プールサイドの英雄ポロネーズ
∟不可解さえも愛しい。
意識が水底からゆっくりと浮上するような、不思議な感覚に包まれていた。
目を開けているのか、閉じているのかも判然としない視界に、先ず飛び込んだのは、真夏の太陽に焼かれた白いタイルと、プールの水面が反射する幾何学的な光の煌めきだった。塩素の匂いが微かに鼻腔を掠める。どうやら、わたしはどこかのプールサイドに居るらしい。
非現実的な光景の中で、一際異彩を放つものが二つ在った。
一つはプールサイドに鎮座する、一台のグランドピアノ。漆黒の艶やかなボディが容赦ない陽光を吸い込み、鈍い光を放っている。そして、その前に座る人影。白鳥沢学園男子バレー部のセッター、白布賢二郎先輩だった。彼は何故か燕尾服の裾を翻し、鍵盤の上で滝みたいに指を滑らせている。奏でられているのは、ショパンの『英雄ポロネーズ』。水飛沫が白鍵に跳ねようと、蝉の声が荘厳なメロディに混じろうと、演奏は微塵も揺るがない。戦場のピアニストを彷彿とさせる悲壮な姿は、驚く程に優雅だった。
更に、もう一つ。
グランドピアノの直ぐ横で、わたしの恋人である五色工くんが、身体のラインがくっきりと浮かび上がる競泳用のブーメランパンツ一丁で、それはもう入念なストレッチに励んでいた。
「イチッ! ニッ! サン! シッ! ゴ・シ・キィィィ!!」
腹の底から絞り出す、どこか誇らしげな掛け声が、英雄ポロネーズの旋律と奇妙なハーモニーを奏でている。引き締まった背中から腰に掛けてのラインはしなやかな獣を思わせ、陽に焼けた肌の上を玉の汗が滑り落ちる。一挙手一投足が真剣そのものだった。
超絶技巧のピアノと、全身全霊のストレッチ。余りにもシュールな光景に、わたしは思考を放棄し、只、ぼんやりとそれを見つめていた。前衛的な舞台芸術の一場面みたいだ、とどこか冷静な自分が分析している。
ふと、場面が切り替わった。
先程までの真夏の喧騒が嘘みたいに消え失せ、今は薄暗いステージの上に立っていた。足許から冷たい空気が這い上がる。客席は闇に沈んで見えない。唯一つ、眩いスポットライトが円を描き、中心に佇む人物を照らし出していた。
工くんだった。
けれど、先刻までの姿とは、全く違っていた。工くんは白鳥沢学園バレー部のジャージを想起させる、鮮やかな紫色のツナギを身に纏っていた。それだけなら、まだ理解できたかもしれない。問題は、そのデザインにあった。
両胸の、丁度、乳首がある場所だけが、誰かがコンパスで描いて刳り抜いたかの如く、綺麗に、正確に、丸く切り取られていたのだ。
工くんは照明を浴び、マイクを握り締めている。表情は試合でスパイクを打つ寸前のように真剣で、凛々しい眉を寄せ、必死に何かを訴え掛けようとしていた。だけど、彼の口から発せられるべき言葉は音になることなく、虚空に吸い込まれていく。
聞こえない声。雄弁に存在を主張する、ツナギの穴から覗く肌。生々しいまでの質感に、わたしは金縛りに遇ったように動けなくなった。
「……っ!」
心臓が大きく跳ねた感覚と共に、意識が現実へと引き戻される。
瞼を開くと、見慣れた自室の天井が、薄明かりの中に浮かび上がっていた。窓の外からは、夜の紺色を溶かした空の色彩と、ひんやりとした朝の空気が流れ込む。隣のシーツは、もう冷たい。工くんはロードワークに出た後らしかった。
わたしはゆっくりと身を起こし、今し方まで見ていた夢の残滓を脳内で反芻した。
白布先輩のピアノ。工くんのストレッチ。衝撃的な紫のツナギ。
余りの奇天烈さに、思わずふふっと笑い声が漏れた。なんて脈絡のない、支離滅裂な内容だろう。わたしの無意識は、一体、何を考えているのか。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
寧ろ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
恋愛とは、こう云うことなのかもしれない、と不意に思った。
工くんの、バレーに打ち込む真摯で格好良い姿も。
時折見せる、少しばかり単純で空回りしがちなところも。
わたしの理解を超えた、紫のツナギみたいな不可解な部分でさえも。
全てが等しく自分の中に流れ込み、分かち難く刻み込まれる。良いところも、悪いところも、よく分からないところも、全部、纏めて"工くん"だと受け入れてしまうこと。
論理や理屈では説明のつかない、混沌としたイメージの奔流。それこそが、人を愛すると云う行為の本質なのかもしれない。
そんな哲学的な思考に耽っていると、玄関のドアが静かに開かれる音が聞こえた。
きっと、世界で一番格好良くて、多分、世界で一番面白い恋人が帰ってきたのだろう。
この奇妙な夢の話を、工くんはどんな顔をして聞くのだろうか。彼の反応を想像するだけで、また自然と口許が綻んだ。

夜明け前の冷たい空気を切り裂くように走り続け、全身から吹き出した汗が顎を伝って地面に落ちる。もっと速く、もっと高く。牛島さんの圧倒的な存在感に、少しでも近づきたい。その一心でペダルを漕ぐみたいに脚を動かし、気づけばいつもより長い距離を疾走していた。
