初恋パルス ∟幼馴染の身体に芽吹いた"女の子の兆し"に気づいた五色工は、父の"恋の定義"を思い出す。

五色父、兄貴が登場します。  どうやって自分の巣穴に帰り着いたのか、記憶の糸がぷっつりと途切れていた。  玄関のドアを開け、ふらふらと覚束ない足取りでリビングへ向かうと、ソファでテレビを見ていた父さんが、俺の顔を認めて片眉を上げた。 「お、工。お帰り。随分、赤い顔をしてるじゃないか。名前ちゃんの所で、熱でも貰ったか?」 「……ただいま」  絞り出した声は、自分じゃないみたいに掠れていた。父さんの問いに返事をする余裕もなく、俺は自室へ逃げるように駆け込んだ。ランドセルを床に放り出し、ベッドに倒れ込む。右腕が、まだ熱い。いや、熱を持っているのは腕だけじゃない。顔も、耳も、胸の奥深くも、全部が沸騰した薬缶みたいにぐらぐらと煮え滾っていた。  片腕に遺された、あの感触。  マシュマロよりも柔らかく、陽だまりを閉じ込めたみたいに温かい、未知の弾力。  それは、俺が守るべき華奢な幼馴染の身体に、いつの間にか生まれていた、聖域の兆し。  名前は"女の子"で、俺は"男の子"。  そんな当たり前の事実が、途轍もない質量を持つ鉄球みたいに、俺の胸にどすんと落ちた。  駄目だ。考えちゃ駄目だ。  バレーのことだけ考えろ。明日の練習は、ジャンプトスからのスパイクをちゃんと決めたい。将来、日本のエースになる為には……。  しかし、瞼を閉じれば、そこに浮かぶのはスパイクを打つ自分の姿ではなく、夕陽に照らされ、耳を赤く染めている名前の横顔だった。 『くすぐったかった、だけだから』  あの囁き声が、鼓膜の内側で何度も再生される。その度に、心臓が肋骨の檻を破って飛び出しそうな程、激しく脈打った。  この、胸を締め付けるような、息苦しいような、でも、どこか甘い痛みは、一体、何なんだ。  そう思った瞬間、俺の脳裏に、いつかの父さんの言葉が雷鳴のように響き渡った。  あれは、確か、小学四年生の冬。  その日、俺は珍しく落ち込んでいた。クラスの女子に「五色くんって、バレーのことしか頭にないよね。つまんないの」と、面と向かって言われたからだ。  自分ではそんなつもりはなかったし、寧ろ、バレー一筋なのは格好良いことだと信じていたから、その一言は存外に、俺の心を抉った。  夕食の席で、好物のカレイの煮付けを前にしても箸が進まない俺を見て、父さんが不思議そうに首を傾げた。 「どうした、工。カレイが嫌いになったのか?」 「……別に」 「ふぅん。じゃあ、何かあったんだな。言ってみろ。父さんが聞いてやる」  どっしりと構えた声に促されて、俺はぽつりぽつりと、今日、学校であったことを話した。女子に向けられた言葉、自分が酷くつまらない人間に思えてしまったこと。 「成る程な」  俺の話を黙って聞いていた父さんは、一度大きく頷くと、湯気の立つ白米を口に運び、ゆっくりと咀嚼してから言った。 「工。お前は、今のままでいい。一つのことに夢中になれるのは、立派な才能だ」 「でも……」 「でも、だ。いつか、お前にも、バレーと同じくらい……いや、バレーとは別枠で、夢中になれるものが出来るかもしれない」 「バレーとは別枠で、夢中になれるもの?」  そんなもの、ある筈がない。俺がそう怪訝な顔に書くと、父さんは悪戯っぽく笑った。 「あるんだな、それが。……"恋"ってヤツだ」 「コイ?」  鯉? 故意? どの漢字を当て嵌めたものかと、俺は小首を傾げる。  父さんは、少し照れ臭そうに頭を掻きながら、言葉を探すように天井を見上げた。 「そうだな……例えば、だ。誰かのことを考えると、胸の辺りが、こう、きゅうっと温かくなる。その子が笑うと、自分も嬉しくなる。逆に、その子が悲しそうな顔をしてると、世界の終わりみたいに辛くなる」 「……うん」 「その子の為なら、どんなことでもしてやりたいって思う。苦手なピーマンだって食えるし、宿題だって百ページできる。日本一のエースになる夢と同じくらい、その子の傍に居たいって、本気で願うようになる」  父さんはそこで言葉を切り、真剣な眼差しで、俺を見た。 「もし、お前にとっての好物、この世界一美味いカレイの煮付けよりも、その子の笑顔の方が大事だって思える日が来たら……それが、恋の始まりの合図だ」  その時は、よく意味が分からなかった。  カレイの煮付けより大事な笑顔なんて、この世に存在する筈がないとさえ思っていた。  だけど、今なら理解できる。  ベッドの上で、俺はゆっくりと身を起こした。  窓の外は、すっかり夜の闇に包まれている。  名前のことを考えると、胸の奥が温かくなる。  