恋心コンフュージョン ∟"ふに事件"の余韻が残る中、五色少年は恋のラリーに挑む。

 あの"ふに事件"から、数日が過ぎた。  俺の日常は、サーブ権が相手チームへ移った時みたいに、がらりと調子を狂わされていた。バレーの練習中、完璧なトスが上がっても、脳裏を過るのはスパイクを打ち込む瞬間の景色ではなく、夕陽に染まる名前の耳朶だった。その度にタイミングがズレて、ボールは無様にネットへと突き刺さる。自分でも信じられないくらいの、集中力の欠如。原因は火を見るより明らかだった。 「五色。お前、最近、どうしたんだ? 凡ミスが多いぞ」 「す、すみません! 次は決めます!」  チームメイトの呆れた声に、俺はコートに響き渡る大声で返事をする。だが、心の中は嵐だった。  エースたるもの、私情をコートに持ち込むなど言語道断。分かっている。頭では嫌と云うほど理解しているのに、一度色づいてしまった世界は、もうモノクロには戻せなかった。  そして、練習が休みの日、俺の足は吸い寄せられるように、苗字家の壮麗な門を潜っていた。  放課後のチャイムは、試合開始のホイッスルだ。俺と名前の、まだ名前も付いていない関係性の。  呼び鈴を鳴らす指が、僅かに震える。心臓が、審判の笛みたいに甲高く鳴り響いていた。 「おや、工くん。今日も律儀だね」  重厚な扉の向こうから現れたのは、矢張り兄貴さんだった。今日のTシャツには、掠れた筆文字で『人生の伏線回収中』と書かれている。作家らしい文言だが、意味はさっぱり分からない。 「こ、こんにちは! 名前は……」 「リビングだよ。今日は少し暑さが和らいだから、窓を開けて、風を入れている」  兄貴さんは、俺の緊張を見透かすように、悪戯っぽく目を細めると、「ごゆっくり」とだけ言い残し、書斎の方へ消えていった。  ごくり、と喉が鳴る。俺は覚悟を決めて、磨き上げられた廊下を進んだ。  リビングの出入口が、少しだけ開いている。そこから漏れ聞こえてくるのは、クラシックの穏やかな旋律と、頁を捲る微かな音だけ。俺は一つ深呼吸をして、そっと扉を押し開けた。 「……名前」  そこに居たのは、俺の心を乱す元凶。  九月の柔らかな西陽が差し込む、広々としたリビング。その中央に置かれたソファに、彼女は腰掛けていた。  今日の名前は、淡いミントグリーンの、ノースリーブのワンピースを着ていた。  その姿を認めた瞬間、俺の思考回路はショートした。  駄目だ。  あのワンピースは、駄目だ。  布地が薄い。腕が、首筋が、惜し気もなく晒されている。  そして、何より――あの日の、水色のワンピースよりも、身体の線が、僅かに、本当に僅かに、分かり易い気がする。  ぶわり、と顔に血液が逆流していくのを感じた。  右腕に、あのマシュマロよりも柔らかく、陽だまりみたいに温かい感触が、幻のように蘇る。 『くすぐったかった、だけだから』  あの囁き声が、頭の中でリフレインする。 「工くん。いらっしゃい」  本から視線を上げた名前が、不思議そうにこちらを見ている。夜の深淵を思わせる瞳が、俺の狼狽を映し出していた。 「顔、真っ赤だよ。廊下を走ってきたの?」 「ち、ちがっ……! 今日は、その、暑いからな!」  声が咽喉の奥で跳ねて、変な高さで飛び出した。俺は慌ててソファに向かうが、どこに座ればいいのか分からない。最近までは躊躇なく隣を選んでいたのに、今は彼女との距離感が掴めなくなっていた。結局、俺は名前から一番遠い、一人掛けのソファにぎこちなく腰を下ろした。 「……遠いね」  名前がぽつりと呟いた。その小声には、僅かながら寂しさの色が滲んでいるように聞こえた。  違う、そうじゃないんだ。避けたいワケじゃない。寧ろ、近くに行きたい。でも、行けない。行ったら、俺の心臓が持たない。 「そ、そんなことないだろ! この部屋が広いだけだ!」 「そうかな」  名前は小さく首を傾げると、読んでいた本を閉じて、ローテーブルの上に置いた。  静寂が気まずい。何か話さなければ。バレーの話題だ。俺には、それしかない。 「あ、あのな! 昨日の練習で、新しいコンビネーションを試したんだ! 俺がバックアタックに入るタイミングを、いつもより0.5秒、早くして……!」  マシンガンのように捲し立てる俺を、名前は静かに見つめている。その眼差しが痛い。俺は彼女の顔を直視できず、視線をあちこちに彷徨わせた。シャンデリア、壁の絵画、観葉植物……。だけど、どうしても視界の端に映るミントグリーンが、俺の意識を掻き乱す。  不意に、名前がソファから身を乗り出し、ローテーブルの中央に置かれた、水差しの方へ手を伸ばした。  何気ない動作。  でも、その所為で薄いワンピースの布地が、しなやかな身体のラインにぴたりと沿い、胸元の聖域の輪郭が、ほんの一瞬、強調された。 「ぐっ……!」  心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われ、俺は胸元を押さえながら、息を呑む。  