取ってくれる名前の姿を、一生忘れないだろうと思った。  それは、黄色い鳥のプリントと共に、彼の心に深く刻まれる風景だった。



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