咽た理由を知っている | Title:先走る気持ち

 やけに賑やかな喧噪が、昼休みの食堂を満たしていた。昨日までのテストという名の重圧から解き放たれた魂達が一斉に羽ばたき始めたような、そんな浮ついた熱気。或いは窓の外で淡い陽光を浴びて輝き始めた並木道が告げる、季節の変わり目の微熱が、生徒達の心を漫ろにさせているのかもしれない。どちらにせよ、この騒めきは、俺の胸の高鳴りを隠してくれるには丁度いい塩梅だった。  俺はトレイを手に、漸く空いた窓際の席へと歩を進めた。メニューは日替わりの鯖の味噌煮と、ほかほかの白米。そして、喉を潤す為の、いつもの牛乳。それから――ふと、あの子の姿を思い浮かべ、無意識に手が伸びていたグリーンサラダ。苗字さんがよく好んで選ぶそれを、俺もトレイに載せていた。ささやかな共通点を見つける度、秘密の暗号を解読したかのように、胸の奥がくすぐったく嬉しくなるのだから、我ながら単純だ。  席に着き、何気なく視線を巡らせたその瞬間、窓際の一角に座る彼女――苗字名前の姿が鮮やかに目に飛び込んできた。  今日は制服のブラウスの上に、上品なペールグレーのベストを羽織っている。春の柔らかな陽光が、彼女の肩のラインを淡く縁取り、ほんの僅かに透けた布地の下の繊細な曲線が、何故だか妙に生々しく感じられて、ごくりと喉が鳴った。コート上で相手ブロックの僅かな隙間を見つけた時のような、鋭い集中力が網膜を支配する。  だが、俺の視線を釘付けにしたのは、その下だった。彼女の手元。  食事を終えたのだろう、彼女がスカートのポケットから取り出したのは、雪のように白い地に、真紅の薔薇が一輪、凛と刺繍されたハンカチだった。彼女の清らかさの中に秘められた情熱を象徴するかのように、その薔薇は鮮烈な印象を放っていた。  彼女は静かに、そっと丁寧に――神聖な儀式を執り行うかのように、指先を拭っていた。白魚のような指が、薔薇の刺繍の上を滑る。  拭い終わると、彼女はほんの少しだけ指先を合わせ、そっと目を伏せた。長い睫毛が白い頬に影を落とし、その一連の仕草が余りにも美しく、静謐で、触れ難い程に優雅で。  一瞬、食堂の喧噪が遠退き、時間が止まったような錯覚に陥った。彼女の周りだけ、別の空気が流れているかのようだ。  気づけば、俺は手に持っていた牛乳パックを掴み――何故か、一気に煽っていた。  あの静謐な美しさに圧倒され、自分の内側で暴れ出す何かを鎮めたかったのか。それとも、触れることすら叶わぬ孤高なまでの静けさに対し、せめてもの抵抗として、荒々しく何かを飲み干すという行為で、自分の存在を主張したかったのか。いや、もしかしたら、あの薔薇の刺繍のように鮮烈な彼女の印象を、自分の内に焼き付けようとする、無意識の渇望だったのかもしれない。思春期特有の、自分でも制御し切れない衝動が喉の奥を熱くさせる。  だが、そんなことで冷静になれる筈もなかった。 「っ……ごほっ、ごほっ! げほっ!」  盛大に咽た。喉に突っ掛かった白い液体が、意志を持ったかのように逆流し、鼻の奥までツンとした冷たさが突き抜ける。涙目で激しく咳き込むと、隣の席のクラスメイトが慌てて、俺の背中をバンバンと叩いた。数人の生徒が何事かとこちらを振り返る中、最悪なことに――苗字さんも顔を上げた。  その夜の海を思わせる、深くて感情の読み取れない双眸が、真っ直ぐにこちらを向いている。俺に。 「あ……っ」  目が合った。  ただそれだけのことなのに、心臓が体育館のフロアに叩き付けられたボールのように、爆音を立てて鳴り響いた。全身の血液が沸騰し、顔に集まってくるのが分かる。  俺は情けない咳き込みの余韻を引き摺りながら、声にならない声で「だ、大丈夫だ」と掠れた音を絞り出し、無理矢理、笑顔を作ってみせた。  しかし、それはきっと見事に引き攣った、無様な表情だったのだろう。苗字さんの細い眉が、ほんの僅かに、困ったように寄せられたのが見えたから。ああ、また空回りだ。キレキレのストレートを打つ時のように、もっとスマートに振る舞いたいのに、現実はいつもこうだ。  食事を始めてからも、暫くは自分の鼓動の煩さと、喉の奥に残るヒリヒリとした痛み、そして、彼女のあの美しい仕草の余韻が、頭の中でぐるぐると渦巻いていた。  優雅で、上品で、どこまでも遠い存在。どんなに手を伸ばしても届かない、コートの向こう側に居る絶対王者のような。  でも、それでも、俺は目で追ってしまう。触れたいと、もっと近くでその存在を感じたいと、愚直なまでに願ってしまう。  昼休みの喧噪の中、一人だけスポットライトを浴びるように存在していた、あの薔薇の刺繍のハンカチ。それは、彼女の清らかで謎めいた一部そのもののように思えて、どうしても目を逸らすことができなかった。  そして、俺は今日もまた、この制御不能な程に先走る気持ちに咽せながら、彼女のことを好きで居続けている。この想いが、いつかスーパーストレートのように、彼女の心に届く日は来るのだろうか。
