綻び始めた理由を見逃した | Title:ジェラシー

 五色くんが部活を終えるのを待つ図書室の窓辺は、わたしのお気に入りの場所だった。分厚い専門書に囲まれた静寂の中、差し込む西日が床に長い影を落とし、埃さえも金色に煌めいて見える。ページを捲る音と、遠くグラウンドから微かに聞こえる掛け声だけが、この空間の穏やかなリズムを刻んでいた。  彼と「一緒に帰る」という約束をしてから、数日が過ぎた。最初はぎこちなかった会話も、次第に笑顔が増えて、少しずつだけれど、確実に距離が縮まっているのを感じる。それは、丁寧に育て始めた若木が、日毎に新しい葉を広げていくのを見守るような、静かで満ち足りた喜びだった。  あの日、わたしが落としたハンカチを、彼が拾ってくれた日から、世界はほんの少しだけ色鮮やかになった気がする。彼の真っ直ぐな瞳、不器用な優しさ、時折見せる少年のような笑顔。その全てが、わたしの心を温かく満たしていく。  この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。そう願わずにはいられなかった。
 昼休みが終わりに近づく予鈴のチャイムが、遠くに聞こえた。急いで教室に戻ろうと、いつもとは違うルートを選び、薄暗い階段の踊り場に差し掛かった時だった。  密やかな、それでいて、妙に楽しげな声が、わたしの足を止めさせた。 「ねえ、五色くんってさ、意外と可愛いとこあるよね」 「分かるー! あの、ハンカチ拾って、真っ赤な顔で『運命っぽい』とか言っちゃうとことか、一途っぽいよね?」  心臓が嫌な音を立てて軋んだ。  声の主は同じクラスの、普段、余り話したことのない女子生徒達だった。壁の向こう、踊り場の少し開けたスペースで、数人が顔を寄せ合って笑っている。 「あれ絶対、苗字さんに気があると思うけどさー。でも、ワンチャン狙うのアリじゃない?」 「だよね! ダメ元で連絡先とか交換しちゃおっかな?」  きゃっきゃ、と弾むような笑い声が、わたしの鼓膜を不快に刺激する。  全身の血が逆流するような感覚。指先が、じわりと冷たくなっていくのを感じた。  わたしと五色くんの、あのささやかな、けれど大切な出来事が、彼女達の口に掛かれば、まるで道端に転がる石ころみたいに、興味本位のゴシップネタに成り下がってしまう。  わたしの大事な"秘密"が土足で踏み荒らされているような、耐え難い不快感。  そして、何より――五色くんを手軽な獲物のように語るその軽薄さが許せなかった。 「五色くん、ああ見えて結構優しいし、私達のことだって気に掛けてくれるかもよ?」 「確かに、苗字さんって、ちょっと近寄り難い感じだしねー。私らみたいな方が、話し易いんじゃない?」  違う。  五色くんの優しさは、そんな打算的なものじゃない。彼の真っ直ぐさは、誰にでも分け与えられるような、安っぽいものじゃない筈だ。  けれど、彼女達の言葉はじわじわと、わたしの心に黒い染みを広げていく。  取られたくない。  誰にも、渡したくない。  その、今まで感じたことのない程の強烈な独占欲が、鋭い棘のように胸の奥へと突き刺さった。  わたしは息を殺し、彼女達が通り過ぎるのを待った。その間、心臓はずっと早鐘を打ち続け、嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。  その日の帰り道は、普段よりも空が低く感じられた。  部活を終えた五色くんは、いつものように「苗字さん、待たせた?」と太陽みたいな笑顔で駆け寄ってきたけれど、わたしの心は鉛のように重かった。  公園の入り口で、わたしは「少し、ここで休んでいってもいいかな」と、彼に告げた。雨上がりの公園は湿った土と若草の匂いがして、ベンチはまだ少し濡れていた。  五色くんは何も聞かず、「ああ」と頷いて、ブランコを囲う柵をタオルで拭うと、わたしをそこに座らせ、自分も隣に腰を下ろした。  わたしは無言で、スカートのポケットから、あの薔薇の刺繍のハンカチを取り出した。白い布地に鮮やかな赤。あの日、彼が「運命っぽい」と言ってくれた、大切なハンカチ。  けれど、今はこのハンカチを見つめていると、昼間の女子達の声が蘇ってきて、胸が苦しくなる。 「苗字さん、どうかした? 顔色、あんまり良くないみたいだけど」  心配そうにこちらを覗き込む五色くんの顔を、まともに見ることができない。彼のその真っ直ぐな優しさが、今は逆に、わたしを追い詰める。  彼はきっと、誰にでも優しいのだ。あの女子達が言っていたように。  わたしが彼を特別に想っているだけで、彼にとってのわたしは、大勢の中の一人に過ぎないのかもしれない。  「運命」なんて、ただの偶然で、わたしだけが舞い上がっていただけなのかもしれない。 「……ううん、なんでもないよ。少し、考え事をしていただけ」  そう答える声が、自分でも驚く程にか細く、震えているように聞こえた。  五色くんは「そっか」とだけ言って、それ以上は追求してこなかった。彼のそういう、無理に踏み込んでこないところは美点なのだろうけれど、今のわたしにとっては、距離を感じさせる一因となった。 (どうして、気づいてくれないの?) (わたしが、こんなに苦しんでいるのに)  そんな身勝手な感情が、心の奥で渦を巻く。 「今日の部活でさ、スパイク練を徹底的にやったんだけど、精度がめっちゃ安定してきて!」  五色くんはいつものように、バレーボールの話を生き生きと語り始めた。彼の言葉は、コートを跳ねるボールのように弾んでいる。  普段なら、その話に真剣に耳を傾け、時折、相槌を打つのだけれど、今日はどうしても集中できなかった。  彼の言葉が、まるで水面を滑るように、わたしの心に入ってこない。 (もし、あの子達が、五色くんに馴れ馴れしく話し掛けたら?) (もし、連絡先を交換して、楽しそうにメッセージを送り合っていたら?)  想像するだけで、胸の奥が焼け付くように痛む。  ハンカチを握り締める指先に、知らず知らずの内に力が籠もっていた。  五色くんは、わたしの異変に全く気づいていないようだった。  彼の世界はバレーボールと、目の前の目標と、そして……もしかしたら、ほんの少しだけ、わたしのことで満たされているのかもしれない。けれど、その"ほんの少し"が、余りにも心許なく思えてしまう。  このままでは、ダメだ。  この不安を、この黒い感情を、どうにかしなければ。  彼を、わたしの傍に繋ぎ止めておく方法を見つけなければ。  夕焼けが公園の木々を茜色に染めていた。その色は、わたしの心の中の嫉妬の色みたいに濃く、そして、どこか不穏な美しさを湛えている。  わたしは俯いたまま、ぎゅっと唇を噛み締めた。  いつか、この苦しい気持ちを、彼に伝えられる日が来るのだろうか。  それとも、伝える前に、わたしは何か、とんでもなく取り返しのつかないことをしてしまうのだろうか。  雨上がりの湿った風が、わたしの冷えた頬を撫でていった。  その風は、これから訪れるであろう、もっと複雑で、もっと切ない感情の予兆を運んでくるかのようだった。



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