聖域センチメンタル
∟小学五年生の秋、幼馴染の"ふに"が、俺の初恋を目覚めさせた。
意図しない身体接触、兄貴の描写が含まれます。
俺、五色工、小学五年生。
将来の夢は、日本のエースになって、オリンピックで金メダルを獲ることだ。
その為に、毎日バレーボールの練習をしている。父さんに買ってもらったボールは、もうすっかり手に馴染んでいた。
俺の家はマンションで、近くにはやたらデカいお屋敷が建っている。そこには、俺の幼馴染の
苗字名前が住んでいた。
名前は生まれた時からずっと隣に居る、特別な奴だ。
身体が弱くて、小学校にもあんまり来られない。だから、学校や用事が終わると、俺が
名前の家に行くのが、いつものことだった。
「工くん、来たのかい」
エントランスで呼び鈴を鳴らすと、いつも出てきてくれるのは、
名前のお兄さん、
兄貴さんだ。変な文字入りの服を着た、凄く綺麗な顔の大人。
「こんにちは!
名前、居ますか?」
「ああ、居るよ。庭だ。今日は、少し調子が良いらしい」
兄貴さんに促されて、俺は勝手知ったるように裏庭へ向かった。
そこは、お伽話に出てくるような庭だった。季節の花がそこら中に咲いていて、甘い匂いがする。その真ん中にある白いガゼボの椅子に、
名前は座っていた。
九月の始まりの、まだ夏の暑さが残る午後。
傾き掛けた太陽の光が、
名前の髪をきらきらと照らしている。血の気のない真っ白な肌が、今日は心成しか健康的に見えた。薄い水色のワンピースを着て、分厚い書籍を膝に載せている。
「
名前!」
俺が声を掛けると、
名前は本から顔を上げ、静かな目で、俺を見た。夜の海みたいな、吸い込まれそうな暗い瞳。
「工くん。いらっしゃい」
そう言って、薄い唇の端を少しだけ持ち上げる。それが、
名前の笑い方だった。
俺は、
名前の隣にどかりと腰を下ろして、今日、学校であったことをマシンガンのように話した。給食のカレーがお代わりできたこと。漢字のテストで満点を取ったこと。そして、体育の授業で、俺のスパイクを誰も取れなかったこと。
「すげーだろ! 俺、絶対エースになるからな! そしたら、
名前を試合に招待してやる!」
胸を張って宣言すると、
名前は「うん、楽しみにしている」と、静かに言った。
その落ち着いた声が、俺をドキドキさせる。最近、ずっとそうだ。
名前と話していると、胸の奥がむず痒くなるような、変な感じがする。
「そうだ!
名前に、俺の新しいレシーブを見せてやる!」
俺は立ち上がって、いつも持ち歩いているバレーボールをぽんぽんと弾ませた。
「いいか? こうやって、腰を低く落として……腕をこう! 面を作るんだ!」
一人でボールを上に放り、完璧なフォームでレシーブする。ぽーん、と綺麗な放物線を描いて、球が上がる。
「どうだ! かっこいいだろ!」
得意満面で振り返ると、
名前はぱちぱちと小さく拍手をしてくれた。
煽てられると、俺は直ぐに調子に乗る。
「もっとすげーの見せてやる!」
もう一度、ボールを高く放る。
だが、その時だった。どこからか吹いた不意の風に煽られて、球が変な方向に飛んで行った。
「あっ!」
ボールは、
名前の方へ向かって、一直線に飛んでいく。
「危ない!」
名前は驚いて椅子から立ち上がり、避けようとして、細い足を縺れさせた。水色のワンピースがふわりと揺れる。彼女の華奢な肢体が、ゆっくりと傾いでいくのがスローモーションで見えた。
「
名前っ!!」
考えるより先に、身体が動いていた。
俺は数歩で駆け寄り、倒れそうになる
名前の痩身を、思いっ切り抱き締めるようにして支えた。
その瞬間だった。
俺の腕に柔らかいものが、ふに、と当たった。
今まで感じたことのない感触。
なんだ? これ。
クッションみたいにふわふわで、でも、もっと弾力があって、ほんのりと温かい。
俺の両腕は間違いなく、
