薔薇色ランチタイム | Title:愛され作戦

 今日の朝練は、正直言って、全く身が入らなかった。  牛島さんの幻影を追って、渾身の力で打ち込んだ筈のスパイクは、尽くネットに突き刺さるか、コートの外へと大きく逸れていく。チームメイトからの「五色、どうした?」「なんかあったのか?」という心配の声も、今の俺の耳には遠い国の言語のようにしか聞こえなかった。  何かあったのか、だって? あったに決まってるだろ! 大アリだ!  俺の頭の中は、苗字さんの部屋のベッドサイドに鎮座していた、あのパステルピンクの小さなチューブ――そう、潤滑ゼリーのことで完全に占拠されていた。  いや、正確には、潤滑ゼリーそのものよりも、それを巡る夢と現実の曖昧な記憶、そして、その時の苗字さんの悪戯っぽくも蠱惑的な微笑みだ。  アラームが鳴る直前、確かに俺は苗字さんと視線を交わし、彼女が「使ってみる?」と囁いた……気がする。いや、あれは夢だったのか? でも、あの桃色のチューブは、朝、俺が部屋を出る時にも、確かにそこに在った。つまり、苗字さんが意図的に置いたということになる。  一体、どういうつもりなんだ!? 俺を揶揄っているのか? それとも、何かを期待して……?  授業中も、集中できる筈がなかった。  隣の席の苗字さんの横顔を盗み見する度に、昨夜の出来事(夢なのか現実なのか判然としない部分も含めて)がフラッシュバックし、心臓がバクバクと暴れ出す。彼女がシャーペンを走らせる白魚のような指先、時折伏せられる長い睫毛、ふとした瞬間に結ばれる薄桃色の唇。その全てが、昨夜の夢の中の、大胆で積極的な彼女の姿と重なって見えてしまい、俺は一人で勝手に顔を赤らめたり、慌てて視線を逸らしたりを繰り返していた。完全に不審者だ。  特に、彼女が髪を耳に掛けた瞬間、項からふわりと漂ってきた、あの甘い石鹸の香りが鼻腔を掠めた時は、危うく変な声が出そうになった。あの香りは、俺を蕩けさせる魔法か何かか!?  そんな混乱と煩悩の坩堝の中で、あっと言う間に午前中の授業は終わりを告げ、昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いた。  さあ、食堂でカツ丼大盛りでも食って、このモヤモヤを吹き飛ばしてやる! と意気込んで席を立とうとした、その時だった。 「――五色くん」  鈴を振るような、けれど、芯のある声。  振り返ると、そこには苗字さんが座っていた。いつもと変わらない、清楚な制服姿。だけど、今日の彼女は、僅かに頬が上気しているように見えた。いや、それは、俺の願望が見せる幻覚か? 「今日のお昼、良かったら一緒にどうかな?」  ……は?  一瞬、時が止まった。食堂へ向かうクラスメイト達の騒がしい声も、窓を叩く雨音も、全てが遠退いていく。  苗字さんが、俺を昼食に?  これは、あの……昨夜の潤滑ゼリー事件の続きなのか? 何かの罠か? それとも、俺の長年の片想いが、遂に報われる時が来たというのか!? 「え、あ、あの……俺と?」  我ながら、情けないくらいに上擦った声が出た。心臓は体育館の床に叩き付けられたボール宜しく、とんでもない勢いで跳ね回っている。  苗字さんは、そんな俺の動揺を楽しむかのように、こくりと小さく頷いた。その夜色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。吸い込まれそうだ。 「うん。駄目かな?」 「だ、駄目なワケない! 全然! 是非!」  食い気味に答えてしまった。ああ、また空回りだ。もっとスマートに、余裕のある態度で返事をしたかったのに。  苗字さんは、そんな俺の勢いに僅かに目を丸くした後、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かがきゅんと音を立てて締め付けられた。 「良かった。じゃあ、行こうか」  彼女はそう言って、俺より先に教室のドアへと歩き出した。その軽やかな足取りを見送りながらも、俺の頭の中では警報が鳴り響いていた。  これは間違いなく、苗字さんの"何かの作戦"の始まりに違いない。あの桃色のチューブは、その序章に過ぎなかったのだ。  一体、何が待ち受けているというんだろう……?  期待と不安がジェットコースターのように心を駆け巡り、俺は生唾を飲み込みながら、少しだけ震える足で後に続いた。  この昼休みが、俺の人生を左右するターニングポイントになるかもしれない。そんな大袈裟な予感が、胸を騒がせていた。
