硝子色アフタヌーン

 彼の声が、誰かの笑い声と混ざり合って、教室の端から聞こえてきた瞬間、心臓が思わず跳ねた。けれど、それは命を刻む温かい鼓動ではなく、宛ら何かを踏み躙る音のように渇いて、冷たく響いた。  昼休み。梅雨の晴れ間の陽光が、埃をきらきらと舞わせながら教室に差し込んでいる。わたしは窓際の席で、文庫本を開いていた。そのページに印刷された活字の列を、意味を一文字も理解できないまま、ただ視線だけを落としていた。  五色くんは笑っていた。  わたしには向けたことがない、屈託のない、明るい笑顔で。頬まで染めて。  相手は、前の席の女子生徒。髪を緩く巻いていて、すれ違う度に甘ったるい香水の匂いがする。声が高くて、何を話していても、いつも楽しそうな彼女。  ――知らない、顔。知らない、声。知らない、五色くん。  鼻の奥がつんと痛んだ。焼けるような熱さと、氷を押し当てられたような冷たさが同時に襲ってくる。  指の間で薄いページが微かに震え、本の紙が拉げるような、か細い音がした。あの子に笑い掛ける顔を、わたしは知らなかった。わたしの知らない表情が、彼にはあった。  彼のことなら、わたしは全部知っているつもりでいたのに。 (……狡い)  それが、最初に思ったことだった。  誰よりも近くに居て、夜を共にして、背中に彼の温もりを受けながら朝を迎えてきた。彼の寝癖の付き方や、寝言の癖、眠っている時の静かな呼吸のリズムまで、わたしだけが知っている秘密だと思っていた。  ――それでも、彼は、わたしのものじゃない。 「……っ」  パタン、と本を閉じる音が、やけに大きく教室に響いた気がして、わたしは反射的にそれを膝の上に置いた。誰かがこちらを見ていないかと、無意識に周囲を窺ってしまう自分に吐き気がした。  わたしがどんな顔をして、彼を見ていたのか分からない。  ただ一つだけ、確かなことがあった。  ――これは嫉妬だ。  独占欲。  その言葉をはっきりと自分自身に向けるのは、思ったよりもずっと胸が苦しくて恥ずかしかった。  わたしは、五色くんが好きだ。  誰にも取られたくない。  けれど、彼の「彼氏になりたい」という切実な願いに応えて、「彼女になりたい」と返すのが、怖い。彼の重荷になりたくない。いつか、病弱だった頃のわたしに戻って、彼の隣に立つことさえできなくなったら? 彼の優しさに甘え過ぎて、嫌われてしまったら? いつか拒まれたらどうしようって、考えるだけで頭の奥が真っ白になる。  それで、代わりに言ってしまったのだ。  「一緒に寝てほしい」なんて。  身体に触れることは禁止。でも、同じベッドで、同じ布団を分け合って眠るくらいなら、友達以上、恋人未満。  丁度いい距離、なんて嘘だった。全然、丁度良くなんかない。本当は、ちゃんと触れてほしい。彼のものになりたい。そう、喉から手が出る程に願っている癖に。 (……狡いのは、わたし)  けれど、言えない。  言ったら、この硝子細工のように脆くて、でも温かい関係が粉々に壊れてしまう気がして。  五色くんが、他の誰かのものになる未来が怖かった。  でも、それ以上に、五色くんがわたしから離れてしまうのが怖かった。 「苗字さん」  不意に名前を呼ばれ、肩がぴくりと跳ねた。顔を上げると、そこに彼が立っていた。先程までの、あの知らない笑顔とは違う、少しだけ、きょとんとした表情。わたしを探していたのだろう、もうあの女子生徒とは話していない。 「……なに?」  自分でも驚く程、冷たい声が出た。  五色くんは一瞬、戸惑ったような顔をしたが、すぐに心配そうな眼差しで、わたしを覗き込んだ。 「なんか、元気なかったから。……具合、悪い?」  その声がどうしようもなく優しくて、苦しくなった。  違う。違うよ、五色くん。  わたしは元気じゃないけれど、今はもう病気でもない。  ただ、五色くんが誰かに笑い掛けているのが、嫌だっただけ。  それだけの子供みたいな我儘を、どうして素直に口にできないんだろう。 「……違うよ」  そう答えるのが精一杯だった。  五色くんはそれ以上、何も言わず、わたしの机の端に、そっと腰を掛けるようにして座った。教室の片隅、誰にも聞かれないようにか、少しだけ声を落とす。 「苗字さんが他の男子と話してたら、俺、嫌だなって感じると思う」  心臓が跳ねた。  ……違う。今度は、確かに温かい鼓動だった。  わたしは思わず、五色くんの顔を見上げた。 「どうして?」 「……理由は言えない。けど、嫌なんだよ。俺以外と話して笑ってたら。……その分、俺にはもっと笑っててほしいのにって、思う」  ――ああ、狡いのは、わたしだけじゃなかったんだ。  わたしが言えなかった言葉を、彼はこんなにも真っ直ぐに伝えてくれた。  わたしが一人で飲み込んだ筈の苦い感情を、彼も同じように抱えていた。  やっぱり、五色くんは優しい。そして、臆病で、わたしと同じように。 「……じゃあ、わたしのこと、独り占めにしたい?」  態と冗談めかして言ってみる。けれど、声が震えているのが自分でも分かった。  五色くんは驚いたように目を丸くして、ゆっくりと頬を赤く染めた。 「……したいよ。ずっと、そう思ってる」  その瞬間、胸の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて解けて、視界がじわりと滲んだ。 「……五色くん」  声が掠れる。  その名を呼んで、わたしはそっと手を伸ばした。  けれど、その指先が、彼の腕に触れる前に、自分で決めたルールを思い出す。 (――触れてはいけない。わたしが言ったから)  自分の言葉に、自分が縛られている。馬鹿みたいだ。  だけど、今は少しだけ、その雁字搦めの糸を弛めてみたいと思った。 「……ねぇ、夜になったら、話をしよう?」 「……うん」  五色くんが静かに頷いた。その瞳には安堵と、ほんの少しの期待が揺らめいているように見えた。  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。  わたしの胸の奥で燻っていた嫉妬の炎は、まだ完全には消えていない。  でも、その炎はもう、わたしを焼く為のものではなくなっていた。  それは、彼の心に灯る炎と共鳴して、二人を温める為の小さな、けれど確かな熱に変わろうとしている。  今夜、わたしはちゃんと、自分の言葉で伝えられるだろうか。  この臆病で、どうしようもなく彼を求めている、わたしの本当の気持ちを。  その答えはまだ、昼下がりの淡い光の中に溶けて、見えなかった。



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