「ただいま……」
息を切らしながらマンションのドアを開けると、リビングのソファで、
名前が静かに本を読んでいた。朝の柔らかな光が横顔を縁取り、まるで一枚の絵画に見えた。俺の存在に気づくと、彼女は手許から視線を上げ、俺を吸い込まれそうな程に深い色の双眸で捉えて、ふわりと微笑んだ。
「お帰りなさい、工くん。お疲れ様」
その声と笑顔だけで、鉛のように重かった身体が嘘みたいに軽くなる。俺は「ああ」と短く返事をするのが精一杯で、シャワーを浴びる為に急いでバスルームへ向かった。
汗を流し、ジャージに着替えてリビングへ戻ると、ローテーブルの上で、
名前が淹れてくれた温かいお茶が湯気を立てていた。彼女の隣にどかりと腰を下ろし、湯呑みを手に取る。ふぅ、と一息吐くと、躰の芯から疲労が溶け出すようだった。この穏やかな時間が、俺にとっては何よりの宝物だ。
「そう云えば、面白い夢を見たんだ」
唐突に、
名前がそんなことを切り出した。
「夢? どんな夢だ?」
名前の話は時々、予想もしない方向へ飛ぶことがある。だが、それがまた面白くて、俺は身を乗り出し、先を促した。
名前は楽しそうな、些か悪戯っぽい光を瞳に宿しながら、淡々と夢の内容を語り始めた。白布さんがプールサイドでグランドピアノを弾いていたこと。俺がその横で、水着姿でストレッチをしていたこと。
「俺がストレッチ? しかも『ゴ・シ・キ!』って叫びながらか? ……うーん、まあ、夢だし、有り得なくはない、な」
自分のことながら、真面目にそう叫んでいる姿が容易に想像できてしまい、少しだけ気恥ずかしくなる。白布さんのピアノは全くイメージが湧かないけど、あの人なら何だって完璧に熟しそうで、変に納得してしまった。
「それでね、その後、場面が変わったんだ」
名前は一度言葉を切り、俺の顔をじっと見つめた。何だか、嫌な予感がする。
「工くんが、紫色のツナギを着ていたの。でも、乳首のところだけ、丸く破けていて」
「………………は?」
一瞬、
名前が何を言っているのか理解できなかった。
むらさきの、つなぎ?
ちくびの、ところだけ、まるく、やぶけている?
頭の中で、その単語達が意味を成さずにぐるぐると回り始める。思考が完全に停止した。じわじわと、言葉の意味が脳に染み渡るにつれて、顔中の血液が一気に沸騰するのを感じた。
「な、ななな、な、なんで、そんな夢を見るんだよ!? 俺は! そんな! 変態みたいな服は絶対に着ない!」
声が裏返る。全力で否定するが、
名前は「うん、知っているよ。でも、夢だから」と、どこまでも冷静だった。彼女の表情は真剣そのもので、揶揄っている様子は微塵もない。だからこそ、余計に羞恥心が込み上げる。何故だ。何故、俺の乳首は、
名前の夢の中で、そんな目に遭わなければいけないんだ。
一人で混乱の渦に飲み込まれていると、
名前はふっと息を吐き、窓の外に視線を移しながら呟いた。
「恋愛とは、不思議なものだね」
「は……?」
「夢の中の工くんは、とても真剣な顔をしていた。きっと、わたしに何かを伝えたかったんだと思う。例え、格好が少し、その、独創的でも」
名前の言葉に、俺はハッとした。
そうだ。彼女は夢の中での奇妙な姿を嘲笑ったり、馬鹿にしたりしているんじゃない。その奥に在る筈の「何か」を熱心に読み取ろうとしてくれている。
この掴みどころがなくて、突拍子もなくて、不思議なところ。誰も思い付かない角度から物事を見て、自分だけの答えを見つけ出すところ。
そう云う、俺にはない全てを、俺は愛しているんだ。
乳首が破れたツナギの姿にされたからって、何だって云うんだ。
寧ろ、そんな意味不明な夢に登場するくらい、
名前の脳内は、俺のことでいっぱいだってことじゃないか?
……そうだ、きっとそうだ!
「
先頭文字、
名前……」
気づけば、俺は彼女の名前を呼んでいた。恥ずかしさで真っ赤になった顔を見られないよう、少し俯く。
「なぁに、工くん」
「その……俺も、
名前の夢を見ることがある」
「ふぅん、どんな夢?」
彼女が小首を傾げる。仕種が可愛くて、心臓が大きく鳴った。
「そ、それは……絶対に言えない! でも、兎に角! 俺は、
名前のことが……す、好きだ!」
結局、込み上げる感情を上手く形にできなくて、有りっ丈の想いを込め、一番シンプルな告白を叫んでいた。語彙力なんて、この際、どうでもいい。
一瞬、きょとんとした
名前は、次の瞬間、春の花が咲くように、殊更綺麗に微笑んだ。
「わたしもだよ、工くん」
恋愛とは何か。
そんな難しい問いの答えは、まだ分からない。
だけど、こんな風に奇妙な夢の話で笑い合えて、相手の理解できない部分でさえ愛おしいと思い、どうしようもないくらい「好きだ」と云う気持ちが胸から溢れること。
それがきっと、今の俺達にとって、唯一無二の答えなのだろう。
俺は熱いままの頬を隠すように、目の前の愛しい恋人を力いっぱい抱き締めた。
名前の甘い香りがして、俺の心臓はもう、どうにかなってしまいそうだった。