抱けない夜に咲く声

 昼休みの終わりを告げる本鈴が鳴り響いた時、俺は試合終了のホイッスルを耳にした敗者のように、その場に立ち尽くしていた。苗字さんが、俺の言葉に頷いてくれた安堵と、夜に交わされるであろう会話への期待が、胸の中で嵐のように渦巻いていた。けれど、それと同時に、彼女の瞳の奥に揺らめいていた、あの硝子細工のような脆い光を、俺は見逃さなかった。俺の軽率な行動が、彼女の心を曇らせてしまった。その事実は練習で打ち損じたスパイクよりもずっと重く、俺の肩に圧し掛かっていた。  放課後の体育館に響き渡るボールの音と、チームメイトの掛け声が、やけに遠くに聞こえた。最高のトスが上がる。いつもなら、相手コートのど真ん中にボールが突き刺さる鮮明なイメージが、網膜に焼き付くように浮かぶ筈だ。けれど、跳躍の頂点で視界の端に映ったのは、相手ブロッカーの指先ではなく、昼間の教室で俯いていた苗字さんの儚げな横顔だった。パタン、と本を閉じたあの乾いた音、固く結ばれていたに違いない薄桃色の唇、僅かに震えていた肩――その幻影がコンマ数秒、俺の集中を奪った。  叩き付けたボールはいつもの鋭さを欠き、意志を失ったかのようにあっさりと相手ブロックに吸い込まれた。「何やってんだ、工!」という鷲匠監督の鋭い声が背中に突き刺さる。「すんません!」と声を張り上げながらも、俺の心はとっくに体育館を抜け出し、教室で俯いていた彼女の元へと飛んでいってしまっていた。 「夜になったら、話をしよう?」  彼女のその言葉が、練習着に染み込んだ汗よりもずっと重く、俺の身体に纏わり付いて離れなかった。  寮で汗を流し、着替えを済ませ、いつものように彼女の待つマンションへと向かう。夕暮れの空は、俺の心の中を映したかのように、期待の茜色と不安の藍色が複雑に混じり合っていた。  苗字さんの家に着くと、いつもと変わらない、穏やかで静かな時間が流れていた。彼女が淹れてくれたハーブティーの柔らかな香りが、緊張で強張っていた俺の心を少しだけ解きほぐしてくれる。けれど、リビングのソファに並んで座る彼女の横顔は、いつもより僅かに青白く、その瞳には昼間の光とは違う、疲労の色が滲んでいるように見えた。 「苗字さん、やっぱり、具合悪いんじゃないか?」  俺がそう切り出すと、彼女は一瞬、驚いたように肩を揺らし、それから力なく微笑んだ。 「……ごめんね、五色くん。昼間から、少しだけ……頭がふらふらするみたいで。楽しみにしていたのに、本当にごめん。今日の話は、また今度にしてもいいかな」  申し訳なさそうに眉を下げ、そう告げる彼女の姿に、胸が締め付けられるように痛んだ。昼間の出来事が、彼女の心だけじゃなく、身体にまで影響を及ぼしてしまったのだと、直感的に悟った。俺の所為だ。俺が、彼女をこんな風にさせてしまった。 「当たり前だろ! 無理すんなよ。話なんて、いつでもできるんだから」  できるだけ明るく、気丈に振る舞った。話が流れてしまったことへの微かな落胆よりも、今はただ、彼女にゆっくりと休んでほしいという気持ちが、何倍も強く胸を占めていた。  その夜、俺達は言葉少なに、彼女の部屋のダブルベッドへと向かった。  電気を消した部屋は、天井のシーリングライトの輪郭すら見えなくなるレベルで暗く、しん、と静まり返っていた。ただ、隣に横たわる苗字さんの存在だけが、俺の意識の全てを支配していた。エアコンの作動音さえもが遠くに聞こえる程の静寂の中、ぴたりと寄り添う肩と肩から伝わる、彼女の微かな温もり。けれど、それ以上は"しない"と、心の中で固く誓った夜だった。彼女が安心して眠れるように、俺はただの壁になろう。そう決めたんだ。  彼女は直ぐに眠りに落ちたようだった。規則正しい、けれど、いつもより少しだけ浅い寝息が聞こえる。