桃色の煩悩警報 | Title:あなただけ欲しい
『今夜こそ、彼女の隣で穏やかな夜を過ごせることを切に願っていた。そう、ただ只管に願っていたんだ』――なんて、数時間前の俺は、随分と甘っちょろいことを考えていたもんだ。
現実は、そんな生易しいものじゃなかった。
いや、もしかしたら、心の奥底では、どこかでこうなることを期待していたのかもしれない。
そうじゃなきゃ、こんな、心臓が破裂しそうな状況、耐えられるワケがない。
苗字さんの部屋の、あの清潔で、微かに甘い香りがするベッドの上。
俺はまたしても、爆弾処理班も真っ青になるくらいの緊張感の中で、
苗字さんの隣に横たわっていた。
約二時間前、寮の自室で敢行した『先手必勝! 溜め込み厳禁! 俺の純情、大放出スペシャル! その後の清め!』作戦は、一応、成功した……筈だった。
お陰で、今夜は今のところ、あの鮮烈過ぎる夢を見ていない。
でも、それが逆に、現実の彼女の存在をより一層、生々しく感じさせてしまう結果になっている。
「……五色くん、眠れないの?」
静寂を破ったのは、
苗字さんの鈴を振るような声だった。
その声は、すぐ耳元で囁かれているみたいに近く、俺の鼓膜を優しく震わせた。
「えっ!? あ、いや、そんなことは……ちょっと、明日の練習メニューの事とか考えてただけ、だよ!」
またしても、声が裏返る。何度繰り返せば学習するんだ、俺の喉は。
隣で、
苗字さんがくすりと笑う気配がした。その笑い声がまた、俺の心臓を鷲掴みにする。
「ふふ、そう。わたしも、今日は目が冴えてしまって」
そう言って、
苗字さんがゆっくりとこちらを向いた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、彼女の肌を青白く照らし出し、その瞳は深い夜の海のように、俺の全てを吸い込んでしまいそうな程に静かで、それでいて強い引力を持っていた。
シルクの寝間着がシーツと擦れる、微かな音。彼女から漂う、清潔で甘い石鹸の香りが、俺の鼻腔を擽り、理性を少しずつ麻痺させていく。
「ねぇ、五色くん」
「は、はいっ!」
思わず、返事が軍隊みたいになってしまった。
苗字さんは、そんな俺の様子を面白がるかのように、悪戯っぽい光を瞳に宿らせて、言葉を続けた。
「ベッドサイドにね、可愛いものを置いてみたんだ。昨日、買ったから」
そう言って、彼女が指差した先には、小さな、パステルピンクのチューブが置かれていた。
なんだろう、ハンドクリームか何かだろうか。
でも、
苗字さんの指し示す仕草が、やけに意味深に見えて、俺の胸は嫌な予感……いや、期待? で、ドクンと大きく脈打った。
「……これ?」
俺は恐る恐る手を伸ばし、その小さなチューブを手に取った。
ふわりと、甘いピーチの芳香が鼻を掠める。
可愛らしいデザインのそれは、一見すると化粧品か何かのように見える。
でも、俺の第六感が、これはただの化粧品ではないと警告していた。
チューブの裏側には、小さな文字で何やら説明書きがびっしりと書かれている。
好奇心と、ほんの少しの緊張感に駆られながら、俺はその文字列に目を走らせた。
そして――
「――っ!?」
俺は息を飲んだ。
そこに書かれていたのは、俺の乏しい知識でも理解できる、衝撃的な単語の羅列。
『潤滑』『摩擦』『より滑らかに』『心地好い』……。
これは、ま、まさか……。
「……
苗字さん、これって……」
声が震える。顔が、耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。
苗字さんは、そんな俺の反応を待っていたかのように、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、いつもよりずっと大人びていて、どこか蠱惑的な色を帯びているように見えた。
「うん。使ってみる?」
その言葉は、まるで悪魔の囁きだった。
俺の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
もう、ダメだ。我慢できない。
寮で済ませてきた筈の"処理"なんて、この状況の前では焼け石に水、いや、砂漠に一滴の雫にも等しい。
俺の中に眠っていた本能が、野生の獣のように牙を剥き、暴れ出しそうになっている。
「……
苗字さん、本当に、いいの?」
掠れた声でそう問うと、彼女はこくりと小さく頷き、その潤んだ瞳で、俺を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳の奥には、期待と、ほんの少しの不安と、そして、俺への絶対的な信頼が揺らめいているように見えた。
もう、言葉は要らなかった。
苗字さんの細い肩をそっと抱き寄せようと、手を伸ばし掛けた、次の瞬間。華奢な手が、俺の手の甲に重ねられた。ひんやりとした指先の感触。そして、彼女の顔がゆっくりと近づき、その潤んだ双眸が、俺の瞳を至近距離で捉える。甘いピーチの香りと、彼女自身の清潔な香りが混ざり合い、俺の思考を完全に停止させた。
唇が触れ合う、寸前――
ピピピピッ、ピピピピッ!
