15cmの危険地帯 | Title:キュンとする
耳が痛くなる程の静けさだった。
カーテンの隙間から漏れる外灯のオレンジ色の光が、ベッドの端をぼんやり照らしている。
苗字家のマンション、その最上階の一室。管理人の足音も、
兄貴さんの書斎からの物音も聞こえない。ただ、自分の心音だけが煩くて。
――近い。近過ぎる。
「……」
まるで爆弾を抱え込んだかのように、俺、五色工はベッドの左端に横たわっていた。
ダブルベッド。二人で寝るには充分過ぎる広さだと思っていたのに、いざこうして並んで横になると、恐ろしく狭い。
手を伸ばせば、触れられる。
ほんの15センチ。だが、その距離は深海よりも遠い。
(ダメだ、落ち着け。俺はただ、添い寝するだけ……それだけだ……)
そんな思い込みが通用するわけもない。前回見た、あの鮮烈過ぎる夢の余韻が、まだ全身の細胞に焼き付いている。
苗字さんの柔らかな肌の感触、甘い声、噎せ返るような匂い……。思い出すだけで、また頭が沸騰しそうだ。
ベッドの右側、彼女――
苗字名前は仰向けになり、無言で天井を見つめている。ふんわりとしたシルクの寝間着に包まれた身体からは、柔らかく甘い石鹸の香りが漂ってきて、俺の鼻腔を擽った。その香りは、夢の中で嗅いだ薔薇の芳香とは違うけれど、俺の理性を揺さぶるには、充分に破壊力があり過ぎた。
そして。
「五色くんって、寝相は悪い?」
夜を撫でるような、静かな澄んだ声が、不意に闇を裂いた。
その声は、夢の中の甘く掠れた声とは違い、いつもの彼女の、少しだけミステリアスで、けれど透明感のある響きだった。
「っ――え? えっ……? あ、いや、そんな、悪くない……って言うか、普通、だと思うけど……!」
焦りで声が裏返る。
喉が渇いた。心臓が飛び出しそうだった。
喋っている自分の声よりも、心音の方がずっと大きく聞こえる。ドラムの連打みたいに、ドッドッドッと頭蓋骨の中で反響している。
「そう。わたし、最初は横向きじゃないと眠れないんだ」
そう言って、
苗字さんがゆっくりとこちらを向いた。絹糸のような髪が枕の上をさらさらと滑る音が、やけにはっきりと聞こえた。
カーテンの隙間から差し込む、僅かな外灯の光に照らされたその顔は、精巧に作られたビスクドールのように整っていて、少し冷たくて、息を呑む程に美しかった。その夜色の瞳が、俺をじっと見つめている。
「……ごめん、迷惑だったら、言ってね?」
声のトーンに変化はない。ただ、目だけが、こちらを凝視していた。
まるで、何かを試すように。或いは、俺の心の奥底まで見透かそうとするかのように。
「め、迷惑なんかじゃ、ない! 全然! ぜっっっんっぜん!」
俺は飛び起きそうになるのを、必死で踏み止まった。
思春期の身体が、勝手に反応してしまいそうで怖かった。下半身の、あの夢の残滓が、また疼き始めているのを感じる。
隣に、ずっと好きだった女の子が居て、しかも、その彼女からこんなに距離を詰められて。理性の綱が千切れる音が、今度こそはっきりと耳の奥で弾けた。
(ヤバい。もうダメだ。俺、絶対、変なこと考えてる顔してる……!)
視線を逸らした。目を閉じた。だが、それでもダメだった。
脳裏に妄想が浮かんでしまう。夢の中の、あの唇に触れた時の感触。手を繋いだ時の温もり。今日の夕方、風に吹かれながら彼女が言った、「今日も、楽しみだね」という一言。あれは、この"添い寝"のことを指していたのだろうか。それとも……。
――
苗字さんと、一つ屋根の下で夜を越える。
そんな展開が自分に訪れるなんて、去年の自分に言っても信じなかっただろう。いや、一週間前の自分だって、きっと鼻で笑ったに違いない。
(いやでも、まだ、"そういう関係"になったわけじゃない。……いや、でも……でも……)
考え過ぎて、頭から湯気が出そうだ。
妄想を抑え込むのに、全身の筋肉を使っていた。練習中に、牛島さんの強烈なスパイクをレシーブする時の構えと同じくらい、全身全霊で緊張していた。
「ねぇ、五色くん」
再び呼ばれ、びくっと肩が跳ねる。
苗字さんは柔らかく微笑んでいた。その微笑みは、夢の中の蠱惑的なものではなく、もっと穏やかで、どこか悪戯っぽい光を宿しているように見えた。
「ほんの少し、近づいてもいい?」
瞬間、心臓が、15センチ跳ねた気がした。
いや、ベッドから飛び出して、天井にぶつかって、床に落ちて、また跳ねて……そんなアクロバティックな動きを繰り返しているんじゃないかと錯覚するくらい、激しく脈打った。
俺はどうにか、崩壊寸前の声で答えた。
「……い、いいけど……!」
苗字さんはその返事に、満足そうに「うん」と頷くと、ゆっくりと身体を寄せてきた。
シーツが擦れる、微かな音。彼女の甘い石鹸の香りが、更に濃密になる。
距離は、10センチ。いや、5センチ。そして。
「おやすみ、五色くん」
彼女の声が、耳元で囁いた。
吐息が首筋に触れた瞬間――
俺は、そのまま昇天し掛けた。
意識が遠退くとか、そういうレベルじゃない。魂が肉体から離脱して、天国への階段を駆け上がっていくような、そんな強烈な感覚。全身の毛が逆立ち、背中に電流が走った。
(……キュン死に、て言うか、もうこれ、感電死レベルじゃね……!?)
声にならない悲鳴を、心の中で絶叫する。
苗字さんの髪の毛が、俺の頬を擽る。その柔らかさが、またしても俺の理性をゴリゴリと削り取っていく。
(だ、ダメだ……もう本当に、我慢の限界が……っ!)
夢の中の、あの熱く濡れた感触が鮮やかに蘇ってくる。彼女の甘い喘ぎ声が、耳の奥でリフレインする。
触れたい。
今直ぐにでも、この腕の中に閉じ込めて、あの夢の続きを……いや、それ以上のことを、現実で確かめたい。
そんな、危険で不純な欲望がマグマのように、心の奥底から突き上げてくる。
でも、ダメだ。
これは「添い寝だけの関係」なんだ。触れるのは禁止。それがルール。
破ったら、この奇跡のような時間が終わってしまうかもしれない。
俺は奥歯をギリギリと噛み締め、全身の力を込めて、暴走しそうな本能を必死で押さえ付けた。試合終了間際、1点差で負けている状況で、相手のマッチポイントを死に物狂いで凌ぐみたいに。
隣からは、
苗字さんの静かで規則正しい寝息が聞こえ始めた。本当に、安心して眠ってしまったのだろうか。それとも、これもまた、彼女の計算された行動なのだろうか。
どちらにしても、俺にとっては地獄のような試練であることに変わりはない。
この長い夜は一体、いつになったら明けるのか。
俺はこの甘くて苦しい拷問に、果たして朝まで耐え抜くことができるのだろうか。
答えは、まだ闇の中だった。
ただ、この胸の高鳴りだけが、やけにリアルに、俺の存在を主張し続けていた。
キュンとする、なんて生易しいものじゃない。これはもう、魂を揺さぶるレベルの、恋の衝撃波だ。