名前の胸元の辺りを支えていた。
いつも、ぺったんこだと思っていた、その場所に。
「……え?」
声にならない声が漏れた。
頭が真っ白になる。
バレーの試合で、相手の強烈なスパイクを顔面に食らった時みたいに、目の前がちかちかした。
名前の胸。
そこには、俺の知らない、小さな、でも、確かな"膨らみ"があった。
「……ありがとう、工くん。助かったよ」
腕の中で、
名前が頼りない声音で言った。
俺はハッとして、火傷でもしたみたいに、バッと彼女から身体を離した。
名前は何事もなかったかのように、さらりと髪を耳に掛ける。でも、よく見ると、透けるように白い耳朶が、夕焼けみたいに赤く染まっていた。
駄目だ。
顔面が熱い。
心臓が体育館の床を叩くボールみたいに、ドッドッドッと激しく鳴っている。煩くて、自分の鼓膜がおかしくなりそうだ。
名前の顔が、真面に見られない。
なんだ、今の。
なんだ、あの柔らかいの。
名前は、女の子で。
女子の胸は、あんな風になるのか…?
今まで、
名前は
名前だった。
か弱くて、俺が守ってやらなきゃいけない、大事な幼馴染。
でも、違う。
今、腕に残った感触が、
名前は"女の子"なんだと、俺に突き付けてくる。
それは、俺にとって未知の領域で、なんだか凄く、いけないことに触れてしまったような気がした。罪悪感と、ほんの少しの好奇心みたいなものがごちゃ混ぜになって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
気まずい沈黙が、庭の空気を重くする。虫の声だけが、やけに大きく聞こえた。
何か喋らないと。謝らないと。
でも、なんて伝えればいい?
「胸、触ってごめん」なんて、口が裂けても言えるか!
「ご、ご、ご、ごめんっ! 態とじゃ、態とじゃないんだ!!」
結局、俺の口から飛び出したのは、しどろもどろで裏返った情けない声だった。
俺の叫びに、
名前は僅かに目を丸くした。
そして、じっと俺の顔を見つめた後、ふわり、と花が咲くように小さく笑った。
それは、いつもの静かな微笑みとは少し違う、なんだか、とても綺麗な笑みだった。
「うん。知っている」
名前は静かに言った。
「工くんは乱暴なこと、しないもんね」
その言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
名前は怒ってない。
ほっとしたのも束の間、彼女は若干視線を逸らして、囁くような声で続けた。
「……それに、痛くなかったし」
「……」
「ちょっとだけ……くすぐったかった、だけだから」
くすぐったかった。
その一言が、俺の心臓に最後のトドメを刺した。
さっきより、もっと顔に血が集まるのが分かる。もう、爆発しそうだ。
守ってあげたい、と云う気持ちとは、何かが違う。
もっと胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、苦しくて、でも、心地好い。
この感覚は、なんだろう。
これが、父さんの言ってた、"恋"ってヤツなんだろうか。
その日、俺はどうやって自分の家に帰ったのか、よく憶えていない。
ただ右腕に残った、柔らかくて温かい感触だけが、いつまでも消えなかった。
それからだ。俺が、
名前のことを今まで通りに見られなくなったのは。
彼女が薄手の服を着ているのを見る度に、その日の出来事を思い出して、一人で勝手に赤くなっている。
バレーの練習に集中しろ、俺! 未来のエースだろ!
そう自分に言い聞かせても、頭の片隅にはいつも、恥ずかしそうに笑った
名前の顔が浮かんでくる。
小学五年生の、夏の終わり。
俺の中で、
苗字名前はただの幼馴染から、特別な"初恋の女の子"に変わった。
その甘くて、少しだけ苦い変化の始まりを、俺はきっと、一生忘れないだろう。