ホワイトムスクと小さな箱 | Title:トキメク魔法

 じりじりと肌を焼くような初夏の陽射しも、夕刻が近づくにつれて幾分か和らぎ、体育館の床を叩くボールの音とチームメイトの掛け声が、心地良い疲労感と共に身体に染み込んでくる。今日の自主練も、牛島さんを意識した強烈なスパイクを何本も打ち込んだけれど、まだ納得のいく威力には程遠い。もっと、もっとだ。エースとして、あの人のように、どんな壁も打ち砕ける絶対的な力が欲しい。  部活が終わり、前髪を整えながら部室を出ると、校門の傍に見慣れた、けれど、何度見ても心臓が跳ねる姿があった。  苗字さんだ。  制服のブラウスに、白いサマーベストを着ている。夕焼けのオレンジ色の光が彼女の艶やかな髪を縁取り、まるで後光が差しているみたいに綺麗で、俺は思わず息を飲んだ。 「苗字さん、待たせた?」  駆け寄ると、彼女はゆっくりとこちらを向き、夜色の瞳で俺を捉えた。 「ううん、わたしも、今来たところだよ。お疲れ様、五色くん」  その声を聞くだけで、練習の疲れなんて吹き飛んでしまうのだから、我ながら単純だと思う。  二人で並んで歩き出す帰り道。他愛もない会話を交わしながらも、俺の頭の中は最近、別のことで一杯だった。  苗字さんの家で過ごす"添い寝フレンド"という名の、甘くて危険な夜。  そして、そこで見る、余りにも鮮明で生々しい夢の数々。  夢の中の苗字さんは大胆で、積極的で……現実の彼女からは想像もつかないくらい、俺を求めてくる。その度に、俺は現実でも理性のタガが外れそうになるのを必死で堪えている。先日の、あの……夢精事件以来、俺はもう気が気じゃなかった。 (もし、万が一……いや、万が一ってなんだよ! でも……もし、そういう雰囲気になったら……)  夢の中では、何度も一線を越えそうになっている。現実でも、いつ何が起こるか分からない。苗字さんは「触れるのは禁止」と言っていたけれど、あの蠱惑的な雰囲気で迫られたら、俺は耐えられる自信が、正直、ない。  だから、備えておかなければならない。男として、彼女を大切に思うなら。  商店街に差し掛かり、ドラッグストアの看板が見えてきた時、俺は意を決した。 「あ、あのさ、苗字さん! 俺、ちょっとここで買いたいものがあるから……先、帰ってくれる?」  できるだけ自然体を装ったつもりだったが、声が少し上擦った気がする。  苗字さんは不思議そうに小首を傾げた。 「買いたいもの? 一緒に行こうか?」 「いや! あの、その、男にしか分からないって言うか、そういうヤツだから! 大丈夫!」  自分で言っていて、墓穴を掘っている気がする。苗字さんの表情が、ほんの僅かに曇ったように見えたのは気のせいだろうか。 「……そう。分かった。じゃあ、また明日ね」  彼女はそれ以上、何も聞かず、小さく手を振って歩き去っていった。その背中を見送りながら、俺は安堵の息を吐くと同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。嘘をついたワケじゃないけれど、何か隠し事をしているみたいで、少しだけ罪悪感があった。  苗字さんの姿が見えなくなってから、俺は深呼吸を一つして、ドラッグストアの自動ドアを潜った。  店内は明るく、様々な商品が整然と並んでいる。目的のブツは……確か、衛生用品のコーナーだった筈だ。  足早にその一角へ向かうと、そこには色とりどりのパッケージが並んでいた。  ――コンドーム。  その単語を頭の中で反芻するだけで、顔から火が出そうになる。周りに他の客が居ないか、キョロキョロと確認してしまう。まるで悪いことをしているみたいだ。 (落ち着け、俺。これは、万が一の時の為の、大切な備えなんだ……!)  自分にそう言い聞かせながら、棚を食い入るように見つめる。種類が多過ぎて、どれを選べばいいのか全く分からない。薄いヤツ? 潤滑ゼリーが多いヤツ? それとも、何か特殊な形状のヤツ……?  考えれば考える程、頭が混乱してくる。パッケージのキャッチコピーがやけに扇情的に見えて、顔がどんどん熱くなっていくのが分かった。  結局、一番オーソドックスで、目立たないデザインのものを選んだ。手に取ったそれは、想像していたよりもずっと小さくて、軽かった。こんな薄っぺらいものが、本当に俺達を守ってくれるのだろうか。  それから、もう一つ。  苗字さんの家でシャワーを借りることも、最近は増えてきた。彼女の家の浴室はいつも清潔で、ふわりと甘い香りがする。寮で風呂に入ってから泊まりに行く日もあるし、俺も、少しでも良い匂いをさせたい。そう思って、ボディソープのコーナーへ向かった。  ここもまた、種類が豊富だ。爽やかなシトラス系、落ち着いたフローラル系、甘いフルーツ系……。  苗字さんは、どんな香りが好きなんだろうか。薔薇の刺繍のハンカチを持っていたから、薔薇の香りが良いだろうか? いや、それは余りにも直接的過ぎるかもしれない。  迷った末に、俺は微かに甘くて、でも爽やかさもある、ホワイトムスクの香りのものを選んだ。これなら、苗字さんも嫌な気持ちにはならない筈だ。  二つの商品を手に、そそくさとレジへ向かう。  レジの女性店員は、俺が差し出した商品を見ても特に表情を変えることなく、淡々と会計を済ませてくれた。それが逆に、俺の緊張を少しだけ和らげてくれた。  支払いを終えると、商品の詰まったビニール袋を片手に、俺は逃げるようにドラッグストアを後にした。  外に出ると、夕方の風が火照った顔に心地良い。  これで、明日の準備は出来た。  後は……このどうしようもない、先走る気持ちを、どうにかコントロールするだけだ。  それが一番難しいことだと知りながら、俺は白鳥沢学園の男子寮へと、少しだけ早足で帰宅した。胸の奥で、期待と不安が入り混じった、複雑な鼓動が鳴り響いていた。
