パステルモノクローム | Title:君のいない人生なんて

 世界がパステルカラーに染まっていた。  それは比喩でも何でもなく、俺の目に映る全てのものが、昨日までとは明らかに違う、柔らかく淡い色彩を帯びているように感じられた。  カーテンの隙間から差し込む朝の光は蜂蜜を溶かしたみたいに甘く、名前の部屋を満たす清潔な石鹸の香りが、俺の肺を優しく満たしていく。隣で眠る彼女の絹糸のように滑らかな髪が、俺の頬を擽る。その感触だけで、心臓がふわふわと綿菓子みたいに膨らんで、身体ごと宙に浮いてしまいそうだ。  ――恋人。  俺、五色工と、苗字名前は、恋人同士になった。  その事実を噛み締める度、胸の奥からじわりと温かいものが込み上げてくる。昨夜、俺の腕の中で、彼女は本当に安心し切った顔で眠っていた。ぎゅっと握られた、俺のパジャマの裾。俺の胸にすり寄せられた額。そして、時折漏れる「……工くん」という甘い寝言。その全てが、俺がこの世界に存在する意味そのもののように思えた。  もう、ソフレじゃない。触れることを躊躇う必要も、この溢れそうな想いを無理に押し殺す必要もない。ただ、この腕の中に在る温もりを、何よりも大切に守っていけばいい。  ああ、幸せだ。滅茶苦茶、幸せだ。  このまま時間が止まってしまえばいいのに。このパステルカラーの世界で、名前と二人きり、永遠に朝を迎え続けたい。  そんな、柄にもないことを本気で考えてしまうくらいには、俺は完全に浮かれていた。  名前が目を覚まし、お早うのキスを交わす。寝ぼけ眼の彼女が「……工くん、朝練は?」と尋ねるので、「今日は午後からだ」と答えると、彼女は「そう」と嬉しそうに微笑んで、俺の胸に再び顔を埋めた。その仕草が堪らなく愛しくて、俺は彼女の華奢な身体をもう一度強く、でも、壊さないように優しく抱き締めた。  君の居ない人生なんて、もう考えられない。  この温もりを知ってしまった今、もし、これを失ってしまったら、俺はきっと、もう真面にスパイクも打てなくなるだろう。  そんな幸福感にどっぷりと浸かりながら、二人で遅い朝食の準備をしていた、その時だった。  静寂を破って、玄関の方からカチャリ、と鍵の開く音がした。  続いて、聞き慣れない、重厚な革靴が床を踏む音。 「……え?」  俺と名前は顔を見合わせた。  このマンションは最上階のこの一室を除いて、誰も住んでいない筈だ。管理人が無断で来ることもない。じゃあ、一体誰が?  俺の背筋に嫌な汗がすっと流れた。まさか、空き巣か何かか?  だとしたら、俺が名前を守らなければ。俺は咄嗟に、キッチンにあったフライパンを手に取り、臨戦態勢に入った。 「工くん、違うよ。多分……」  名前が困ったように微笑みながら、俺の手からそっとフライパンを取り上げた。その落ち着き払った様子に、俺の混乱は更に深まる。  そして、リビングのドアがゆっくりと開かれた。  そこに立っていたのは、一人の男だった。  すらりと高い長身に、モデルのように整った顔立ち。名前と同じ、吸い込まれそうな程に深い色の瞳。そして、何より目を引いたのは、その男が着ていた黒いTシャツに白インクでデカデカと書かれた『〆切厳守』という四文字熟語だった。 「やあ、名前。ただいま。少し早いけど、取材が早く終わったから、帰ってきたよ」  その声は低く、穏やかで、どこか浮世離れした響きを持っていた。男は、俺の存在に気づくと、僅かに目を細め、それから、にこりと人好きのする笑みを浮かべた。 「……君が、噂の五色工くん、だね?」  ――終わった。  俺のパステルカラーの世界が、一瞬にしてモノクロームに反転した。  この人が、名前の兄、苗字兄貴さん。その人だ。  不在にしていると聞いていた。だから、俺はこうして、毎日のようにこの家に出入りできていたのだ。その大前提が、今、音を立てて崩れ去った。 「兄貴兄さん、お帰りなさい。早かったんだね」 「ああ。次の物語の構想が、天から降ってきたからね。早く形にしたくて」  兄貴さんはそう言うと、持っていたボストンバッグを床に置き、何故か真っ直ぐに名前の寝室の方へと向かっていく。そのごく自然な動きに、俺は何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 (ヤバいヤバいヤバい! そっちはダメだ! 絶対にダメだ!)  俺の脳内で、警報がけたたましく鳴り響く。  何故ならあの部屋には、俺達が使った後の僅かに乱れたベッドと、そして、何より――ベッドサイドテーブルの上に、あのブツが無防備に鎮座しているのだから。  