パステルラブサーブ | Title:パステルカラー

 世界が、昨日までとはまるで違う色をしていた。  教室の窓から差し込む、梅雨の晴れ間の淡い陽光。チョークの粉が舞う空気の匂い。隣の席で、教科書のページを捲る彼女の僅かな衣擦れの音。今まで当たり前のように存在していた全てのものが、上質な水彩絵の具で塗り重ねられたみたいに柔らかく、俺の五感を鮮やかに満たしていく。  恋人。  俺と名前は恋人同士になった。  その事実を噛み締める度、心臓がふわふわと宙に浮くような、足元が確かなものになったような、不思議な感覚に包まれる。昨夜、腕の中で感じた彼女の温もりと、俺の名前を呼んだ甘い声、そして、俺の胸に顔を埋めて、安心し切ったように眠りに落ちた時の、あの静かな寝息。その全てが、俺の全身の細胞に消えない陽だまりのように残っている。  ああ、幸せだ。めちゃくちゃ幸せだ。  このまま、このパステルカラーの世界にずっと浸っていたい。  ――そう、心の底から思うのに。  俺の視線の先、思考の片隅で、どうしても無視できない存在が燦然と(いや、どちらかと言えば、ぬるりと)輝きを放っていた。  そう、アレだ。  名前の部屋のベッドサイドに、今も尚、鎮座しているであろう、あの物体。  ふわりと甘いピーチの芳香がする、小さなパステルピンクのチューブ。  俺の理性を幾度となく揺さぶり、甘美で破廉恥な夢を見させ、挙げ句の果てには現実と夢の境界線さえも曖昧にさせた、元凶。  恋人になった今、アレの正体を確かめずして、俺達の未来はない。  いや、未来はあるだろうけど、俺の心の平穏がない。  このままじゃ、いつかまたあの鮮烈な夢に引き摺られて、とんでもない失態を演じ兼ねない。エースとして、そして何より、名前の彼氏として、それは絶対に避けなければならない事態だ。  今日の部活中も、俺の頭の中はそのことで一杯だった。  「工! 集中しろ! 今のスパイクは何だ、力が入り過ぎだ!」  鷲匠監督の怒声が体育館に響き渡る。すんません! と声を張り上げながらも、俺の脳内では別の戦いが繰り広げられていた。 (どう切り出す? どう訊けばいい? 「あの、名前の部屋にある桃色のチューブって、もしかして、アレですか?」なんて、直球過ぎるだろ! でも、遠回しに言っても、この俺の語彙力じゃ絶対に伝わらない!)  ブロックの僅かな隙間を見つけるのは得意なのに、こと恋愛に関しては目の前に聳え立つ壁が高過ぎて、分厚過ぎて、どこを狙えばいいのか全く分からない。  牛島さんなら、どうするだろうか。「苗字。あれは何だ」と、きっと眉一つ動かさずに訊くに違いない。そして、名前が何と答えようと「そうか」の一言で終わらせるだろう。……ダメだ、参考にならない。脳内の白布さんには、「は? そんなもん、見りゃ分かんだろ。馬鹿か、お前は」と、冷たく一蹴された。  結局、俺は俺のやり方で、この壁を打ち破るしかないのだ。  そうだ、これはもう、試合と一緒だ。  サーブを打つ前の、あの静寂。深く息を吸い込み、全身の意識を指先に集中させる。そして、最高のタイミングで、最高のボールを叩き込む。  今夜、俺は名前に、この疑問という名のサーブを打ち込む。サービスエースを決めてみせる!  ……と、意気込んだはいいものの。  いざ、彼女の待つマンションに着き、二人きりの甘い夕食の時間を過ごし、リビングのソファで並んで寛いでいると、俺の決意はマシュマロみたいにふにゃふにゃになってしまった。  だって、名前が俺の為に淹れてくれたカモミールティーが美味過ぎるし、俺の肩に頭を預けてくる仕草が可愛過ぎるし、テレビを観ながら、時折、俺の顔を盗み見ては、ふわりと微笑むのが、もう……心臓に悪い。  このパステルカラーの幸せな空気を、俺の一言でぶち壊してしまっていいのだろうか。  いや、ダメだ、五色工! ここで怯むな!  俺は心の中で自分を叱咤し、遂にその時を迎えた。  寝室の、あのダブルベッドの上で。  部屋の明かりを落とし、カーテンの隙間から滑り込む月光だけが、俺達をぼんやりと照らしている。隣に横たわる名前の、甘い石鹸の香りが鼻腔を擽り、俺の決意をまたしても揺さぶってくる。  今だ。今しかない。  俺は震える声で、彼女の名前を呼んだ。 「……っ、名前」 「ん? なぁに、工くん」  吐息混じりの甘い返事。もうダメだ、帰りたい。いや、帰る場所はここだけど! 「あ、あのさ……ずっと気になってたんだけど……」  俺は意を決して、ベッドサイドテーブルを指差した。そこには月光を浴びて、パステルピンクのチューブが、この瞬間の為に用意された小道具のように、静かに佇んでいる。 「……あれ、って……その……な、何なの?」  言った。言ってしまった。  俺の人生で最も勇気を振り絞った一言かもしれない。  心臓がドラムの連打みたいに激しく鳴り響き、自分の声がちゃんと音になっていたかさえ、定かではなかった。