 五色くんが「男にしか分からないもの」と言ってドラッグストアの前で別れた時、わたしの胸の内に小さな、けれど、無視できない好奇心の蕾が顔を出した。  男の人にしか分からないものって、一体、何だろう?  部活で使うテーピングとか、プロテインの類だろうか。でもそれなら、わたしが一緒に居ても問題ない筈だ。  もしかして、わたしに隠れて、何か別の……例えば、他の女の子へのプレゼントでも買いに来たのだろうか。  そう思った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。有り得ないとは思う。五色くんの真っ直ぐな瞳は、いつもわたしだけを捉えていると信じているから。  でも、ほんの少しだけ、確かめてみたくなったのだ。彼が一体、何を買うのかを。  これは、前に図書室で読んだ探偵小説の影響かもしれない。『事実は、時に小説よりも奇なり』という言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。  わたしは曲がり角を左折した後、少し時間を置いてから、何食わぬ顔で来た道を戻り、同じドラッグストアの自動ドアを潜った。  店内は思ったよりも広く、様々な商品が迷路のように並んでいる。五色くんの姿を探して、わたしはそっと通路を進んだ。彼の特徴的なアホ毛は、人混みの中でも見つけ易い。  あっ、居た。  彼は衛生用品が並ぶ棚の前で、何やら真剣な表情で商品を選んでいる。わたしは大きなシャンプーの陳列棚の陰に隠れ、息を潜めて彼の様子を窺った。  彼が手に取ったのは、小さな箱だった。薄くて、カラフルなパッケージ。  ――コンドーム。  その単語が脳裏を過った瞬間、わたしの顔にカッと熱が集まるのを感じた。心臓が早鐘を打っている。  五色くんが、あんなものを……。  それはつまり、わたしとの……その、先のことを、考えてくれているということなのだろうか。  夢の中では、もう何度も、わたし達は肌を重ねている。現実では「触れるのは禁止」というルールがあるけれど、あの夢の続きを、彼も望んでいるのかもしれない。  どきどきしながら見守っていると、彼は次にボディソープのコーナーへ移動した。そこでもまた、一つひとつ商品を手に取り、香りを確かめているかのように、真剣な眼差しで品定めしている。  最終的に彼が選んだのは、白いボトルの、優しい馨りがしそうなものだった。  わたしの為に、良い芳香のものを選んでくれたのだろうか。  そう思うと、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、甘酸っぱい気持ちになった。  五色くんは二つの品物を手に、少し緊張した面持ちでレジへと向かった。わたしは彼が店を出ていくのを、柱の陰からそっと見送った。  その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、わたしはその場を動けなかった。  顔が熱い。心臓が、まだドキドキと音を立てている。  五色くんの、わたしに対する真剣な想い。それが、あの小さな箱とボディソープに込められているような気がして、何だか堪らなく愛おしくなった。  不器用で、真っ直ぐで、そして、とても優しい人。  五色くんのそんな一面を知る度に、わたしはどんどん彼に惹かれていく。 (……トキメク魔法、かな)  ふと、そんな言葉が心に浮かんだ。  五色くんが掛けてくれた、甘くて、少しだけ刺激的な魔法。  わたしは知らず知らずの内に、その魔法の虜になってしまっているのかもしれない。  わたしも何か、彼が喜んでくれるようなものを買って帰ろうかな。  そう思い立ち、わたしはゆっくりと店内を歩き始めた。  先程までの小さな不安はどこかへ消え去り、胸の中は温かい期待で満たされている。  明日の夜、彼に会うのが、いつもよりずっと楽しみになっていた。  わたしのハンカチの薔薇が、ふわりと香り立つみたいに、甘やかな予感が胸いっぱいに広がっていく。  このドキドキする気持ちを、彼にどう伝えようか。  そのことを考えると、またちょっぴり心臓が騒がしくなるのだった。



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