路地裏エンカウント | 猫と彼女と、告白未遂。

 六月も下旬に差し掛かり、梅雨特有のじっとりとした空気が肌に纏わり付く季節。昼間は蒸し暑くても、日が落ちると幾分か過ごし易くなる。そんな日の部活終わり、俺は一人、寮への道を歩いていた。最近、苗字さんは時折、一緒に帰らない日がある。何か理由があるのかもしれないけれど、俺にはそれを聞く勇気がまだなかった。ただ、彼女が居ない帰り道はいつもより、少しだけ世界の色が褪せて見える。  自主練に熱が入り過ぎて、通常より帰りが遅くなってしまった。空は既に深い藍色に染まり、ぽつぽつと星が瞬き始めている。外灯が頼りなく道を照らす中、ふと、普段は余り通らない一本裏の路地から、微かな物音が聞こえた気がした。  好奇心と、ほんの少しの期待。もしかしたら、という淡い思いを胸に、俺はそっと路地を覗き込んだ。  そこに居たのは、紛れもなく苗字さんだった。  オレンジ色の灯りが、スポットライトのように彼女を照らし出している。ブラウスに紫色のチェックのスカートという制服姿は昼間と変わらない筈なのに、夜の闇と外灯の光が織り成すコントラストの中で、どこか幻想的な雰囲気を纏っていた。彼女はしなやかに屈み込み、その視線の先には、小さな黒い影が見えた。  近づいてみると、それは一匹の黒猫だった。まだ幼さが残る、小柄な猫だ。苗字さんはその猫に向かって、囁くように何かを話し掛けている。その声は、教室で聞く凛とした声とは違い、驚く程に柔らかく、慈愛に満ちていた。 「今晩は。また会えたね。今日は少し肌寒いから、暖かいところで眠るんだよ」  猫は警戒しながらも、苗字さんの差し出す指先の匂いを嗅いでいる。その仕草の一つひとつが、スローモーションのように、俺の目に焼き付いた。  いつもはミステリアスで、何を考えているのか分からない彼女が見せる、思いがけない一面。そのギャップが、俺の心臓を鷲掴みにする。どくん、と大きく脈打つ音が、自分でも聞こえるくらいだった。 (今なら、言えるかもしれない)  何の確証もなかった。ただ、この瞬間の彼女の柔らかい雰囲気と、夜の静けさが、俺の背中をそっと押しているような気がしたのだ。いつもは緊張で空回りしてしまうけれど、今なら、この溢れそうな想いを素直に伝えられるかもしれない。そんな、切実な希望が胸を満たした。  俺は無意識の内に一歩、また一歩と、彼女に近づいていた。  ザッ、ザッ、と俺の靴音が、静かな路地に響く。  その音に、苗字さんがはっと顔を上げた。  猫を驚かせないように、ゆっくりと。  そして、俺の姿を認めると、その夜色の瞳が、ほんの少しだけ驚いたように見開かれた。 「……五色くん?」  外灯の光が反射して、彼女の瞳がきらりと揺れる。その深い色合いは、静かな夜の海。吸い込まれそうになるのを、必死で堪える。 「あ、あの、苗字さん……その、今晩は」  情けない。またしても、声が上擦ってしまった。練習試合でサーブをミスした時みたいに、自己嫌悪に陥りそうだ。  苗字さんは小さく頷き、それから足元の猫に視線を戻した。 「この子、時々、ここで会うんだ。まだ人に慣れていないみたいだけれど」  その声は矢張り、普段よりもずっと穏やかで、どこか親密な響きを帯びているように感じられた。 (やっぱり、今しかない)  俺は逸る心臓を落ち着かせるように、一度、大きく深呼吸をした。そして、震える声で、けれど、真っ直ぐに彼女を見つめて、言葉を紡ごうとした。 「苗字さん、俺、あのっ――」  そこまで言い掛けた瞬間だった。  路地の奥から、カツン、カツン、と聞き慣れない足音が近づいてくるのが聞こえた。それは明らかに、俺達のものではない、誰か別の人物の足音。  苗字さんの表情が、微かに強張ったのが分かった。彼女は素早く立ち上がり、俺と足音のする方角を交互に見る。その瞳には、先程までの穏やかさは消え、警戒の色が浮かんでいた。 「五色くん、今日はもう帰った方がいいよ。わたしも、もう行くから」  早口でそう言うと、苗字さんは黒猫に「またね」と小さな声で告げ、足早に路地の出口へと向かおうとした。その背中は、どこか焦っているようにも見える。 「え、あ、でも――」  俺は突然の展開に戸惑い、引き止めようとしたけれど、苗字さんの真剣な眼差しに気圧されて、言葉が続かなかった。何か、俺が踏み込んではいけない領域に触れてしまったような、そんな気まずさを感じた。 「ごめんね、また明日」  そう言い残し、苗字さんはあっと言う間に路地の闇に消えていった。まるで、幻だったかのように。  後に残されたのは、呆然と立ち尽くす俺と、立ち去ろうとする黒猫、そして、言い出せなかった告白の言葉だけだった。  外灯の光が、やけに寂しく感じられる。  あの時、もし邪魔が入らなかったら、俺は想いを伝えられていたのだろうか。そして、彼女はどんな顔で、それを受け止めてくれたのだろうか。 (……ダメだ、俺はやっぱり、タイミングが悪い)  コートの上では、相手のブロックの僅かな隙間を見つけるのが得意な筈なのに、こと恋愛に関しては、致命的なまでに不器用で、空回りばかりだ。  俺は重い溜め息を一つ吐いて、再び、とぼとぼと寮への道を歩き始めた。胸の中には、未遂に終わった告白のほろ苦さと、苗字さんの謎めいた行動に対する小さな疑問が、もやもやと渦巻いていた。  この数日後に、あの"ソフレの提案"が待っているなんて、この時の俺はまだ、知る由もなかった。ただ、彼女のことがもっと知りたい、もっと近づきたいという気持ちだけが、雨上がりの紫陽花のように、俺の心の中で鮮やかに色づき始めていた。



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