 五色くんの慌てふためく姿を見るのは、最近のわたしの密かな楽しみの一つになっている。  昨夜、ベッドサイドにあの桃色のチューブを置いたのは、ほんの出来心と、五色くんがどんな反応をするのか見てみたいという、少しばかり意地の悪い好奇心からだった。勿論、彼が真剣に悩んだり、困惑したりするのを見るのは本意ではない。ただ、彼の真っ直ぐで純粋なところが、時々、無性に愛おしくなって、ちょっぴり揶揄ってみたくなるのだ。それに、彼がわたしに向ける熱っぽい視線や、些細なことで一喜一憂する姿は、わたしの心を温かく満たしてくれる。  五色くんが、あのチューブの意味をどこまで理解しているのかは分からない。でも、今朝、わたしが寝ている間に、彼が部屋を出て行く気配を感じた時、ほんの僅かに聞こえた「……苗字さんの、彼氏に、なりたい」という掠れた呟きは、わたしの耳に確かに届いていた。その言葉を聞いた瞬間、心臓が甘く疼いて、思わず顔が熱くなったのを憶えている。彼のその切実な願いを、わたしはどう受け止めたらいいのだろう。  そして、今日のお昼に彼を誘ったのは、わたしなりの"愛され作戦"を実行してみようと思ったから。  それは、五色くんを試すとか、そういう駆け引きめいたものではない。もっと単純で、もっと温かいもの。彼が喜んでくれる顔が見たい。彼にもっと、わたしのことを好きになってほしい。そんな、ささやかな願いを込めて。  雨の日の食堂はいつもより生徒が多く、蒸し暑い空気が漂っていた。食券機の前に出来た列に並びながらも、五色くんはまだ少し緊張しているのか、メニューのサンプルを眺める視線がどこか落ち着かない。その様子が何だか微笑ましくて、わたしから声を掛けた。 「五色くんは、何にするの?」 「えっ!? あ、俺は……えっと、カツ丼、かな……。苗字さんは?」  彼の視線が、ちらりとカツ丼のサンプルとわたしとを往復する。 「わたしはね、今日はこれにしようかな」  わたしが指差したのは、日替わり定食のメニュー札。そこには、『本日のオススメ:カレイの煮付け定食』と書かれていた。  確か、五色くんの好物はカレイの煮付けだった筈だ。以前、彼が部活の仲間と話しているのを、偶然、耳にしたことがある。  その瞬間、五色くんの大きな瞳が、驚いたようにぱちくりと瞬いた。そして、次の瞬きの間には、見る見るうちにその顔が喜びの色に染まっていくのが分かった。ずっと欲しかったプレゼントを貰った子供みたいに、キラキラとした表情だ。 「えっ、苗字さん、カレイの煮付け、好きなの!?」 「うん。時々、無性に食べたくなるんだよ」  本当は、五色くんが喜んでくれるかなと思って選んだのだけれど、それは胸の内に秘めておく。  食券を買い、カウンターで料理を受け取るまでの間も、五色くんはカレイの煮付けのことで頭がいっぱいのようだった。 「カレイの煮付けって、美味いよな! 特に、あの甘辛いタレが染み込んだ身と、一緒に煮込まれた生姜が最高で……! 後、骨の周りの、ちょっとゼラチン質っぽいところとか……!」  目を輝かせながら、身振り手振りを交えて熱く語る彼の姿は、コートの上で鋭いスパイクを決めた時と同じくらい、生き生きとして見えた。その無邪気なまでの喜びように、わたしも自然と笑みが零れる。  運良く窓際の席を見つけ、向かい合って腰を下ろす。湯気の立つカレイの煮付け定食を前に、五色くんは本当に美味しそうに、そして、少しだけ羨ましそうに自分のカツ丼と交互に視線を送っていた。わたしはそんな彼に、「良かったら、少し食べる?」と提案した。  五色くんは一瞬、信じられないという顔をして、それから遠慮がちに「い、いいの!?」と目を輝かせた。 「うん。五色くんの方が、わたしよりずっと美味しそうに食べそうだから」 「そ、そんなこと……! でも、ありがとう! 頂きます!」  彼はそれはもう幸せそうに、わたしが取り分けたカレイの煮付けを頬張った。その満足そうな顔を見ているだけで、わたしの心も温かいもので満たされていく。  これが、わたしの"愛され作戦"。  大袈裟なことなんて、何もない。ただ、五色くんの好きなものを一緒に楽しんで、彼の笑顔が見たい。それだけ。  昼食を終え、食器を返却口に戻す道すがら、五色くんがぽつりと言った。 「あの……苗字さん。今日の昼飯、めちゃくちゃ美味かった。その……誘ってくれて、ありがとう」  少し照れ臭そうに、でも真っ直ぐにそう告げる彼の言葉は、どんな甘い囁きよりも、わたしの心に深く、温かく響いた。 「どう致しまして。わたしも、五色くんと一緒で楽しかったよ」  そう答えると、彼の耳がほんのりと赤く染まったのが見えて、わたしはまた、くすりと笑ってしまった。  このささやかで、でも確かな温もり。  五色くんの隣に居ると、いつもこんな風に、心が優しく解きほぐされていくのを感じる。  彼の「彼氏になりたい」という言葉。その重みを、わたしはまだ完全には理解できていないのかもしれない。  けれど、わたしも、五色くんともっと一緒に居たい。彼のことをもっと知りたい。そして、彼にもっと、わたしのことを好きになってほしい。  その気持ちは日に日に、わたしの胸の中で大きく、鮮やかに育っている。  次に彼に会う時、わたしはどんな顔をして、どんな言葉を交わすのだろう。  そのことを考えると、またちょっぴり心臓が騒がしくなるのだった。  この甘くて、少しだけ刺激的な恋の魔法が、どうか解けませんように。  わたしのハンカチの薔薇が、今日もふわりと香り立つみたいに、甘やかな予感が胸いっぱいに広がっていく。



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