パステルピンクの、小さなチューブが。 「兄貴兄さん、待って!」  名前が制止の声を上げたが、時既に遅し。  兄貴さんは何気ない様子で寝室のドアを開け、中へと足を踏み入れてしまった。  数秒間の、心臓が止まるかと思うような沈黙。  やがて、寝室から出てきた兄貴さんの手には、恐れていた通り、あの桃色のチューブが戦利品のように握られていた。 「……ほう」  兄貴さんはそのチューブを目の高さまで持ち上げ、希少な骨董品でも鑑定するかのように、じっくりと眺めている。その横顔は真剣そのものだ。 「これは……実に興味深い。この、人を惑わすような甘いピーチの芳香。そして、無垢な少女の頬を思わせる、淡い桃色。これは、禁断の果実への誘いか。それとも、純粋な愛の営みを彩る、ささやかな魔法の道具か……。実に創作意欲を掻き立てられるじゃないか」  ブツブツと、何やら詩的な独り言を呟いている。  怒っていない。怒鳴られてもいない。  でも、それ以上に怖い。何だ、この状況は!?  俺はもう、立っているのがやっとだった。膝が笑い、視界がぐにゃりと歪む。牛島さん、助けてください。俺、もうエース辞めてもいいです。  そんな俺の絶望を余所に、名前が口を開いた。  その声はいつもと変わらない、少しだけミステリアスで、澄んだ響きを持っていた。 「兄貴兄さん、それは工くんのだよ」 「えっ!?」  俺は素っ頓狂な声を上げた。違う! いや、二人で使うものって意味では違わないけど、そうじゃない! 「わたしの為に、彼が用意してくれたの。わたし達、恋人同士だから」  悪びれる様子もなく、淡々と事実を織り交ぜる名前。その言葉に、兄貴さんはぴたりと動きを止め、それからゆっくりと、俺の方を向いた。  その瞳は、もう笑ってはいなかった。  深海の底のように静かで、底知れない光を宿している。 「……そうか。やっぱり、君が、俺の可愛い名前の、初めての男か」  ゴクリ、と喉が鳴った。  空気が凍て付く。フライパンじゃダメだ。日本刀くらいないと、この人を止められないかもしれない。  俺は死を覚悟した。  だが、次の瞬間、兄貴さんの表情はふっと和らぎ、俺に向かって、にこりと微笑んだ。 「――君は良い子だね」  は?  今、なんて? 「名前がこんな風に誰かに心を許すなんて、初めて見た。君が、彼女の固く閉ざされた心の扉を開けてくれたんだね。ありがとう、五色くん。これからもどうか、名前のことを頼むよ」 「……は、はいっ!」  思わず、軍隊式の返事をしてしまった。  状況が全く理解できない。この人は、俺を認めてくれたのか?  兄貴さんは満足そうに頷くと、手に持っていたチューブをぽんと、俺の胸に放った。 「それから、これ。……まあ、使うのは構わないけど、名前を泣かせたら、その時は……分かるね?」  最後の言葉だけ、声のトーンが三段階くらい低くなった気がした。  俺は反射的にチューブをキャッチし、力強く頷くことしかできなかった。  嵐は過ぎ去ったのだろうか。  いや、まだだ。兄貴さんは目の前に立つと、がっしりと力強く、俺の肩を掴んだ。 「さて、五色工くん。君という人間を、俺はもっと知る必要がある。今夜は朝まで、君のバレーボールへの情熱と、我が妹への愛の深さについて、じっくりと語り明かそうじゃないか。ああ、これは新しい物語の素晴らしいプロローグになりそうだ!」  その瞳は作家としての好奇心と、妹を愛する兄としての執念で爛々と輝いていた。  その夜、俺が眠ることを許されなかったのは、言うまでもない。  けれど、不思議と嫌ではなかった。  兄貴さんの隣で、俺は何度も、何度も、名前への想いを語った。彼女と出逢って、世界がどれだけ色鮮やかになったか。彼女の居ない人生なんて、もう考えられないこと。  朝日が昇る頃、俺は疲れ果ててソファに沈んでいたが、心は不思議と晴れやかだった。  名前の家族という、新たな、そして途轍もなく手強い壁。  でも、それはもう、俺達を隔てる壁じゃない。  俺達の未来を共に築いていく為の、大切な土台の一部なのかもしれない。  廊下の奥の部屋からは、名前の静かな寝息が聞こえてくるようだった。  この幸せを守る為なら、俺はどんな壁だって乗り越えてみせる。  それが、彼女の恋人になった、俺の新しい誓いだった。  パステルカラーの世界にまた一つ、力強く、鮮やかな色が加えられたような、そんな朝だった。



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