星屑リグレット | Title:切ない恋心

 気づいたのは、昼休みの終わりを告げる予鈴が、教室の気怠い空気を微かに震わせた、その時だった。  パタン、と硬質な音がした。  それはただ本が閉じられただけの音の筈なのに、やけに鋭い輪郭を持って、俺の鼓膜を打った。まるで薄いガラスに罅が入る瞬間の、あの不吉な音に似ていた。  反射的に視線を向けると、彼女――苗字名前が窓際の自分の席で、静かに俯いていた。  梅雨の晴れ間の光が、彼女の艶やかな髪に淡い輪郭を与え、その直ぐ傍で埃がきらきらと、無数の小さな星屑のように舞っている。けれど、その光さえも、彼女の周りにだけは届いていないかのように、小さな影が落ちていた。  顔が見えない。  だけど、何かを必死に堪えているような、そんな気配だけが痛い程に伝わってきた。肩がほんの僅かに震えているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。 (……あれ?)  胸の奥が、誰かに冷たい手でぎゅっと掴まれたみたいに、きりりと痛んだ。理由には、すぐに思い至る。さっき、俺が――笑っていたからだ。他の女子生徒と。  苗字さんの目に、今の俺がどう映ったかなんて、分かり過ぎるくらいに分かる。  でも、それは致命的な誤解だった。  正しくは、俺は"笑っていた"んじゃない。"笑われていた"んだ。いや、もっと正確に言うなら、"揶揄われていた"だけなのだ。 「ねえ、五色くんってさ、苗字さんのこと、好きでしょ?」  昼休み、食堂から戻ってきて、すぐのことだった。教室の出入り口付近で、前の席の女子に呼び止められ、開口一番、そんな爆弾を投下された。口に含んでいた食後のお茶が、有り得ない角度で気管に入り掛け、盛大に咽せそうになった俺に、彼女は悪戯っぽく笑いながら、更に身を乗り出したのだ。 「いやー、もう分かり易いって言うか。隣の席の子も言ってたよ。視線がね、ぜーんぶ、そっちに行ってるって」  ぐわん、と頭が揺れた。全身の血液が沸騰して、一気に顔に集まるのが分かった。もう熱くて、どうしようもなかった。  そうだ、俺は笑った。でも、それは喜びや楽しさから来るものじゃない。ただ、この羞恥と動揺をどうにか誤魔化す為の、引き攣った、情けない笑顔だった。内心は台風が直撃した後のグラウンドみたいに、ぐっちゃぐちゃだったというのに。 (マジか……皆に気づかれてんのか……)  でも、バレていたって何の不思議もない。俺自身が一番よく分かっている。  席が近い所為で、どうしても目で追ってしまうのだ。ペンケースを開ける時の、僅かに躊躇うような指先の仕草。前髪を耳に掛けるタイミング。文庫本にブックカバーを付けてくる日と、付けてこない日の、その法則性のなさ。俺は、苗字さんの人差し指の爪が、他の指よりほんの少しだけ丸みを帯びていることまで憶えてしまっている。  その全てが、俺だけの秘密の宝物だった。誰にも言えなくて、言うつもりもなくて――せめて、彼女の隣に居られるこの奇跡のような時間を失わないように、「ソフレ」という奇妙な関係に甘んじようと、そう決めた筈なのに。 (……俺は、欲張ってる)  触れたい、と思ってしまう。  彼女が「好き」と言ってくれた、あの夜。俺は何度も拳を握り締め、結局、その言葉の本当の意味を問うことができなかった。  けれど、今日――気づいてしまった。  苗字さんが寂しそうに俯いた、あの瞬間。  伏せられた長い睫毛。固く結ばれたに違いない薄桃色の唇。  それが紛れもなく、俺の所為でそうなっていることが、鋭い痛みを伴って全身を貫いた。 (……俺が、苗字さんを、泣かせてる)  ふと衝動的に、彼女の名前を呼びたくなった。  ――苗字さん、じゃなくて、「名前」と。  けれど、声にならない。喉の奥で言葉がつっかえて、出てこない。  今の俺には、その資格がない気がして。  俺は何気ない振りをして、その場を離れた。けれど、一歩踏み出す度に、心臓が大きく軋む音がする。気持ちはきっと、もう隠し切れていなかったと思う。 「苗字さん」  彼女の席まで歩み寄り、声を掛ける。 「なんか、元気なかったから。……具合、悪い?」  問い掛けると、苗字さんは一瞬、戸惑ったように俺を見上げた。その夜色の瞳が、僅かに揺れている。 「……違うよ」  その掠れた声に、ほんの少しだけ安堵したけれど、すぐに胸の騒めきは大きくなった。違う、と言っていても、その表情は少しも"平気"ではなかったから。  俺は黙って、彼女の机の端に、そっと寄り掛かるようにして腰を下ろした。他のクラスメイトの視線を避けるように、些か声量を落とす。 「苗字さんが他の男子と話してたら、俺、嫌だなって感じると思う」  言ってから、心臓が喉元まで跳ね上がった。どうして、こんな言葉が飛び出したんだろう。頭の中が真っ白になる。でも、これが、俺の偽らざる本音だった。 「……理由は、言えない。けど、嫌なんだよ。俺以外と話して笑ってたら。……その分、俺にはもっと笑っててほしいのにって、思う」  それは、ずっと、ずっと心の奥底で燻っていた想いだった。  でも、口にしてしまえば、この硝子細工のように脆い関係が、粉々に壊れてしまうかもしれない。  それでも、黙っていたら、苗字さんはずっと分からないままだ。俺の変わらない、本当の気持ちも、そして、彼女が抱えているであろう、その痛みの理由も。  他の誰かに、あの花が綻ぶような笑顔を向けてしまうかもしれない。  ――もう、我慢したくなかった。 「……じゃあ、わたしのこと、独り占めにしたい?」  苗字さんの声が、鼓膜を震わせた。  ふざけているように聞こえたけれど、その声は僅かに震えていて、きっと彼女も、本気で問うているのだと分かった。  胸が一瞬で、熱いもので満たされた。 「……したいよ。ずっと、そう思ってる」  頬がどれだけ熱くなろうと、もう目を逸らさなかった。  苗字さんは、俺を見ていた。真っ直ぐに。  その深い瞳に、俺の臆病な心も、制御できない欲望も、全てが見透かされている気がしたけれど、不思議と怖くはなかった。  彼女の唇が、俺の名前を呼んだ。 「……五色くん」  その白魚のような手が、そっとこちらに伸びてきて、俺の腕に触れる寸前で、ぴたりと止まった。  そうだ。彼女自身が決めたルール。  誰よりも近くて、誰よりも遠い。それが、俺達の"今"の形。  その触れられない指先が、どうしようもなく愛おしくて、切なかった。 「……ねぇ、夜になったら、話をしよう?」  苗字さんのその言葉が、未来へのささやかな、確かな約束のように聞こえた。 「……うん」  俺は頷いていた。それ以外の返事なんて、考えられなかった。  苗字さんの瞳に安堵と、ほんの少しの期待の色が揺らめいたのを、俺は見逃さなかった。  昼休みの終わりを告げる本鈴が、教室に鳴り響く。  夜が来るのが、こんなにも待ち遠しいのは生まれて初めてだった。  この切ない恋心が、今夜、どんな色に変わるのか。  その答えを求めて、俺の心臓はもう走り出していた。



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