タイムアウト! タイムアウトだ、俺!  閉じた視界。頭の中で警告音が鳴り響く。もう駄目だ。この空間は危険過ぎる。俺の本能が、全力で撤退を叫んでいた。 「……工くんは、面白いね」 「へっ!?」  瞼を開くと、名前がくすくすと、鈴を転がすように笑っていた。薄い唇の端が、綺麗な弧を描いている。 「さっきから、百面相をしているけれど。何か、変わったことでもあったの?」 「い、いや! 何もない! 断じて、何もない!」  ぶんぶんと首を横に振る俺の姿が、余程、可笑しかったのだろう。名前は尚も楽しそうに肩を揺らしている。  その笑顔に、俺の胸がきゅうっと締め付けられた。  綺麗だ、と思った。  カレイの煮付けよりも、何よりも。  その時だった。名前がふと、俺の腕に視線を落とした。 「工くんの腕、ちょっと日に焼けているよね。それに、バレーボールの跡が、痣みたいに残ってる」  そう言って、名前は注射の痕が浮かぶ細い腕と、俺の腕を見比べるようにした。  その無邪気な一言二言が、俺の理性に最後の一撃を食らわせた。  この腕で。  俺は、この腕で、名前を……。 「……っ、お、俺、もう帰る!」  思考が限界に達し、俺は勢いよく起立した。これ以上、ここに居たら、本当に爆発してしまう。  だが、焦ったのがいけなかった。立ち上がった拍子に、俺の膝がローテーブルの脚にぶつかり、天板の上のグラスがぐらりと傾いだ。 「危ない!」  叫んだのは、名前だった。  彼女は驚くべき速さで反応し、倒れる寸前のグラスを、その華奢な手でぱしりと押さえた。  そして、その瞬間。  同じくグラスを支えようと伸ばした俺の指先が、名前の白魚のような指に触れた。  ――ぴりり。  静電気が走ったかのような、微かな痺れ。  ほんの刹那の接触だった。だけど、俺には永遠の時間に感じられた。  熱い。  名前の手指は、ひんやりとしているように見えて、意外な程に温かかった。 「……っ!」  俺は火傷でもしたかのように、ばっと手を引っ込めた。  心臓が、体育館の床に叩き付けられたボールみたいに、激しく跳ね上がる。  名前は、何も言わなかった。只、自分の手許と、真っ赤になっているであろう俺の顔を、交互に見つめている。  その夜の海を想起させる瞳が、疑問符を覗かせて、僅かに揺れた。 「工くん」  静謐を破ったのは、名前の澄んだ声だった。 「は、はいっ!」 「……わたしのこと、嫌いになった?」  その問いは、予想の斜め上から打ち込まれた、超インナースパイクだった。  寂しげに伏せられた睫毛が、白い頬に影を落とす。そんな顔をさせたいわけじゃない。絶対に。 「そ、そんなワケないだろ!」  俺は、殆ど叫ぶように否定した。 「あるわけない! 嫌いになんて、なるわけが、ない!」 「じゃあ、どうして……そんなに避けるの」  責めるような響きはない。ただ純粋な疑問が、そこには在った。  もう、誤魔化せない。  ここで逃げたら、俺はエース失格だ。  俺は観念して、一度、ぎゅっと目を瞑った。そして、有りっ丈の勇気を振り絞って、口を開いた。 「……さ、避けてるわけじゃ、ないんだ」 「……」 「ただ……その……」  言葉が出てこない。喉がカラカラに乾いている。  それでも、伝えなければ。 「名前が……その、き、綺麗だから……上手く、話せないだけだ……!」  言った。  言ってしまった。  小学生の俺が捻り出せる、最大限の告白だった。  顔面から火を噴きそうだ。羞恥で、今直ぐこの場から消えてしまいたい。  恐る恐る瞼を開けると、名前は鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、目をぱちくりとさせていた。  そして、次の瞬間。  名前の透き通るように白い頬が、夕焼けの空みたいに、ふわりと淡く色づいた。 「……そう」  呟くような、小さな声。  名前は恥ずかしそうに視線を逸らすと、ワンピースの裾を爪先で弄びながら、囁くように続けた。 「……ありがとう」 「……」 「……わたしも、だよ」 「え?」 「わたしも……工くんと話していると、心臓が、凄く煩くなる」  その言葉はどんな応援よりも、俺の心に強く、深く響き渡った。  ぎこちなくて、不器用で、まだ名前を付けたばかりの、この温かい感情。  俺は、自分の肌が限界まで赤くなっているのを感じながらも、名前のその様子から、一瞬たりとも目が離せなかった。  ああ、神様。  やっぱり、カレイの煮付けなんかより、ずっと、ずっと。  その日も結局、どうやって家に帰ったのか、記憶が朧気だ。  只、指先に残る柔らかな温もりと、はにかむように頬を染めた名前の顔だけが、夏の終わりの陽炎みたいに、俺の胸でいつまでも揺らめいていた。  恋とは、なんて忙しくて、息苦しくて、どうしようもなく甘いものなんだろう。



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