けたたましい電子音が、部屋の静寂を無慈悲に切り裂いた。
その音は、試合終了を告げるホイッスルのように、俺の意識を現実へと強引に引き戻した。
「……ん……」
隣から、
苗字さんの小さな寝息混じりの声が聞こえた。
俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、恐る恐る目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れ始めた彼女の部屋の天井と、俺が持参したデジタル時計の赤い光。そして、その目覚まし時計が発している、無機質なアラーム音。
時刻は、午前六時。起床の時間だ。
(……ゆ、夢……?)
いや、夢じゃない。これは現実だ。
アラームが鳴って、俺はそれで目が覚めた。
じゃあ、さっきまでの、あの
苗字さんの大胆な誘惑は……?
ベッドサイドに目をやると、例のパステルピンクのチューブが、昨夜と変わらずそこに置かれている。
『ふわりと香る、甘いピーチの芳香』と、確かに記載されている。
つまり、あのチューブを手に取り、
苗字さんと視線を交わしたところまでは、多分、現実だった。
でも、その後の「使ってみる?」と言う小悪魔の囁きと、唇が触れ合いそうになった、あの瞬間は……一体、何だったんだ?
(……まさか、俺、アラームが鳴る直前まで、そんな夢を見てたってことか……!?)
だとしたら、俺の願望は愈々、現実と夢の境界線を曖昧にするレベルにまで達してしまったらしい。
「触れるのは禁止」というルールが、俺の中でこれ程までに大きなストレス……いや、抑圧された欲望となって、こんなにも鮮明な夢を見させるなんて。
隣で眠る
苗字さんは、アラームの音にも気づかず、まだ静かな寝息を立てている。その無防備な寝顔は、天使のように愛らしく、俺の心をどうしようもなく掻き乱した。
昨夜の夢の中の、あの積極的で大胆だった姿とはまるで別人だ。
でも、その清らかな寝顔を見ていると、またしても夢の出来事が鮮やかに蘇ってきて、胸が張り裂けそうなくらいドキドキする。
(……
苗字さん……俺、君のこと、どうしようもなく好きみたいだ……)
そのどうしようもない想いが、こんなにも鮮烈な夢を見させるのだろうか。
俺は、まだ熱く疼く自身を持て余しながら、彼女の寝顔を見つめた。
このまま、襲ってしまいたい。
そんな、獣のような衝動が、またしても心の奥底から湧き上がってくる。
でも、ダメだ。
彼女は、俺を信じて、こんな無防備な姿を晒してくれているんだ。
その信頼を裏切るようなことは、絶対にしたくない。
俺は逸る気持ちを必死で抑え込み、鳴り続けるアラームを慌てて止めた。
そして、深呼吸を一つ。
朝練に行かなければならない。
この甘美で危険な空間から、一度離れなければ。
彼女の額にそっと唇を寄せたい衝動をぐっと堪え、代わりに口の中でだけ、小さな声で囁いた。
「……
苗字さんの、彼氏に、なりたい」
その言葉は、朝の静寂に溶けていくように、誰にも届かない。
苗字さんに聞こえたのか、聞こえなかったのか。
それすら、俺には分からなかった。
ただ、彼女の寝顔が、ほんの少しだけ微笑んだように見えたのは、……きっと気のせいだろう。
俺は音を立てないように慎重にベッドから抜け出し、着替えを手に、そっと部屋を出た。
洗面所で顔を洗い、歯を磨きながら、鏡に映る自分の顔を見る。
寝不足と、昨夜の夢の所為で、少しだけ赤い気がする。
(……しっかりしろ、俺。今日は今日で、また新しい一日が始まるんだ)
そう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替える。
この溢れそうな想いが、いつか彼女に届く日が来るのだろうか。
その日を夢見ながら、俺は、
苗字さんが予め用意してくれていた朝食を胃に収め、白鳥沢学園の部室へと向かうべく、静かに
苗字家のマンションを後にした。
胸の中には、彼女への想いと、仄かな期待と、計り知れない程の愛しさが温かく満ちていた。
この夜が、俺達の関係を少しだけ変えてくれたような、そんな気がした。
苗字さんだけが欲しい。今はその想いが、俺の全てだった。
例え、それがまだ夢と現実の狭間で揺れ動く、不確かなものであったとしても。
あの鳴り響いたアラーム音のように、いつか、俺の想いも、彼女の心にはっきりと届く日が来ることを、ただ只管に願うばかりだった。
まずは、今日の朝練で、キレッキレのスパイクを叩き込むことから始めよう。
それが、今の俺にできる、一番確かなことだから。