 昼休みの食堂は、いつもより、ほんの少しだけ騒がしい。  そのざわつきの理由をもし誰かに問われたなら、「テスト明けの解放感の所為かな」と、当たり障りのない言葉で答えるだろうけれど、本当のところは分からない。そういう、言葉では明確に捉えられない"気配"のようなものが、この世界には沢山漂っているのだと、わたしは思っている。それは、楽譜には記されない演奏者の息遣いや、絵画の筆致に込められた画家の魂の揺らぎのようなものだ。  窓際の席に一人で腰を下ろし、簡単に昼食を済ませたわたしは、スカートのポケットからいつものハンカチを取り出した。  白地に薔薇の刺繍が施されたそれは、母が選んでくれたもので、触れる度に微かに甘く、どこか懐かしいローズの香りがする。  昼食の後、このハンカチで丁寧に手を拭うのは、わたしなりの小さな、けれど、大切な習慣だった。  清潔であること。静かであること。そして、余計な音を立てないこと。  それらを、呼吸をするように自然と行えるようになったのは、幼い頃に病弱だったわたしを気遣い、あらゆることに心を配ってくれた母のお陰だと思う。  指先を揃えて優しく拭い、ほんの少し目を伏せる。  手元の小さな薔薇の刺繍に意識を集中させていた、その時だった。不意に直ぐ近くから、強烈な咳き込みの音が鼓膜を打った。 「ごほっ、ごほっ……! げほっ!」  驚いて顔を上げた先に居たのは、彼だった。  五色工くん。  バレー部で、すらりとした長身で、いつも何事にも一生懸命で、太陽のように真っ直ぐで、少しだけ、良い意味で目立っている人。  寧ろ――そう、いつの頃からか、教室でも、廊下でも、この喧騒に満ちた食堂でさえ、ふと顔を上げると、彼の真っ直ぐな背中が、或いは真剣な眼差しが、わたしの視界の隅に、定点観測の対象のように、いつもそこにあった。  彼は牛乳のパックを片手に喉を抑え、それはもう大層苦しそうに咳き込んでいて、隣の席のクラスメイトが慌てた様子で、彼の背中を摩っていた。  白い液体が、喉の奥で激しく暴れた痕跡のように、彼の口元を濡らしている。  わたしの目が無意識にそれを追ってしまったのは、多分、彼がわたしの視界の、正にそのど真ん中で、何かとても印象的な"こと"をしていたからだと思う。静寂を破る、鮮烈な出来事。  そして、彼もまたこちらを見て――目が合った。  ほんの、数秒の間。  彼は顔を真っ赤にしながら、何かを言おうとしたけれど、それは上手く声になっていなかった。  代わりに酷く引き攣ったような、でも、どこか必死さが滲む笑顔を見せた。その表情が余りにも不器用で、痛々しい程に一生懸命で、どうしようもなく――愛しい、と感じてしまった。  わたしの胸の内側が、ちく、とした。  ほんの少しだけ痛みを伴うような、けれど、決して嫌ではない、初めて覚える種類の微かな疼きだった。  ……ねえ、五色くん。  わたし、本当はずっと前から気づいているんだよ。  五色くんが、わたしのことをいつも真っ直ぐな、射抜くような眼差しで見てくれていること。  廊下ですれ違うほんの数秒前、君がふと息を飲み、黙り込んでしまうこと。  わたしに何か話し掛けようとして、結局、言葉にできずに立ち尽くしていた日が、この一ヶ月程度で少なくとも三回はあったこと。  そして、今、わたしがこの薔薇のハンカチで手を拭ったその瞬間に、五色くんが牛乳で盛大に咽ていた、その本当の理由も。  多分、わたしなんかが想像するよりも、ずっと、ずっと深く、純粋で真っ直ぐな気持ちを、わたしに向けてくれているのだろう。  それを思うと、また胸の奥が少しだけ痛む。  だって、わたしはきっと――  五色くんのことを、庇護欲にも似た、けれど、それだけでは説明できない程、どうしようもなく"可愛い"と感じてしまっている自分に気づいてしまったから。  牛乳で咽て、顔を真っ赤にしている五色くんの姿を思い出す度、思わず笑みが零れそうになる。  でも、その笑いは、決して嘲りや揶揄なんかではなくて、胸の奥がほんのりと温かくなるような、優しい余韻を伴うものだ。  だから、わたしも、少しだけ先走ってみようかな、なんて考えている。  今度、このハンカチを態と落としてみよう。  そう、敢えて。五色くんの直ぐ近くで。  その時、もし、五色くんがそれを拾ってくれたなら――初めて、名前を呼んでみようか。  「ありがとう、五色くん」って。  いつもより、ほんの少しだけ柔らかい声色で。  そんな甘やかな予感に、先程までの喧騒が嘘のように、食堂の空気がふっと優しい香りに包まれたような気がした。まるで、わたしのハンカチの薔薇が、本当に香り立ったみたいに。



Back | Book | Next