逃げない夜に交わす名前 | Title:約束
放課後の教室は深海みたいに静かだった。
黒板を滑るクリーナーの乾いた音、椅子を引く甲高い軋み、慌ただしい足音、弾けるような笑い声――それら、昼間の喧噪を構成していた全ての音が、潮が引くように遠ざかって、今、この教室の空気の粒子を揺らしているのは、俺の不規則な心臓の音と、窓の外で風に揺れる木の葉の囁きだけだった。
そして、もう一つ。
窓際の席に、一枚の絵画のようにちょこんと座っている彼女――
苗字名前の、静かな呼吸の音。
部活が終わった後の心地良い疲労感なんて、部室を出た瞬間にどこかへ吹き飛んでしまった。今はただ、この静寂が体育館のコートよりもずっと広く、張り詰めて感じられる。
「お疲れ様、五色くん」
不意に鈴を振るような、けれど、芯のある声が鼓膜を打った。
ぴしり、と無意識に背筋が伸びる。それだけで、背中を汗が一滴、するりと伝っていくのが分かった。牛島さんのサーブを受ける瞬間より、ずっと、ずっと緊張している。
「あ、ああ……ありがとう……?」
何に対する礼なのかも分からないまま、掠れた声で返すのが精一杯だった。
「うん」
苗字さんがふわりと微笑む。その瞬間、俺の視線は居場所を失って、教室の天井の染みや、床の木目を意味もなく彷徨った。駄目だ、直視できない。
窓から滑り込む夕陽の最後の光を吸い込んだ髪が、濡れた黒曜石みたいに艶やかだった。その光の輪郭が、彼女の存在をこの世のものじゃないくらいに際立たせている。上手く言えないけど、なんかこう……心臓に悪い。ズルい程に綺麗だった。
「待っていたんだよ、ずっと」
苗字さんはそう言って、制服のスカートの上に、白魚のような指をそっと揃えた。その一つひとつの所作が、いちいち映画のワンシーンみたいに優雅で、丁寧で。
でも、俺を見つめるその深い夜色の瞳の奥には、昼間の教室で見た硝子細工の脆さとは違う、もっと複雑な光がぐるぐると渦巻いていた。迷いと、決意と、ほんの少しの怯えが混じり合った、見たことのない色。
「ねぇ、五色くん」
「……う、うん」
生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた気がした。
「次は……ソフレじゃなくて」
一呼吸、置かれる。そのコンマ数秒が、永遠のように長い。
「……恋人として、一緒に寝てもいい?」
――え?
一瞬、本当に心臓が止まったかと思った。
世界から音が消え、色彩が失われ、俺の意識だけが真空の宇宙にぽつんと取り残されたような感覚。
それから、とんでもない速度で暴れ出す。
練習試合で、相手の意表を突くクイックに全く反応できず、ボールがコートに叩き付けられた、あの瞬間みたいに。悔しさと、焦りと、目の前で起こった信じられない出来事への途方もない期待がごちゃ混ぜになって、思考回路を焼き切った。
「……マジで?」
口から飛び出したのは、そんな気の抜けた、間抜けな一言だった。言った後、その言葉の意味が信じられなくて、自分自身に問い返してしまう。
「いや、マジで!?」
どこに行ったんだ、俺の語彙力は!?