俺はその寝息のリズムに耳を澄ませながら、昼間の自分の軽率さと、彼女の硝子のような繊細さを想い、どうしようもない後悔と、それ以上に込み上げてくる愛しさに、そっと目を閉じた。  どれくらいの時間が経っただろうか。俺の意識も、夜の深い静寂に溶けるように、ゆっくりと沈み始めていた。その、微睡みの淵で。 「……工……くん……好き……」  小さく掠れた、吐息のような声。  それは耳元で漏れた、彼女の寝言だった。  鼓膜に触れた瞬間、心臓が内側から破裂するんじゃないかと思うくらいの衝撃が、全身を貫いた。  ――今、なんて?  思考が停止する。時間が止まる。世界から音が消えた。  名前を呼ばれた。初めて、あの苗字さんの声で、俺の名前が、そんな風に。工、と。  余りに不意打ちで、咄嗟に息を殺した。全身の血液が沸騰し、逆流するような熱い感覚。喜びと、興奮と、信じられないという混乱が、ぐちゃぐちゃになって頭の中を駆け巡る。寝た振りなんて、できるワケがない。ただ、どうしようもなくて――。  触れたい。  このまま、この華奢な身体を腕の中に閉じ込めて、抱き締めてしまいたい。彼女の髪の匂いを吸い込んで、その唇に、俺の想いを全部、ぶつけてしまいたい。  そんな、抗い難い衝動に突き動かされるように、俺の腕が勝手に動き掛けた。  その刹那。 「……駄目、だよ」  不意に、苗字さんの瞼が開き、闇の中でぼんやりと瞳が光った。カーテンの隙間から差し込む、外灯の微かな明かりが、潤んだ双眸の表面に反射して、星屑のようにきらりと揺らめいたのだ。  寝ていなかったのか、それとも、自分の寝言に気づいて目を覚ましたのか。どちらでもよかった。ただその目が、俺の抑え切れない欲望を全て見透かしたように、俺を静かに捉えていた。 「苗字さん……俺……」  言い掛けた言葉は、喉の奥で音にならずに砕けた。  あの瞳が真っ直ぐに、俺を見るからだ。温かくて、でも、どうしようもなく切なくて、全てを許してくれるようでいて、けれど、決して越えられない一線を引かれているようでもあって。 「……でも、ずっとこうしていたいと思ったのは、五色くんが初めてだった」  その声はさっきの寝言より、ずっとはっきりしていて、でも、僅かに震えていた。  そうして、彼女はまたゆっくりと目を閉じた。それが、今の彼女に言える精一杯の言葉なのだと告げるかのように。  それ以上、俺は動けなかった。  触れたら、きっと何かが決定的に壊れてしまう。この奇跡のような均衡が、粉々に砕け散ってしまう。それが、彼女が作った"ルール"だからじゃない。俺の中にある理性の最後の砦が、限界を超えて暴走してしまうのが、怖かった。  どれくらい、そうしていたんだろう。  結局、俺は一睡もできないまま、夜が明けるのを待った。彼女の背中越しに見える窓の向こう、空がほんのりと青白く色づいていくのを、ただぼんやりと眺めていた。  やがて、隣から再び静かな寝息が聞こえ始める。あどけない寝顔は、今日までの出来事が幻だったかのように無垢で、俺の心を締め付けた。  ――名前を呼ばれるって、こんなにも苦しいんだな。  焦がれるような痛みと、どうしようもない程の愛しさ。  彼女が言ってくれた。「俺が初めてだった」と。  それだけで、胸の奥に確かな温もりが、消えることのない熾火のように残った。  まだ、俺の口から、三度目の「好き」は言えない。  でも、「好き」と言われた。  この夜を境に、もう後戻りはできない。俺達の関係は静かに、でも、確実に変わってしまった。  触れられないのに、心の一番柔らかくて深い場所に、確かに触れられた気がした。  そんな、夜だった。



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