 工くんの指先が、僅かに震えているのが分かった。  月明かりに照らされた彼の横顔は、試合中の真剣な表情とはまるで違う、迷子の子供のような不安と、どうしようもない好奇心が綯い交ぜになった、とても可愛らしい色をしていた。  その視線の先にあるものを、わたしは知っている。  ここ数日、彼がずっと気にしていたであろう、あの桃色の小さなチューブ。  正直に言うと、わたしは少しだけ意地悪をしていたのかもしれない。  彼がどんな顔をして、これを話題に出してくるのか。その反応が見たくて、態と片付けずに置いておいたのだから。  でも、それは彼を困らせたいからじゃない。工くんの真っ直ぐで、不器用で、一生懸命なところが、どうしようもなく愛おしいから。彼のことで、わたしの心がこんなにも揺さぶられるのが、嬉しくて仕方がないから。  恋人になった、あの夜。  初めて彼の腕の中で眠った時、わたしは生まれて初めて、夜が明けるのが寂しいと思った。工くんの温もり、規則正しい心音、時折、わたしの髪をそっと撫でる、大きな手の感触。その全てが、わたしを優しく包み込んで、幼い頃からずっと抱えていた夜への恐怖を溶かしてくれた。  「名前」と、工くんが呼んでくれる度、わたしの心にパステルカラーの絵の具が一滴、また一滴と落ちて、世界が優しい色に染まっていくのを感じる。  わたしはそんな彼の問い掛けに、すぐには答えなかった。  代わりにゆっくりと身体を起こし、工くんの大きな手の上に、自分のそれをそっと重ねた。びくり、と彼の肩が跳ねるのが、シーツ越しに伝わってくる。 「工くんは、これが何だと思う?」  悪戯っぽく、小首を傾げて問い掛ける。  彼の大きな瞳が驚いたようにぱちくりと瞬き、見る見るうちに狼狽の色に染まっていく。その様子が面白くて、わたしは思わずくすりと笑みを漏らした。 「え、えっと……俺は……その……」  しどろもどろになりながら、必死で言葉を探している工くん。その耳朶までが、熟れた果実のように真っ赤になっている。 「……もしかして、工くん。何か、いやらしいことを考えていた?」 「い、いやらしくなっ……! いや、ちょっとは……いや、でも、それはその、不可抗力って言うか……!」  一人でパニックになっている彼が、本当に愛おしい。  わたしはもう一度、くすりと笑ってから、工くんの耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。 「これはね、潤滑ゼリーだよ」  工くんの身体が面白いくらいに硬直した。息を飲む音さえ、聞こえてきそうだ。 「だって、わたし達、恋人になったでしょう?」  わたしは続けた。今度は、工くんの瞳を真っ直ぐに見つめて。もう逃げたりしない。自分の気持ちから、目を逸らしたりしない。 「だから……いつか必要になるかもしれないって、思ったんだ。わたし、工くんと、もっと色々なことをしてみたい。工くんのことをもっと知りたいし、わたしのことも、もっと知ってほしいから……その準備、みたいなもの、かな」  言いながら、自分の顔にも熱が集まっていくのが分かった。  でも、これはわたしの、偽りのない本心だった。  工くんに触れたい。工くんに触れてほしい。  ソフレという曖昧な関係に逃げていた頃は、決して口にできなかった、素直な欲望。  工くんは完全にフリーズしていた。  大きく見開かれた瞳のまま、瞬きもせず、わたしをじっと見つめている。その表情は驚きと困惑と、隠し切れない程の喜びが入り混じって、複雑な色合いのパステル画のようだった。  やがて、彼はゆっくりと壊れ物を扱うかのように、わたしの頬に手を伸ばした。  その指先はまだ少し震えていたけれど、眼差しはどこまでも真剣で、熱を帯びていた。 「……名前……」  掠れた声で、わたしの名前を呼ぶ。 「俺……俺、名前のこと、めちゃくちゃ大事にするから。だから……その、色々、教えてほしい。俺も、名前の全部が知りたい」  その言葉はどんな甘い愛の囁きよりも、わたしの心を強く、深く満たした。  ああ、わたしはこの人のこういうところが好きだ。  不器用で、真っ直ぐで、いつだって全力で、わたしに向き合ってくれる。 「うん。わたしも、工くんの全部が知りたいな」  わたしがそう言って微笑むと、彼は次の瞬間、耐え切れなくなったかのように、わたしの身体をぎゅっと、でも、壊さないように優しく抱き締めた。  彼の胸の中で、とくん、とくん、と力強い心臓の音が聞こえる。  それは、わたし達の新しい物語の始まりを告げる、希望の音色みたいだった。  パステルピンクのチューブは、まだ使われることなく、ベッドサイドで静かに佇んでいる。  でも、それはもう、わたし達の間に横たわる不安の象徴ではない。  これから二人で描いていく、甘くて、色鮮やかな未来へのささやかな道標。  今夜はきっと、また新しい色の夢を見る。  工くんの腕の中で、わたしはゆっくりと目を閉じた。  このどうしようもない恋煩いが、どうか永遠に続きますようにと、心の中でそっと願いながら。



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