袖口の小さな恋信号 | Title:ふとした仕草
苗字さんの部屋のベッドサイドに、あのパステルピンクの小さなチューブが置かれてから、数日が過ぎた。結局、あれが何だったのか、
苗字さんがどういう意図でそこに置いたのか、俺は聞けないままだ。ただ、あの夜、アラームが鳴る直前に見た夢――いや、現実だったのかもしれない、
苗字さんの「使ってみる?」という蠱惑的な囁きと、触れ合いそうになった唇の記憶は、今も鮮明に、俺の脳裏に焼き付いている。
昼休みにカレイの煮付けを一緒に食べた日以来、俺と
苗字さんの距離は、ほんの僅かだけれど、確実に縮まっているような気がしていた。彼女が時折見せる、花が綻ぶような笑顔。俺の言葉に真剣に耳を傾ける時の、深い夜色の瞳。その一つひとつが、俺の心をどうしようもなく揺さぶる。
そして、あの朝、彼女がまだ寝息を立てている時に、ベッドの上で小さく呟いた「
苗字さんの、彼氏に、なりたい」という、俺の言葉。あれは、彼女に聞こえていたのだろうか。その答えも、まだ分からないままだった。
今日の部活終わり、俺は一度、寮に戻ってシャワーを浴び、汗臭さを洗い流した。それから、明日の為の清潔な着替えや、万が一の時の為のビニール袋(これは絶対にバレないように、バッグの奥底に厳重に隠してある)をスポーツバッグに詰め込み、再び外へ出た。いつものように、
苗字さんのマンションへ向かう道すがら、六月特有の、少し湿り気を帯びた空気が肌に纏わり付く。梅雨の晴れ間なのだろう、空には茜色のグラデーションが広がり、夕焼けが街を淡く染めていた。日中は蒸し暑くても、日が落ちると幾分か過ごし易くなる。こんな何気ない風景さえも、彼女と一緒に居られると思うと、どこか特別な色を帯びて見えるのだから、恋というヤツは本当に不思議だ。
苗字さんの家に着き、夕食を食べ、彼女が用意してくれた清潔なパジャマを纏う。この行為にも、もう随分と慣れてしまった。リビングで他愛もない話をして、彼女が淹れてくれたハーブティーを飲む。その穏やかな時間が、俺にとっては掛け替えのない宝物だった。
そして、夜。いつものように、彼女の部屋のダブルベッドに二人で横たわる。エアコンの柔らかな風がレースのカーテンを揺らし、その向こうから滲む夜の町灯りが、ぼんやりとした光の輪郭を壁に描いていた。
「……ごめんね、今日も。五色くん、疲れているのに」
苗字さんがぽつりと呟いた。その声は、夜の静寂に溶け込むように柔らかい。
肩越しに視線を送ると、彼女は天井をじっと見つめていた。そこに、何か見えない記憶のフィルムでも貼り付けられているかのように。
その横顔は、窓から差し込む僅かな月の光に縁取られて、ガラス細工みたいに繊細で、儚げに見えた。
「別に、疲れてないし。……
苗字さんが寝れるなら、それでいいよ」
俺の言葉に、少し間を置いて、
苗字さんはくすりと微かに笑った。けれど、その声の奥には、笑い切れていない何かが潜んでいるような気がした。
「わたし、小さい頃、体が弱かったんだ。ずっと入退院ばかりで、夜になると、病院の天井が凄く冷たく感じてね」
苗字さんの声は柔らかく、淡々としているのに、どうしようもなく胸に刺さった。普段の不思議な雰囲気の奥に隠された、彼女の痛みの一端に触れたような気がして、俺は息を詰めた。
「それで、いつだったかな。母が泊まってくれて、その夜、ベッドの横で手を握ってくれていたんだ。"誰かが傍に居てくれる"って、それだけで眠れるんだって、その時に知ったの」
苗字さんは一度、言葉を切り、小さく息を吸い込んだ。
俺は何も言えず、ただ耳を澄ますしかできなかった。自分の吐息の音さえもが、この静かな空間ではやけに大きく響くように思えて、妙に喉が渇いた。彼女の言葉の一つひとつが、俺の心に小石のように落ちてきて、静かに波紋を広げていく。
「……でも、恋人でもない人に、そういうお願いをするのって、変だよね」
苗字さんがそう言って、ふっと笑った。
その笑顔が、どうしようもなく寂しそうで。
その寂しさが、自分に向けられていないことが、どうしようもなく悔しかった。
――恋人でも、いいけどな。
言葉が喉元まで出掛かったけれど、俺はそれをぐっと飲み込んだ。
これに似たセリフ、もう言ったことがある。でも、あの朝の"二度目の告白"は、ベッドの上で、彼女がまだ微かな寝息を立てている頃だった。俺は本当に小さな声で呟いただけだ。聞こえていたのか、聞こえていなかったのか、それすらも分からない。
だから、今、この瞬間に、軽々しく口にすることはできなかった。
「五色くんは、本当に優しいね」
苗字さんが言った。今度は、俺の方を真っ直ぐに見ていた。その深い瞳の奥に、揺らめく光が見える。
「でも、わたし……こんなお願いばかりしていたら、いつか、五色くんに嫌われてしまうかもしれないね」
その言葉を聞いた瞬間、俺は反射的に首を横に振っていた。そんなワケない。そんなこと、天地が引っ繰り返っても、あるワケがない。
だけど、それを上手く言葉にするには拙過ぎて、気持ちばかりが先走ってしまう。いつもの、俺の悪い癖だ。
「……嫌わないよ、俺。そんなの、絶対に」
情けないくらい、飾らない本音だった。強がってみても、言い逃れをしようとしても、どうせ、この子には全部見透かされてしまう。
だから、素直に言った。真っ直ぐに、彼女の目を見て。
苗字さんはゆっくりと瞼を伏せて、小さく息を吐いた。そして、彼女の白魚のような指先が、俺が着ているTシャツの袖をそっと摘まんだ。ほんの僅かな、躊躇いがちな仕草。
「……ありがとう。そう言ってくれる五色くんが、好き」
その「好き」が、どんな意味の「好き」なのか。
友情なのか、信頼なのか、それとも、俺が望んでいるような、もっと深い意味でのものなのか。
本当のところは、まだ分からない。
でも、その夜、
苗字さんが、俺のTシャツの袖を握った。
ぎゅっと、小さく。けれど、はっきりと。大切な何かを確かめるように。
その温もりと僅かな力が、俺の心臓を直接掴んだみたいに、強く脈打たせた。
俺はその小さな手を包み込みたくなる衝動を必死で我慢して、ゆっくりと目を閉じた。
静かな夜だった。けれど、心の中は嵐のように騒がしかった。
ずっと、ドキドキしていた。胸の奥で誰かが、俺の名前を呼び続けているように。
そして、俺はもう一度、強く思った。
――もう一回、ちゃんと伝えよう。
いつか、なんて曖昧な未来じゃなくて、もっと早く。できれば、次の夜にでも。
彼女が眠ってしまう前に、ちゃんと自分の声で。この溢れそうな想いを、全て。
「……おやすみ、
苗字さん」
「うん、おやすみ。五色くん」
彼女の声はさっきよりも、少しだけ穏やかで安心しているように聞こえた。
月明かりがそっと、俺達の間に横たわるシーツの上に、淡い光の帯を落としていた。
俺は、袖を握る彼女の小さな手の温もりを感じながら、ゆっくりと意識を手放していった。
次に目覚めた時、俺はきっと、昨日までの俺とは一寸だけ違う自分になっている。そんな確信にも似た予感が、胸の奥で温かく膨らんでいた。