けれど、それくらい、俺は動揺していた。脳がこの幸福な現実を処理することを完全に拒否していた。
この、たった一言が、どれ程の葛藤の末に紡がれたものなのか。
俺は、それを知っていた。
苗字さん――いや、
名前は誰よりも繊細で、人一倍、臆病だった。自分の気持ちを言葉にすること、誰かと深く触れ合うことに対して、見えない壁を作っていた。
あの夜、俺が衝動的に触れようとした腕を潤んだ瞳で制した彼女の姿が、瞼の裏に鮮やかに蘇る。「駄目だよ」と囁いたあの声は、俺を拒絶したんじゃなかった。本当は彼女自身が怖かったんだ。いつか、この温かい関係が壊れてしまうかもしれない、その不安に震えていたんだ。
俺の変わらない視線が、毎日交わす何気ない会話が、練習中に彼女の姿を探してしまう、俺の馬鹿正直な笑顔が、その固く閉ざされた彼女の心の扉を、少しずつ、少しずつ溶かしていってくれたのだろうか。
そうだと信じたかった。
俺の混乱を、彼女はただ静かに見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「ソフレのままじゃ……もう、駄目なの。本当は、ずっと前から駄目だった」
その声は、告白のやり直しみたいに切実な響きを帯びていた。
「わたし、もう……触れたくて、触れてほしくて……ずっと我慢していた。好きで、好きで、苦しくて、でも怖かったんだ。今更「恋人になって」って言ったら、五色くんの傍に居られなくなるんじゃないかって。わたしは、傍に居られるだけで幸せだって、何度も自分に言い聞かせた。でも、嘘だった」
ああ、そうか。
俺がソフレという奇妙な関係に甘んじていたのは、彼女を失うのが怖かったからだ。でも、その関係は、彼女をこんなにも苦しめていた。
俺の中にある、後悔と、安堵と、どうしようもない愛しさが一気に込み上げてくる。
「……俺も。そうだった。嬉しくて、めちゃくちゃ嬉しくて、でも、同じくらい怖かった。
苗字さんが、俺の隣から居なくなるの、嫌だったから……俺も、ソフレって言葉に逃げてたかもしれない」
名前の長い睫毛が、蝶の羽のように微かに震えた。涙はない。けれど、その瞳の奥が、夕焼けの空よりもずっと熱く燃えているのが分かった。
「じゃあ――」
「うん、もう逃げない。俺、
苗字さんに……恋人として、触れたい」
その言葉は何の躊躇いもなく、心の底から真っ直ぐに、彼女へと届いた。
「……うん」
名前が、俺の名前を呼ぶ。
あの、寝言で聞いた、甘く掠れた声で。
「工くん」と。
その響きは、世界で一番温かい場所に、俺を導いてくれる魔法の呪文みたいだった。
夜。
名前の部屋は、やっぱり静かだった。
けれど、その静けさはもう、俺の心を締め付けるものではない。それは二人だけの世界を守る、優しい帳のように感じられた。
寝具から香るのは、微かなラベンダーの匂い。それが彼女の髪の匂いと混ざり合って、俺の頭を心地良くクラクラさせる。
ベッドの中で、
名前はそっと、俺のシャツの裾を掴んだ。あの夜と同じ仕草。でも、その指先に、もう躊躇いはなかった。
「工くん……ぎゅってして」
小さな、けれど、今までで一番勇気の要る声だった。
「……任せて」
掠れた声でそう答えるのが、俺の精一杯だった。
布団の中で、そっと彼女の身体を抱き寄せる。
細い肩が、華奢な背中が、俺の腕の中にするりと収まる。
名前がゆっくりと深呼吸をして、俺の胸に頭を預けるのが分かった。
とくん、とくん。
心臓の音が重なった。
今まで「触れてはいけない」という透明な壁が、俺達の間にはずっと在った。触れたくても、触れられなかった。
でも、今は――。
「……好き、工くん」
「俺も、
名前」
自然と、彼女の名前を呼んでいた。
その頭に、そっと唇を落とす。
名前の指が、確かめるように俺の背中に回り、寝間着を弱く握り締めた。
お互いの温度を確認するように、時間を掛けて、そっと、ゆっくりと。
その夜は、言葉よりも肌の温もりが、俺達の全ての想いを語っていた。
初めて、心から触れる夜。
もう、ソフレじゃない。
もう逃げない。
これはただの添い寝じゃないんだ。
ちゃんと好き同士が選んだ、"新しい約束"の夜だった。
「――おやすみ、
名前」
「――おやすみ、工くん」
二人の声が重なって、夜の静寂に溶けていく。
窓の外では、月がそっと微笑んだ気がした。