名前が静かに微笑むと、バレーの練習でスパイクが決まった時より、ずっと嬉しい。  身体が弱くて、時々辛そうにしている彼女を見ると、俺が代わってやれたらと、本気で願う。  名前の為なら、何でもできる。  試合に招待する約束も、絶対に守る。名前をオリンピックのコートサイドに連れていく。  そして――もし、神様が目の前に現れて、"世界一美味いカレイの煮付け"と"名前の花が咲くような笑顔"のどちらか一つをやると言われたら。  俺は、一秒も迷わない。  これが、父さんの語っていた、"恋"ってヤツなんだ。  その事実に辿り着いた瞬間、俺の世界は、まるでコートチェンジのように、がらりと景色を変えた。  今まで見ていた世の中は、実は白黒のテレビだったのかもしれない。名前と云う存在が、俺の物語に鮮やかな色を付けたのだ。  只の幼馴染。守ってやるべき、か弱い女の子。  違う。  苗字名前は、俺の、初恋の相手だ。  その夜は興奮と緊張で、殆ど眠れなかった。  翌日の放課後。  俺は逸る心を抑えながら、昨日と同じように、苗字家のエントランスで呼び鈴を鳴らした。心臓が、試合開始のホイッスルみたいに煩い。  ガチャリ、と重厚な扉が開いて、ひょっこりと顔を出したのは、やっぱり兄貴さんだった。今日のTシャツには、墨で書いたような達筆な文字で『概念を食す』とプリントされている。相変わらず、意味が分からない。 「やあ、工くん。今日も来たのかい」 「こ、こんにちは! 名前、居ますか!?」  初めての会話みたいに、声が裏返った。  兄貴さんは、俺の緊張を見透かしたように、面白そうに目を細める。 「ああ、居るよ。今日は自室で本を読んでいる。……工くん、何だか顔つきが変わったね。何か、良いことでもあったのかい?」 「えっ!? い、いえ! 何もないです!」  ぶんぶんと首を横に振って、俺は昨日と同様に、勝手知ったる廊下を進んだ。  名前の部屋の前に立ち、一つ深呼吸をする。コンコン、とノックをすると、中から「どうぞ」と云う静かな返事が届いた。  お邪魔します、と呟いてドアを開ける。  そこは本の匂いと、微かに甘い花の香りが混じり合った、静謐な空間だった。天蓋付きのベッドに腰掛けた名前が、こちらを見ている。今日はシンプルな白いブラウスを着ていた。 「工くん。いらっしゃい」  普段と変わらない、穏やかな声。  でも、俺にはもう、今までと同じには聞こえなかった。  名前の唇の動き一つ、瞬き一つが、スローモーションのように映って、俺の心臓を容赦なく揺さぶる。 「お、おう! 今日も来た!」  ぎこちなく応えて、俺は彼女の隣に、いつもより少しだけ距離を開けて座った。何を話せばいいのか分からなくて、無言で指先をもじもじと動かす。  気まずい沈黙。昨日と一緒だ。でも、あの時とは意味が違う。  不意に、名前が口を開いた。 「工くん」 「は、はいっ!」 「……昨日のこと、まだ気にしているの?」  夜の海を想起させる瞳が、俺の心をじっと覗き込む。  俺は、顔にぶわりと熱が集まるのを感じながら、慌てて首を振った。 「き、気にしてねーよ! 全然! あれは事故だし! 俺が、ボールのコントロールをミスったのが悪いんだし!」 「そう」  名前は短く答えると、ふい、と窓の外へ視線を移した。  その横顔が、一寸だけ寂しそうに見えたのは、きっと気のせいだ。  駄目だ、このままじゃ。  エースたるもの、こんなところで守りに入ってどうする。攻めろ、俺! 「先頭文字名前!」 「……なに?」 「あのさ! 俺、決めたんだ!」 「何を?」 「絶対に、日本のエースになる! それで、名前に……その、世界で一番良い席で、俺の試合、見せてやるから!」  勢い込んで宣言すると、名前はゆっくりと、俺の方へ向き直った。  その表情はいつもと同じ、静かで穏やかなもの。でも、その瞳の奥に、ほんの僅かな光が灯ったように見受けられた。 「うん」  名前は小さく頷くと、徐にそっと、俺の方へ手を伸ばした。  え、と固まっていると、名前の白くて細い指が、俺の服の裾を、きゅ、と控えめに掴んだ。 「……楽しみに、しているね」  囁くような声と、布越しに伝わる、明瞭な温もり。  それだけで、俺の心臓は幸福な悲鳴を上げた。  ぎこちなくて、まだ名前も付けられない、この温かい関係。  昨日までの"幼馴染"とは少し違う、でも、確かに地続きの、このほっこりとした空気。  俺は真っ赤な顔で、それでも精一杯の笑顔を作って、力強く頷いた。  ああ、神様。  やっぱり、カレイの煮付けよりも、こっちの方がずっといい。



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